THE STORY
山内溥の物語
選んだ道。その先で、起きたこと。
01花札屋の跡取り
京都に残っていた家業
地理データ:Natural Earth(パブリックドメイン)。 湖の補助データ:© OpenStreetMap contributors(ODbL)。使用データ。現代の地理と都市の代表位置。出生宅・移動経路ではありません。編集部作図。
1927年、山内溥は京都に生まれた。任天堂という会社も、札を作る職人も、商品を届ける商売も、彼が生まれる前からそこにあった。曾祖父の山内房治郎が花札作りを始めたのは1889年。溥の前には、次に自分が引き継ぐ家業が置かれていた。[1][2]
小さな札に季節の花や鳥を描く。人がその札を手に取り、遊ぶ。任天堂の仕事は長い間、その繰り返しだった。後のマリオやゲームボーイの姿はまだない。会社が蓄えていたのは札を作る技術と売り先、そして何十年も続いた家の信用だった。
幼い溥のそばからは父が去った。彼を育てたのは祖父の積良と祖母だった。任天堂を率いる祖父の庇護の下で育つ一方、父が身近にいない少年時代を過ごす。やがて経営を渡される相手も、その祖父になる。[3]
法律の勉強をやめる
溥が17歳だった1945年、日本は敗戦を迎えた。京都も戦争の外にあった街ではない。市東部の住宅や寺院が並ぶ馬町などが空襲を受け、暮らしは戦争に左右された。戦時の勤労を経た溥は、戦後に東京へ出て早稲田で法律を学んだ。[4][3][5]
その学生生活を途中で終わらせることになった。祖父の後を継がなければならない。1949年、溥は大学を離れ、任天堂の3代目社長に就く。まだ20代初め。会社には、自分が生まれる前から札の仕事を知る年長者がいた。[1][5]
山内は後年、初めから熱心に経営を志していたわけではないと振り返っている。それでも引き受けた以上、働く人の給料も、商品の売れ行きも、自分の決断から離れない。東京で法律を学ぶ青年の予定は、京都の花札屋をどう続けるかという仕事に変わった。[5]
02札の外へ出たい
ミッキーに売ってもらう
若い社長は、受け継いだ札の形を変えた。1953年、任天堂は日本初のプラスチック製トランプの量産を始める。紙より折れにくく、汚れにも強い札を売る。遊びそのものを発明し直さず、使う道具を変えて客に選んでもらう仕事だった。[6]
1959年にはディズニーのキャラクターを描いたトランプを発売した。ミッキーマウスたちなら、札遊びを知らない子どもにも分かる。大人向けの印象が強かった商品が、子どもの欲しがる商品へ近づいた。任天堂の公式史は、このトランプで子ども向けのカード市場を開いたと記している。[1]
当時の任天堂は、よその会社が育てた人気者の力を借りる側だった。マリオの使用許可を求めて他社が訪ねてくるのは、まだずっと後のことである。
タクシーとラーメン
1962年、任天堂は上場した。翌年には社名から「骨牌」を外し、任天堂株式会社へ改める。山内が札の外に探した商売には、タクシーも、ふりかけやラーメンなどの食品もあった。[6][7]
どれも後のゲーム会社からは遠く見えるが、当時は売上を作ろうとして始めた新事業だ。試してはうまくいかず、別の商売を探す。札の材料や絵柄を変えたときのような手応えは、簡単には続かなかった。[7]
電子技術の専門家だったわけでも、自分でゲームを作れたわけでもない山内に、会社を違う方向へ動かす手掛かりを渡したのは、工場へ入ってきた若い社員だった。
03伸びる手を作る青年
工場の技術者を開発へ
横井軍平は工場の設備に関わる仕事で任天堂へ入った。その横井が作ったのが、手元を操作すると先端が伸び、離れた物をつかめる仕掛けだった。1966年、ウルトラハンドとして売り出される。[8]
道具なら、手を伸ばさずに物を取れることが便利さになる。玩具なら、伸ばしてつかむ動きそのものが面白さになる。山内はこの仕掛けを商品にし、横井は新しい遊びを考える仕事へ進んだ。ウルトラマシンなど、別の玩具も生まれた。[8]
試作したものが社長に届き、採用されれば工場で作って店へ出る。横井の案と山内の判断の間に、長い距離はなかった。社長が金を使うと決めれば、機械を直す社員の工作が、会社の新商品になる。その後の任天堂でも続く関係がここで動き始めた。
部品を運んできた上村
電子の遊びに必要な相手は、外からもやってきた。シャープの上村雅之は1968年、光センサーを売り込むため任天堂を訪ねた。横井がその部品に興味を示し、光線銃へ組み込む仕事が始まる。上村は自分の車に部品を積んで運んだ。[9]
そのうち部品を買う側が、営業に来る本人を欲しがった。専務の沢井末造は、会社を変えるために横井を助けてほしいと上村を誘う。大手電機メーカーを辞めて玩具会社へ移る。周囲から引き止められたが、上村は1971年に任天堂へ入った。[9]
彼が持ち込んだのは電子回路の知識だけではなかった。技術が足りなければ誰に聞くか、試作する部品をどこへ頼むか。その連絡先も持っていた。横井が仕掛けを考え、上村が電子の部分を仕上げる。社内の発想を、外の技術と結ぶ人が加わった。
04100万セットの後始末
売る勢いに製造が追いつかない
1970年に登場した光線銃SPは、光を使って命中を判定する玩具だった。山内は売れると判断すると、作る数も大きくした。設計に関わった岡田智は、100万セットという生産の話を山内が持ち出したと振り返っている。[10]
同じ部品を大量に買えば単価を下げられる。だが組み合わせた部品の精度や品質には問題があり、売れた先から不良や返品が戻ってきた。設計者は社長に呼び出される。作った物を直さなければ、次の仕事へも進めない。大量生産の号令は、大量の後始末にもなった。[10]
横井たちが考えた遊びを、同じ品質で何十万、何百万と作る。その仕事は、面白い試作品を1個作ることとはまるで違った。山内は新しい玩具の売上をつかむと同時に、売った後も会社から離れない問題を抱え込んだ。
ボウリング場を射撃場にする
次の構想は、もっと大きかった。流行が去ったボウリング場へ、光で遊ぶ射撃システムを入れる。家庭用の光線銃が1台5000円ほどなのに対し、レーザークレーは一式で数百万円に及ぶ設備だった。1973年5月、京都のボウリング場跡に第1号店が開く。[11]
スクリーンに射撃場を映し、飛んでいく皿を追わせる。命中した信号をどう伝えるかで、電波を試し、うまくいかなければ光通信へ変えた。シャープや他の電子機器・半導体メーカーにも協力を求め、ようやく完成までたどり着く。反応はよく、国内外から注文が届いた。[11]
上村たちは注文に応じて部材を追加発注し、生産体制を広げた。そこへオイルショックが来た。客が投資を止め、注文は次々と取り消される。任天堂には、客が買わなくなった装置のために先に払った費用が残った。山内は後に、このとき会社がつぶれることまで覚悟したと語っている。[11][7]
札の外へ出ようとして、また事業が崩れた。しかも今度は、開発も量産の準備も進めた後だった。社長になって20年以上。のちの世界的なゲーム企業は、まだ次の柱を探す会社だった。
052人で次を当てる
仕事に見えない仕事を残す
危機の後、横井と岡田の第1開発部が2人だけになった時期がある。岡田の講演に残る山内の方針は、給料は出すから大きなものを当てろ、というものだった。[12]
返品が戻り、施設への注文が消えた会社で、今すぐ売れるか分からない試作を続ける。山内はその2人を残した。次の商売を見つけるために、まだ売上を生まない時間へ金を払うことになった。
横井の発想を商品にしてきた社長も、次に何が当たるかを具体的に渡せるわけではない。新しい遊びを形にして持っていくのは開発者の仕事だった。少人数の現場では、作っては触り、直しては試す仕事が続いた。[12]
9800円でテレビにつなぐ

写真:Artistosteles/出典/CC BY-SA 4.0。表示用の縮小・圧縮。
1977年、任天堂は三菱電機と組んだカラーテレビゲーム6と15を発売した。6は9800円、15は1万5000円。家庭のテレビにつなぎ、内蔵されたゲームを遊ぶ機械だった。上村が後に強調したのは、当時の製品としての安さである。[13]
ボウリング場の経営者に何百万円もの投資を決めてもらう代わりに、家庭へ9800円の商品を届ける。必要な部品を低価格で作るには半導体メーカーの力が要り、任天堂の開発者は三菱電機へ通って回路の仕事を学んだ。レーザークレーでできた技術者同士のつながりも、電子の玩具を作る仕事に残っていた。[11]
ただし遊べる内容は本体の中で決まっていた。別のゲームを売るには、別の機械を作る。この先、任天堂はその売り方を変えていくことになる。
06若いデザイナーの席
父の紹介で面接へ
宮本茂が任天堂へ入ったのも1977年だった。美術を学んでいた宮本は、人が使う量産品を作りたかった。父が山内と知り合いだったことから面接につながり、採用された。[14]
電子の技術者が増える会社へ、絵や形を考える青年が加わった。宮本は筐体や商品のデザインをし、横井から学び、やがてゲームの中身を任される。山内が回路を組めないのと同じように、彼に代わって絵を描く人も必要だった。[15]
その距離は近かった。宮本は後に、当時の自分の上役は山内だったと語っている。社長の商売の判断は重い。それでも宮本には、キャラクターの色まで決めないでほしいと伝える余地があった。遊びの表現について、社長がすべてを自分の好みに寄せたわけではない。[16]
07ポケットへ入った電卓の技術
不可能だと返された企画
時計のように持ち歩ける小さなゲーム。その案を山内へ出すと、電子機器を扱う第2開発部へ渡された。横井と岡田の2人だけで進めるより、専門の人員がいる部署へ任せる。ところが、そちらからは技術的に不可能だと返ってきた。[10]
2人は紙の説明を重ねる代わりに、動く物を作り始めた。会社に実績のある部署が難しいと答えても、そこで話を終わらせなかった。完成後には、逆に第2開発部などから人を迎え、増えた仕事を分け合うことになる。企画を引き取った小さなチームが、新商品の開発を引っ張る側へ変わった。[10]
A4の試作機から始める
1980年、ゲーム&ウオッチが発売された。第1作の『ボール』では、小さな液晶画面に映る人を動かして球を受け止める。使ったのは電卓にも使われるチップだった。数字の形を表示する技術を、人物や球の形を出す遊びへ転用したのである。[17]
完成品はポケットへ入る。だが試作品はA4ほどの大きさがあった。原稿をフィルムにし、アクリルを切り、小さな電球を並べる。電球を点けて動きを確かめ、横井の確認を受けてまた直した。表示できる絵が限られる中で、動きがつながって見え、球を取ったつもりなのに失敗にならないよう調整を重ねた。[18]
画面を2つにした1982年の『ドンキーコング』では、折り畳む部分を研究するため化粧用のコンパクトまで買ってきた。手元を見ずに操作できる十字ボタンは、削った試作品を横井に触ってもらい、何度も作り直す。中央のくぼみまで、指で確かめて形を決めた。[19]
作った人が包装を叱られる
ゲーム&ウオッチは新作ごとに本体も買う商品だった。現場ではほぼ月1作の勢いで次を作り、少人数でデザインやソフト、宣伝の仕事まで担った。後年の集計は世界4340万個。開発者の中には、対談で初めてその合計を知った人もいた。[20][21]
クリスマスになると、その開発者たちも店頭の応援に出る。自分たちが作った商品を包装して、店の人に下手だと注意される。加納誠は、孫にせがまれた祖母が値段を見て買えないと答えた場面を覚えていた。5800円ほどの商品は、子どもの玩具として安くなかった。[21]
会議で売れると決まった商品が、売り場で必ず買ってもらえるわけではない。開発者はそこまで含めて、自分たちの商品の値札を見た。山内が求めたヒットを作る仕事は、机の上の試作品から店頭まで続いていた。
08ポパイの代わりにゴリラが来る
もっと売れるゲーム
同じ1980年、任天堂は米国法人を設けた。現地を任せた荒川實は山内の娘婿だった。京都で作ったものを海の向こうで売るには、店と交渉し、現地の人が何を面白がるかを知る経営者が要る。[6][22]
ゲームセンター向けでは、任天堂はまだ大ヒットをつかみきれていなかった。山内は宮本に、もっと売れるゲームを作るよう求めた。宮本は他社のゲームを遊んで調べる。何度も金を入れる客は、どこで負け、何をもう1度やりたくなるのか。自分も遊ぶ側になって、次のゲームを考えた。[15]
主役を作り直す
企画の出発点では、ポパイを使おうとしていた。主人公がいて、恋敵がいて、助けたい女性がいる。その関係をゲームにする。ところがポパイを使わない方針になり、自分たちで別の登場人物を作ることになった。[15]
大きなゴリラが女性を連れ去り、主人公が追い掛ける。転がる樽とはしごのある画面で、ジャンプを加えたことで遊びが変わった。1981年、『ドンキーコング』が登場する。小さな主人公は、後にマリオとして育っていく。[15][6]
ディズニーの人気者を札に載せていた会社が、自分たちの人気者を持ち始めた。山内の指示は売れるゲームを作れ、だった。その答えを独自のキャラクターと遊びに変えたのは、仕事を任された若いデザイナーたちだった。
09社長から自宅へ電話が来る
3年は追いつかれない機械
1981年11月、上村の自宅へ山内から電話が入った。ゲーム&ウオッチの次として、テレビゲームを上村の部署でやらないかという話だった。今度はソフトを内蔵するのでなく、カセットを入れ替える方式にする。さらに競争相手が3年間出てこないような機械を求めた。[23]
何を作ればその条件になるか、図面が渡されたわけではない。上村が仕様に落とし、部品を作る会社を探す必要がある。頼りにしたいシャープは、ゲーム&ウオッチの仕事で忙しかった。山内はそちらへ新しい仕事を重ねないよう求めた。上村は古巣以外の相手を探すことになる。[23]
稼働率1割の工場
2か月もしないうちに、リコーから工場を見に来ないかと連絡が来た。新しい半導体工場なのに稼働率は1割ほど。任天堂には新しい機械の部品が要り、相手には設備を働かせる注文が要る。しかもそこには、以前テレビゲームの回路で任天堂に協力した技術者がいた。[24]
上村が持ち出した目標は、仕様書の細目より分かりやすかった。『ドンキーコング』が動く物を作れるか。ゲームセンターの大きな基板で動く遊びを、小さなチップで家庭へ持ち帰る。リコーの技術者たちにも、完成させたい姿が見えた。[24]
ゲームが動くだけでは足りない。音、画面の動き、記憶する容量、そして値段。山内が求める条件を満たそうとすると、どこかを足すたびに別のところを削ることになる。テレビゲームを作る経験と、外のメーカーの設備を合わせながら、家庭用の機械が形になっていった。
101万4800円のファミコン
本体だけで取り返さない

写真:Evan-Amos/出典/PD-self。表示用の縮小・圧縮。
開発途中の価格は1万5000円を大きく超えていた。上村たちは、本体だけで採算を取るのでなく、その後に売るソフトまで含めて考えた。しかしゲームを記録するROMを大量に作ってくれる会社も、すぐには見つからない。[25]
助けになったのは東芝だった。ワープロの文字を収めるROMに取り組んでいた技術が、ゲームの量産にもつながった。山内が安く売る方針を出し、技術者が部品を探し、別の産業で育った仕事をつないでいく。[25]
1983年7月15日、ファミリーコンピュータ、通称ファミコンが発売された。価格は1万4800円。同じ本体に違うカセットを挿せば、新しいゲームで遊べる。ゲームが増えるたびにテレビにつなぐ機械を丸ごと買わずに済む。[26][27]
ソフトが欲しくて本体を買い、本体を買った人がまた別のソフトを求める。任天堂は家庭のテレビのそばに、自社の新作を売り続けられる場所を持つことになった。
クリスマス前の出荷停止
ところが、その本体から不具合が出た。『ドンキーコングJR.』のバナナが飛び、『ベースボール』のボールや白線が消える。画像を表示するチップの発熱が原因だった。山内はクリスマス商戦を前に、不良の対象ロットを出荷停止し、回収する判断をした。[28][29]
上村は外注先を車で回り、在庫や回収品を運び込んで直した。工場長にも叱られた。売れる時期に工場から商品を出せず、開発した本人が修理のために走る。競争相手の商品も店頭にある中で、任天堂は発売初年からこの後始末を抱えた。[28]
操作ボタンにも問題が出る。四角いボタンが押し込まれたまま戻らない。開発では100万回の打鍵テストをしていたのに、家庭の子どもたちが使うと壊れた。さらに当時はテレビのアンテナへつなぐため、接続を間違えてテレビが映らなくなったという苦情も来た。ゲームの面白さまで届く前に、直す仕事が幾つも待っていた。[29]
上村によれば、ファミコンが100万台へ達したのは発売11か月後だった。品薄になったのも、売り惜しんだからではなく製造が追いつかなかったからだ。後に6191万台を売る機械の最初の年には、動く商品を十分な数だけ届ける難しさが詰まっていた。[29][30]
11ゴリラをめぐる法廷
1億8000万ドル(約283億円)を守る
『ドンキーコング』の成功には、別の争いもついてきた。映画『King Kong』をめぐり、Universalが任天堂を訴えた。名前やゲームが同社の商標などを侵害するという主張だった。[31]
裁判の記録に出てくる事業規模は、米国とカナダで約6万台のゲーム機、1億8000万ドル(約283億円)を超える売上だった。ここで権利を侵害したとされれば、成功した商品そのものが大きな負担になる。任天堂は法廷でも商売を守らなければならなかった。[31]
1984年、米国の控訴裁判所は任天堂側の勝訴を維持した。客が両者の商品を混同するかなどが審理された結果だった。現地の経営陣と、ジョン・カービーら弁護士が対応を担った。京都で新作を選ぶ判断だけでなく、米国の制度の中で争う仕事まで、任天堂を支える人々の役割が広がっていた。[31]
訴えた映画会社が賠償する
相手の要求は、任天堂の社長室へ届くだけでは済まなかった。Universalは『ドンキーコング』の商品を扱う会社にも、販売をやめるか、自社の許可を得るよう迫った。ゲームの人気を使って別の商品を売ろうとした取引先まで、映画会社との交渉へ巻き込まれた。任天堂へ使う許可を取ったのに、それだけでは安心して売れなくなる。[32]
しかもUniversalは、以前、King Kongの原作の物語は著作権で独占されていないと主張していた。その自分たちが、今度は排他的な権利を根拠に代金を求める。1986年の控訴審は、その商標権がないと知りながら訴訟で利益を得ようとした行為を厳しく批判し、取引妨害や著作権侵害に対する任天堂側への賠償などを維持した。訴えられたゲーム会社が、今度は映画会社のやり方を問う側になった。[32]
任天堂の要求が全部通ったわけではない。Universalが別の取引先から得た金まで、自分たちへ返すべきだという主張は認められなかった。それでも、遊びを作った後に、その遊びで商売をする道を守ることができた。次の作品へ金を使うためにも、米国の人々が引き受けたこの戦いには意味があった。[32]
12マリオのヒットを知らせる電話
ホテルの部屋で聞いた手応え
1985年、『スーパーマリオブラザーズ』が発売された。右へ進み、走り、跳び、隠れた場所を探す。ゲームセンターで100円を入れて遊ぶ作品を家庭へ運ぶだけでなく、家で何度も続きを知りたくなる世界を作った。[33][34]
上村は、作られていることさえ知らなかったという。次の機器の仕事で忙しく、任天堂の中でもディスクシステムの準備が進んでいた。大々的な期待が先にあり、それに応えて売れたという登場ではなかった。触った人たちが夢中になり、人気が広がっていく。[33]
発売後、上村が東京へ出張したときのことだった。山内と同じホテルに泊まり、仕事を終えて部屋へ戻ると電話が鳴った。社長の部屋へ来るよう呼ばれたのである。そこで聞かされたのが、スーパーマリオはものすごいヒットになりそうだ、という知らせだった。上村は、その日をはっきり覚えていた。[33]
許可を求める側から求められる側へ
マリオを使いたいという会社が押し寄せた。任天堂にはまだ専門のライセンス部署がなく、総務が対応を引き受ける。担当者がその仕事に掛かりきりになるほど、申し込みが来た。[34]
今度は任天堂が、人気者の使用を認める側だった。ただし山内は、マリオに続いてゼルダまで同じように許諾することを止めた。今西紘史が覚えていた理由は、ゼルダではマリオに勝てないという判断だ。キャラクターを次々に外へ出すのでなく、まず強い1つへ集中する。自分たちの顔が売れるようになっても、広げる先まで社長が選んでいた。[34]
13ニューヨークで売れ
店が置きたがらないゲーム機
米国での家庭用ゲーム機販売は、日本の人気を持っていくだけでは始まらなかった。ゲーム市場の急縮小を経験した店は、また売れ残る商品を仕入れることを恐れた。任天堂は本体の外観を変え、Nintendo Entertainment System、NESとして市場へ出す準備をした。[35]
営業を担うブルース・ローリーたちには、小さな地域で試して直す案があった。山内が選んだのは、米国東海岸の大都市ニューヨークだった。最も目立つ市場でやる。会議にいたローリーは、その決定を記憶していた。[35]
現地のチームは店を回り、自ら商品を運び、展示を組んだ。返品のリスクを抑える条件も用意し、実際に触ってもらう場所を作る。京都で決まった方針は、米国では店ごとに受け入れてもらわなければならなかった。1985年秋、ニューヨーク周辺で試験販売が始まった。[22]
荒川たちの仕事が販売地域を増やしていった。山内の強い注文を、新しい市場の売上へ変えるには、断られる店頭へ足を運び続ける人々が要った。
14500円で次のゲームへ
カセットの品質まで引き受ける
本体が売れると、他のソフト会社もファミコンへ来る。ところが、それぞれが独自にカセットを製造して不良を出すと、苦情は任天堂へも届いた。遊ぶ人には、買ったゲームが動かない機械は任天堂の機械なのである。[29]
任天堂は、ソフトを作る会社に許諾を出し、カセットの製造と品質を管理する制度を整えた。今西によれば一通り完成したのは1986年1月ごろ。本体発売時から設計し尽くされていた制度でなく、トラブルに追われながら作った仕組みだった。[29]
どの会社がソフトを出し、どんな商品が家庭へ届くか。任天堂がそれを管理する側になるにつれ、本体を持つ家庭の数は、取引先への力にもなっていった。
同じディスクを書き換える
1986年2月にはディスクシステムが登場した。ファミコンへ専用装置をつなぎ、磁気ディスクのゲームを読み込む。途中の進み具合を保存し、別の日に続きを遊べるようになる。[36]
しかも店の書換機へディスクを持っていけば、一部の例外を除いて500円で中身を別のゲームに変えられた。新品のカセットを毎回買う代わりに、手元のディスクを持って店へ行く。子どもには次の遊びを手に入れる別の道ができ、任天堂には同じ本体を持つ客へ繰り返し新作を届ける方法が増えた。[36]
15白黒で外へ持ち出す
功労者の案も通らない

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ゲーム&ウオッチの次に、カセットを替えて遊べる携帯機を作る。その開発で、横井と岡田の考えは分かれた。横井はそれまでの経験を使って1年ほどで作る案を考え、岡田は3年掛けて準備するべきだと主張した。山内が選んだのは岡田の側だった。[12]
液晶も難しかった。斜めから見ると分かりにくい画面に、山内は厳しく反応した。岡田たちは方式を変え、費用を見ながら画面の大きさも調整する。山内の合格を取るまでに、技術者の案を変える作業が続いた。[37]
1989年、ゲームボーイが発売された。画面は白黒だった。カラーの華やかさより、電池が長く持ち、日光の下でも見やすいことを選ぶ。家の中で眺める画面と、外へ持ち歩く画面には違う条件があった。[6][38]
まだ使い切れない端子を残す
本体には通信のための端子もつけた。岡田は、対戦などへ使える可能性を残した。その時点で、後にどんな大ヒットへつながるかを見通していたわけではない。それでも少し先の遊びを入れられる余地は、削らずに残った。[37]
ゲームボーイはカラーモデルなどを含め、累計1億1869万台を売る。最初に作った機械を売り切ったら終わる商品と違い、別の作り手が持ち込む遊びで何度も現役の時間を延ばす本体になった。[30]
16囲碁好きの社長へファクスを送る
3000万円を決める速さ
ヘンク・ロジャースは山内の囲碁好きを知り、ファミコン用の囲碁ソフトを提案した。求めた資金は3000万円。山内は即決した。ところが9か月後、できたソフトを対局で破り、任天堂には弱すぎると退けた。[39]
そこでロジャースは自分で発売し、1本につき100円を返す案を出した。山内はそれも受け入れる。2人は仕事の後に囲碁を打つ仲になった。[39]
マリオ以外も入れて売る
ロジャースはソ連生まれのパズルゲーム『Tetris』にも出会った。上から落ちる形を並べ、横一列をそろえる遊びである。1989年、携帯機向けの権利を得るため、ソ連の首都モスクワへ向かった。面白いゲームを見つけても、権利を手に入れなければ任天堂の本体と一緒に売れない。[40]
米国でゲームボーイを広めるとき、ロジャースが荒川へ提案したのは『Tetris』の同梱だった。マリオを知る人だけでなく、もっと幅広い人へ本体を届ける。山内の囲碁好きから始まった関係の先で、ゲームを見つける人、交渉する人、米国で売る人の仕事がつながった。[41]
17王者が次の本体を出す
ファミコンを自分で古くする

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1990年、スーパーファミコンが発売された。ファミコンのカセットが家庭へ積み上がる中で、任天堂自身が次の本体を売り始める。同じテレビへつなぐ機械を、もう1度選んでもらう勝負だった。[6]
マリオやゼルダは新しい機械の上で作り直され、『スーパーマリオカート』では、おなじみの登場人物たちがレースをする。世界が変わっても、知っている顔が次の遊びへ連れていく。任天堂は本体だけでなく、新しい本体で遊びたくなる作品を持っていた。[27]
スーパーファミコンは世界で4910万台を売った。ファミコンの6191万台には届かなかったが、依然として巨大な市場だった。その市場へ入りたい会社が増えるほど、任天堂が決める取引条件も無視できなくなっていく。[30]
18安く売る店を止められるか
当局が売り方へ入る
1991年、米連邦取引委員会、FTCが米国任天堂の販売価格の問題を扱った。小売店に一定水準の価格で売らせ、店同士の競争を制限し、消費者が払う価格を上げたというのが当局の主張だった。任天堂は同意手続きによる解決へ進んだ。[42]
当局が示した禁止事項には、小売価格を固定・管理することや、安売りする店へ供給や取引条件で圧力を掛けることが含まれた。本体を普及させる強さは、店の売り方を縛る強さにもなっていた。[42]
本体の中にも鍵がある
NESには10NESというプログラムが入っていた。本体とカセットが鍵と錠のように確認し合い、任天堂が許諾していないゲームを動かさない仕組みである。Atari Gamesと子会社のTengenは、それを再現して許諾料を払わずに動くカセットを作ろうとした。争いは裁判へ進んだ。[43]
1992年の控訴審は、任天堂の著作権侵害の主張が認められる見込みがあるとして、Atari側への仮差止めを維持した。Atariが虚偽の説明をして著作権局からソースコードを得たことが重く見られた。一方、正当に入手した製品を分析する過程の複製まで、一律に違法とはしなかった。[43]
品質を保証するために整えた製造と許諾の仕組みを、他社は通行料を求める壁として見る。任天堂はゲームの面白さを競うだけでなく、その壁をどこまで作れるかについても争う会社になっていた。
19京都からシアトルの球団へ
米国で世話になった街を支える
1992年、山内はSeattle Marinersの主要オーナーとなった。球団があるのは米国北西部・ワシントン州の港町シアトル。米国任天堂の事業が育った土地でもある。山内の出資は、移転の危機にあった球団を街へ残す助けになった。[44]
最初に出資したのは山内個人だった。任天堂の商品として球団を買ったのではなく、個人の財力で関わりを持ったのである。米国で商売を伸ばした京都の経営者は、その街の野球を支える所有者にもなった。[45]
20Sonyが競争相手になる
共同開発の名前が残る
Sonyとは、スーパーファミコンにCD-ROMを組み合わせる互換機を共同開発する計画があった。名前はPlayStation。ところが、両社で商品を出す構想は中断された。[46]
任天堂はカセットの製造や流通を握ることで事業を育てた会社だった。違う記録媒体を持つ大企業と組むには、技術をつなぐだけでなく、誰がソフトの事業を動かすかまで決めなければならない。協力の形をまとめられなかった先で、Sonyの久夛良木健は独自のゲーム機を進め、大賀典雄がそれを後押しした。[46]
1994年、Sonyは自社のPlayStationを発売した。共同開発で使われていた名前が、今度は任天堂と競う本体の名前になった。ゲームを作る会社には、任天堂の条件を受け入れてそこへ出す以外の有力な道ができる。[46]
21赤い画面の失敗
立体映像を諦めない

写真:Evan-Amos/出典/CC BY-SA 3.0。表示用の縮小・圧縮。
1995年、バーチャルボーイが発売された。台の上に置いた機械をのぞき込み、赤い画面で立体的な遊びを楽しむ。開発の中心には横井がいた。山内もこの製品を気に入り、任天堂を訪ねた岩田らに見せていたが、商業的には失敗した。[47]
ゲームボーイのように持って出掛けるものでも、家族とテレビを囲む機械でもない。新しい見え方を選んだ商品は、広い支持を得られなかった。成功を重ねた横井と山内の組み合わせからも、売れない機械は出た。
それでも山内は後年まで、映像が飛び出さないかと繰り返し尋ねた。宮本と岩田は、その立体表現へのこだわりを覚えていた。製品の販売が終わっても、彼が作り手へ投げる問いまでは終わらなかった。[48]
22カセットに残った代償
マリオが3次元を走る

写真:Evan-Amos/出典/PD-self。表示用の縮小・圧縮。
1996年、NINTENDO 64が発売された。『スーパーマリオ64』では、マリオが立体の空間を自由に走り回る。横へ進む画面から奥行きのある世界へ、操作も遊びも考え直した世代だった。[6][47]
ソフトを入れるのはカセットだった。一方、PlayStationではCD-ROMが使われていた。容量や製造費、作った後の届け方の差は、ソフト会社の次の作品の行き先にも影響する。任天堂が選んだ本体の仕組みを、他の会社も選ぶとは限らなかった。[46][49]
ファイナルファンタジーが去る
スクウェアは、人気シリーズ『ファイナルファンタジー』の第7作をPlayStationへ出す。1997年に発売されたその作品は、長い物語を追うために、任天堂以外の本体を買う理由になった。[49]
坂口博信が後の講演で挙げたCD-ROMの利点には、安い体験版を作って海外へ配れることもあった。完成品を店へ出すだけでなく、先に遊んでもらい、興味を持った人へ売る。記録する媒体の選択は、ゲームの容量だけでなく、客を増やす方法まで変えた。[49]
NINTENDO 64の世界累計は3293万台。スーパーファミコンからさらに台数を減らした。ソフトが本体を売る。その力を誰より頼りにしてきた任天堂が、今度は人気ソフトに客を別の本体へ連れていかれる側になった。[30]
23古いゲームボーイが息を吹き返す
7年目に来たポケモン
据置機で苦戦する一方、携帯機には別の転機が来た。1996年に発売された『ポケットモンスター 赤・緑』。ゲームフリークの田尻智らが作り、石原恒和らも携わったこの作品は、生き物を集め、育て、友人と交換して遊ぶ。発売から7年たったゲームボーイに、新しく夢中になる理由が加わった。[50]
本体に残しておいた通信端子が、ここで働く。自分のゲームの中にいない生き物を、友人の本体から受け取れる。かつて岡田が可能性を残してつけた機能を、別の作り手が遊びの中心へ引き上げた。[37]
山内は米国でも出すよう求めた。だが作り手は次の『金・銀』で手いっぱいだった。名前や言葉を整え、プログラムも海外版へ対応させなければならない。技術面を支えたのは当時HAL研究所を率いていた岩田だった。仕事を増やす社長の判断を、詰まっていた開発の先へ通す人がいた。[50]
待てと言った社長がカラーを急がせる
ゲームボーイが売れる間、山内は開発者に次の機械へ費用を使わないよう求めた。ソフトが売れているなら、その商売を続ける。岡田たちは待つ側になったが、技術の調査は続けていた。[37]
1997年には、競合になりそうな携帯機の話とシャープのカラー液晶の提案が現れ、山内がカラー版を求める側に回る。前もって現場にあった蓄積が、今度は製品の仕事になった。1998年、ゲームボーイカラーが発売された。[37][6]
山内は常に新しい物を急がせたのではない。待てとも言い、競争が迫れば向きを変える。技術者はその都度、すぐ出せる答えを持っているかどうかまで試された。
24銀行員へ来月から来いと告げる
ポケモンを広げる別の専門家
山内は、ゲームを作れる人ばかりを集めたわけではない。2000年頃、三和銀行で長く働いた君島達己を京都へ呼んだ。君島は東京から新幹線で、当時の任天堂本社へ向かった。短い面会の後に、山内は1カ月後から来るよう告げる。君島が後にTIMEの取材で語った、銀行から任天堂へ移る始まりだった。[51]
目的はポケモンを海外へ育てる仕事だった。岩田にはプログラムを直す力があり、君島には銀行で培った海外業務や経営の経験がある。山内の目は、ゲームを作る机だけでなく、それを外国で売り続ける人へも向いていた。[51]
25次の社長へ渡す会社
小さな本体と次を作る資金

写真:Evan-Amos/出典/PD-self。表示用の縮小・圧縮。
2001年、ゲームキューブが発売された。任天堂の据置機も光ディスクへ進み、小さな立方体へ機能を収めた。Sonyに加えて、MicrosoftもXboxで参入する。任天堂にしかないゲームを売る会社は、ほかの本体にも欲しいゲームがある市場で競うことになった。[6][52]
ゲームキューブの累計は2174万台まで縮んだ。ただし携帯機の事業があり、会社の財務には厚みがあった。山内退任後に終わった2003年3月期の売上は5037億円、営業利益は1003億円。現金と現金同等物は期末に7486億円あった。[30][52]
据置機の競争で勝てなくなっても、次を試す資金は残っている。山内が後継者へ渡す会社には、大きな問題と、それを自分たちで変える余力が両方あった。
自社の人気者をナムコへ渡す
退任直前の2002年5月8日、任天堂はナムコとの業務提携を発表していた。ナムコは『パックマン』などで知られるゲーム会社だ。両社は任天堂の宇宙戦闘ゲーム『スターフォックス』の新作を、一緒に作ると決めた。自社の登場人物を、自社の開発者だけで動かす方針から踏み出す仕事だった。[53]
同時にナムコは、『テイルズ』などの新作をゲームキューブへ出す計画を示した。任天堂は、その会社が作る家庭用ソフトの販売も引き受ける。人気作が別の本体へ去った時代を経て、自分たちの強みを相手へ渡し、相手の作品も自分たちの本体へ迎える。家に置く機械を選んでもらうために、作る会社同士の組み方も変えようとしていた。[53]
血筋より岩田聡を選ぶ
2002年、山内は社長を岩田聡へ譲った。1949年から続いた社長時代が終わる。選んだのは自分の1族ではなく、HAL研究所でゲームを作り、経営も担ってきた人物だった。[52][54]
岩田は山内を深く尊敬していた。しかし同じように振る舞えば同じ成果を出せるとは考えなかった。現場の人と話し、得意な仕事を見つけ、問題をほどく。自分のやり方で率いる必要があった。[54]
山内の後を継ぐとは、山内と同じ強い言葉を使うことではない。彼が商品を送り出すために頼ってきた人々と働き、今度は自分が答えを出す側になることだった。花札屋の跡を継いだ山内は、ゲームの作り手へ、その決断を引き渡した。
1人の社長から6人の経営へ
交代直後の2002年6月6日、経営方針の説明会へ新しい幹部が並んだ。社長の岩田だけではない。会長の浅田篤、開発の宮本茂や竹田玄洋、業務を担う波多野信治、経営を支える森仁洋。次の任天堂を動かす6人の顔が、報道陣やアナリストの前へ出た。山内は、厳しい時代だからこそ1人より集団で経営してほしいと説明した。[55]
会場では、他社との関係を積極的に広げる方針も語られた。岩田はゲームキューブを2005年までに世界5000万台へ伸ばす目標を示す。実際の累計は後に2174万台で終わったが、この席で渡されたのは、成功の決まった仕事ではなかった。力のある作り手と、他社へ話を通す人と、数字を見る人が、目の前の競争へ別々の役割で答える体制だった。[55][30]
26ファイナルファンタジーへ別の注文
昔と同じ作品はいらない
社長を離れる頃から、山内はゲームを作る人を支援するファンドQにも関わった。その先で生まれたのが、ゲームキューブ向けの『ファイナルファンタジー・クリスタルクロニクル』だった。かつて別の本体へ移ったシリーズの名が、任天堂の本体にも戻ってくる。[56]
山内が河津秋敏へ求めたのは、これまでにない新しいFFだった。ゲームボーイアドバンスとつなぐことを初めから義務づけたわけではなく、具体的な遊びは河津たちが考えた。[56]
テレビと手元の携帯機を使い、複数人で遊ぶ作品になる。山内が厳しい条件を渡し、作り手が遊べる形へ変える関係は、社長交代の前後にも続いていた。昔の取引関係だけで終わらせず、別の作品を作る余地が開かれた。
272画面という宿題
先に形が決まっている

写真:Evan-Amos/出典/PD-self。表示用の縮小・圧縮。
次の携帯機について、山内は2画面に強くこだわった。岩田と宮本は、なぜ2つ必要かを自分たちで考え続けることになった。社長を退いても、山内の注文は製品の形にまで及んだ。[48]
遊びを考え、そのために画面を増やすのではない。画面が2つあるという条件から、どんな遊びなら生きるかを逆に探す。その過程で、片方を触って操作する画面にする発想へつながった。[48]
2004年、ニンテンドーDSが発売された。のちに世界1億5402万台を売る機械になる。山内は形へのこだわりを出し、岩田、宮本と開発者が使いたくなる製品へ仕上げた。退いた前社長の好みは、次の経営者たちの仕事を通って、巨大な新商品になった。[6][30]
球団も次の人へ
2004年には、Marinersの持ち分を米国任天堂へ引き継ぐ。後に岩田が説明したのは、自分もいつかいなくなるから準備をしておこうという山内の意思だった。球団の状況も、取得した頃より良くなっていた。山内がいなくなった後も関係を続けるための段取りを、本人が進めた。[45]
2870億円を京都へ残す
退職金を受け取らない
2005年、山内は取締役を退いた。本人が退職慰労金を辞退したため、任天堂は贈呈を株主総会の議案にしないと発表した。長い経営者人生の後も任天堂株を持つ資産家だった彼は、会社からその慰労金を受け取らず、相談役となった。[57]
本人がしていない発言まで広まる
その年の初めには、本人の口から出ていない言葉も話題になった。WIREDの2005年2月号に、山内の架空のインタビューが載ったのである。Microsoftとの交渉を過激な物言いで断ったという筋書きなどが、本人の発言の形で並んだ。任天堂の広報は、そんな会議も発言もないと否定した。[58]
強烈な社長という評判が、本人を離れて勝手に話を作らせる。新製品へ厳しい注文をつけた現実の山内と、挑発的な言葉で相手を怒らせる架空の山内が、同じ名前で読まれていた。会社はそれを、自分たちの経営者の話として認めなかった。[58]
百人一首でも飛び出してほしい
立体映像への注文も消えなかった。京都西部・嵐山に2006年に開いた、百人一首を体験する施設「時雨殿」。山内が作り、宮本がプロデュースしたこの場所でも、山内は飛び出す表示を望んだ。[48]
開発の時間が足りず、その場での立体表現は断念した。それでも液晶などを研究する機会になったと宮本は振り返る。携帯機が売れても、展示施設を作っても、山内の側からはまた別の注文が来る。作り手たちは、その問いの実現方法を探した。[48]
退いた後に日本一の富豪になる
2008年、Forbesの日本長者番付で、山内は首位に立った。推定資産は78億ドル(約1兆2292億円)。前年から30億ドル(約4728億円)増えたとされた。社長も取締役も退いた後に、自分の率いてきた会社の成長が、保有株の価値をさらに押し上げていた。[59]
会社では、岩田らの下でDSやWiiが広がっていた。子どもだけでなく、それまでゲーム機を買わなかった家庭にも遊びが届く。その成功によって、山内が持ち続けた株にも大きな値段が付く。毎日社長室で判断を下す仕事から離れても、会社が生む価値との関係は切れていなかった。[59][6]
70億円が病棟になる
その山内が京都大学病院で見たのは、築40年の古い南病棟だった。新しい施設で医療を提供してほしいと私財を寄附する。額は70億円。2010年5月、がん診療などの中核となる積貞棟が完成し、本人も式典に出席した。[60][61]
札と玩具から始まった会社の株で得た富が、地元の病院の建物へ変わった。時雨殿も、その富を使って京都へ残した場所だった。[62]
取材した京都新聞の石田真由美には、ほかの寄付のことを尋ねると、公表しないでほしいと断られた記憶も残る。ゲームの売れ行きには強い言葉を向けた経営者が、私財の使い道では、取材されることを望まない仕事も持っていた。[7]
孫が言い出せないゲーム機
孫の万丈には、違う山内の姿が残っている。正月に家族で墓参りをし、その帰りにトイザらスへ寄る。祖父は欲しい玩具を買ってくれた。ただし孫の側は、Sonyやセガのゲーム機を欲しいとは何となく言いにくかった。怒られるからではなく、気を遣ってしまう。[2]
世界のゲーム機をめぐる競争が、家族の買い物では小さな遠慮になる。強い社長の家で育つ子どもにとっても、任天堂は会社案内の中だけの名前ではなかった。
いとこが家の片目のだるまをいつ両目にするのかと尋ねると、山内は、ずっと片目のままだと答えた。万丈はその思い出から、成功したと決めて終わらない祖父の姿勢を受け取った。[2]
29その先を作る人々
85歳で経営者の生涯を終える
2013年9月19日、山内溥は亡くなった。85歳だった。任天堂は死去を届け出、同年末には株式の相続による大株主の異動を発表した。半世紀以上にわたり社長を務めた人物は、会社の大きな株主でもあった。[63][64]
2013年4月のForbesによる生前推計は21億ドル(約3309億円)だった。2008年に78億ドル(約1兆2292億円)とされた資産も、そのまま決まった額で残る現金ではない。会社の成功を持ち分として受け取る富は、本人が役職を退いた後にも、会社と市場の変化に揺さぶられた。[65]
主な富の源泉は、最後まで任天堂の株だった。学生から家業の跡取りになった青年は、花札屋を世界へ変える会社に育て、その株によって巨額の富を得た。[65]
岩田が繰り返し伝えた山内の考えは、客が欲しいのはゲーム機そのものでなく、ゲームソフトで遊ぶことだというものだった。そのために安い本体を作らせ、ソフトを選び、時には作り手を待たせ、無理な注文を出した。売れない商品も、離れた取引先もあった。[66]
2026年3月期、任天堂の売上は2兆3130億円になった。山内が亡くなった後に、後の経営者と作り手たちが積み重ねた事業の数字である。新しいゲームを買いたくなる理由を作る仕事は、彼の一生では終わらなかった。[67]
参考文献・出典 67件
本文の番号に対応する資料です。本人・関係者のインタビュー、当時の取材、企業の発表を参照しています。
- 任天堂2005年年次報告書:公式沿革と1949年社長就任 ↩ 本文
- 山内万丈本人インタビュー:創業家と旧本社、BI2022 ↩ 本文
- NSIDR2001プロフィール:幼少期と祖父母・戦時の学業 ↩ 本文
- 京都市公式歴史年表:京都市内の1945年空襲と戦後接収 ↩ 本文
- Chris Kohler:山内の1986年発言と社長継承、WIRED2013 ↩ 本文
- 任天堂公式:会社沿革 ↩ 本文
- 本人取材記者・石田真由美:山内溥、人様のために貢献する ↩ 本文
- 任天堂史・横井軍平のウルトラシリーズと開発課、2016 ↩ 本文
- 上村雅之本人の記録1:シャープから任天堂へ・光線銃の部品と転職 ↩ 本文
- 岡田智本人取材2022前編:光線銃SPの不良、百万セット、電子ゲーム ↩ 本文
- 上村雅之本人の記録2:レーザークレーの構造・注文とキャンセル ↩ 本文
- 岡田智本人講演2022:開発部に残った二人・携帯機の開発方針の対立 ↩ 本文
- 上村雅之本人講演DIEC2005:カラーテレビゲームの価格と三菱電機 ↩ 本文
- 宮本茂本人2009年講演:父の紹介、任天堂入社、ゲーム設計 ↩ 本文
- 宮本茂本人取材:ポパイからオリジナル、ジャンプマン誕生 ↩ 本文
- 宮本茂本人取材:上役山内とデザインの領分 ↩ 本文
- ゲーム&ウオッチ開発者本人座談会2:電卓チップとセグメント ↩ 本文
- ゲーム&ウオッチ開発者本人座談会3:麦球試作・判定調整 ↩ 本文
- ゲーム&ウオッチ開発者本人座談会5:初代ボール復刻・ゲーム保存 ↩ 本文
- ゲーム&ウオッチ開発者本人座談会1:少人数・複数の役割 ↩ 本文
- ゲーム&ウオッチ開発者本人座談会4:世界4340万個、店頭応援販売 ↩ 本文
- NES発売当事者への取材:1985年ニューヨーク店頭営業 ↩ 本文
- 上村雅之・今西紘史本人座談会1:1981年11月社長からの電話 ↩ 本文
- 上村雅之・今西紘史本人座談会2:リコーとドンキーコング再現 ↩ 本文
- 上村雅之本人2013年インタビュー:ROM量産とファミコン価格 ↩ 本文
- 任天堂公式40周年:1983年7月15日ファミコン誕生 ↩ 本文
- 任天堂公式40周年:ファミコン年表 ↩ 本文
- 上村雅之本人の記録3:発売初年の不良ロット回収と修理 ↩ 本文
- 上村雅之・今西紘史本人座談会3:故障とライセンス制度成立 ↩ 本文
- 任天堂公式IR:ゲーム専用機世界連結累計販売数量 ↩ 本文
- 米国第2巡回控訴裁判所1984判決:Universal v Nintendo 746 F2d112 ↩ 本文
- 米第2巡回控訴裁判所 Universal v Nintendo,797 F.2d70,1986年7月15日 ↩ 本文
- 上村雅之・今西紘史本人座談会4:スーパーマリオのヒットと開発時間 ↩ 本文
- 上村雅之・今西紘史本人座談会5:マリオのキャラクターライセンス ↩ 本文
- NES米国営業責任者Bruce Lowry本人インタビュー:ニューヨーク発売判断 ↩ 本文
- 任天堂公式:ディスクシステムと500円の書き換え ↩ 本文
- 岡田智本人取材2022後編:ゲームボーイ液晶・通信・後継機 ↩ 本文
- 宮本茂2020経営方針QA:ゲームボーイの白黒液晶・電池・屋外での見やすさ ↩ 本文
- Henk Rogers本人の追悼文:囲碁ソフト、山内との個人的交流 ↩ 本文
- The Tetris Company公式:Henk Rogers1989年ソ連で携帯機向け権利交渉 ↩ 本文
- Pajitnov・Rogers本人TIME2014取材:GameBoy同梱を荒川に提案 ↩ 本文
- FTC1991年年次報告書p21:Nintendo of America再販売価格事件の同意案 ↩ 本文
- 米国著作権局:Atari対Nintendo1992控訴審判決要約 ↩ 本文
- Mariners公式2013声明:1992年の地域支援とオーナー就任 ↩ 本文
- 岩田聡2015年株主総会:山内の個人所有から米国任天堂への継承 ↩ 本文
- Sony公式史:任天堂互換機開発中断と独立PlayStation ↩ 本文
- 宮本茂・岩田聡本人座談会:バーチャルボーイの商業的失敗 ↩ 本文
- 宮本茂・岩田聡本人座談会:山内の2画面へのこだわりと時雨殿 ↩ 本文
- 坂口博信本人2015講演:FFVIIのPlayStation移行と体験版配布 ↩ 本文
- 石原恒和本人取材2016:山内の海外展開指示と岩田の支援 ↩ 本文
- TIMEの君島達己本人取材 Exclusive: Nintendo’s New President on the Icon’s Future,2015年12月3日 ↩ 本文
- 任天堂2003年年次報告書:経営状況、現預金、役員 ↩ 本文
- ナムコ・任天堂2002年共同発表:GameCube等ソフトの業務提携 ↩ 本文
- ほぼ日・岩田聡本人のことば無料公開:再建と山内への敬意 ↩ 本文
- 電撃オンライン2002年6月6日現場取材:任天堂が経営方針説明会開催、集団指導体制のメンバー6人もお披露目 ↩ 本文
- 河津秋敏本人取材:ファンドQとFFクリスタルクロニクル ↩ 本文
- 任天堂2005年役員人事・退職慰労金辞退 ↩ 本文
- 任天堂が否定した架空のWIRED2005インタビュー ↩ 本文
- Forbes Asia 日本長者番付2008年5月19日号:Japan’s 40 Richest ↩ 本文
- 京都大学総長2010年積貞棟竣工挨拶:本人私財による病棟建設 ↩ 本文
- 京都大学2009事業報告:山内私財70億円の寄附 ↩ 本文
- 京都商工会議所立石会頭2013訃報コメント:時雨殿と地域貢献 ↩ 本文
- 任天堂2013年臨時報告書:本人2013年9月19日死去 ↩ 本文
- 任天堂2013年12月:山内溥相続による筆頭株主異動 ↩ 本文
- Forbes:山内溥・2013年4月3日生前資産推計 ↩ 本文
- 岩田聡2012年決算QA:山内の有名な発言を引用 ↩ 本文
- 任天堂2026年3月期決算短信 ↩ 本文
写真の作者・利用条件・撮影年は各画像の下に記載。取材資料と写真の出典は別々に確認できます。
※ 円換算は2026年11月2日確認のWise表示値(1米ドル=157.6円)を使用。取引当時の為替や物価・購買力を再現するものではありません。 為替出典:USD
本文更新:2026-11-02



