NOBRILO起業家たちの原点と、その物語。

盛田昭夫

Akio Morita

造り酒屋の跡取りが、父の支援を受けて戦後の小さな工場へ。井深大とソニーを起こし、売れない録音機からウォークマン、音楽、ハリウッドへ世界を広げた。守ったブランドと負けた規格、巨額買収の代償まで、SONYの4文字を背負った男を追う。

1921–1999年 / 日本出身 / テクノロジー

物語を読む
盛田昭夫の人物イメージ(AI生成)。実際に撮影された写真ではありません。
盛田昭夫の人物イメージ(AI生成)。実際に撮影された写真ではありません。

ただひとつ生きる道というのは、ユニークさを保つということだと思います。

I think our only way to survive is to stay unique.

1982年11月、社内会合での本人発言。日本語原文。 原文 · 英語は編集部訳

資産と事業

WEALTH & BUSINESS

生前の個人資産

—

生前の主な資産・持分

生前の個人持分を確認できる資料は未確認。肩書きや現在の家族・財団の保有から推計しない。

ソニーグループ

共同創業者、元社長・会長(1999年死去)

PlayStationのゲーム、音楽・映画、カメラ・音響機器、半導体などを手掛ける企業グループ。現在の会社規模を掲載。

年間売上

12兆4,796億円

ソニーフィナンシャルグループ

盛田が参入を主導した金融事業の後継

1979年に始まった生命保険事業を源流に、生命保険・損害保険・銀行を展開。2025年10月にソニーグループの連結対象から外れた。

年間経常収益

2兆8,710億円

出典・詳しい補足

売上は本人没後の現在のソニーグループ継続事業。本人の生前資産・所得と合算しない。

金融事業の部分的スピンオフに伴う非継続事業を除く通期売上。元数値12,479,620百万円。

円換算は2026年11月2日確認のWise表示値(1米ドル=157.6円)を使用。取引当時の為替や物価・購買力を再現するものではありません。 元通貨の端数処理前の値から計算し、1億円未満を切り捨て。

金額の対象時点・集計範囲

  • ソニーグループ — 年間売上 / 2026年3月期(FY2025・継続事業) / 会社公表(決算原表・継続事業)
  • ソニーフィナンシャルグループ — 年間経常収益 / 2026年3月期・日本基準連結経常収益 / 会社公表(決算短信)

主な保有資産・持分の出典

    創業者・会長という肩書きから生前の株式保有比率を推測しない。

    関連事業の確認日:2026-10-31。財務数値の確認日:2026-10-31。金額表示は1億通貨単位未満を切り捨てています。円換算には切り捨て前の元数値を使います。個人資産は保有株式などを含む推計値です。会社の売上は本人の収入や現金残高ではありません。円換算は金額感をつかむための参考で、取引当時の為替や物価を再現したものではありません。投資先・親子会社の売上を合算せず、売却済みの企業は現在の本人保有とは区別します。

    THE STARTING CONDITIONS

    2つのガチャから見る出発点

    高いほど、選べる道や支えが多い。人生の価値ではなく、環境の有利さを表す編集評価です。

    時代・場所ガチャなぜこの点数? +61 / 100

    1921年の名古屋に生まれ、旧制高校・帝国大学に接近できる都市の教育と情報基盤があった。ただし、家族の富で得た機会はもう一つの点数へ分ける。青年期は戦争・統制・動員と重なり、本人も海軍技術将校となった。平和な社会で自由に進路を選べる同時代の地域より制約が重く、当時の医療・衛生を現在の日本と同水準にはしない。戦争以前の全幼少期も一律戦場として扱わない。

    25歳以降は戦後直後の物資・資金不足を経て、日本の復興、医療整備、高度成長、米国・欧州市場への接近が大きな追い風となった。1961年の国民皆保険や長期のインフラ改善を含めるが、後半20%の重みなので青年期までの戦争による制約を消さない。自社の成功・本人の金持ち化を地域の加点には使わない。

    詳しい評価方法はこちら →
    親・環境ガチャなぜこの点数? +92 / 100

    酒造・醸造の盛田家の跡取りとして、経営を見る機会、新しい電気製品や音楽、物理学を学ぶ高等教育を得た。同時代の世界では家計のため教育を早く切り上げる人も多く、実業家の父から商売の判断を学びながら学業に進めた環境は非常に有利。養育放棄や幼少期の孤児化に当たる資料はなく、関心と教育を支える家の存在を高く評価する。ただし未知の家計・家庭内の全てを満点とはしない。

    25歳の創業では父が事業を認め、家族の公式記録で土地売却と19万円の資金援助を確認できる。経理人材と継続的支援は元幹部の回想でも確認され、弟和昭が家業の実務を担ったことが本人の選択を支えた。妻良子の海外生活、交流・接点の維持も具体的な支援として含める。学生期の恩恵の持続も評価するが、本人がSonyで築いた富や全従業員の仕事は家から与えられた支援に数えない。

    詳しい評価方法はこちら →

    THE STORY

    盛田昭夫の物語

    選んだ道。その先で、起きたこと。

    0110万台の注文を断る

    消されるはずだった4文字

    1955年、盛田昭夫の前に10万台の商談が来た。アメリカでラジオを売り込み始めたばかりの日本の会社へ、大きな注文を出したいという。条件は、製品に相手のブランドをつけることだった。[1]

    日本の会社からは、契約してこいという指示が届いた。初めて名を出したラジオに10万台の注文。営業担当者が持ち帰れば、会社を大きくできそうな話だった。それでも盛田は電話で説得した。SONYの名を外すべきではない。それに、今の設備では10万台を作り切れない。看板の話の陰には、生産できる数という現実もあった。[2]

    盛田は断った。

    外国の客がまだ知らないSONYという名前を、箱から外したくなかった。売上なら、いま目の前にある。将来その名を覚えて買ってくれる客は、どこに何人いるのかも分からない。それでも彼は、まだ値段のつかない4文字を残す方を選んだ。[1][3]

    この男が後に売り込むのは、ポケットのラジオだけではない。外へ持ち出す音楽や、好きな時間に見るテレビ。ついには、音楽や映画を作る会社まで買う。だがその最初の持ち物は、無名の社名でも、半導体の特許でもなかった。代々の家を継ぐはずだった長男という立場だった。[4][5][6][7]

    02酒蔵を継ぐ少年

    電気の音へ引かれていく

    1921年1月26日、昭夫は愛知県名古屋市に生まれた。盛田家は、愛知県南部・知多半島の海沿いにある小鈴谷で、江戸時代から酒を造る家だった。みそやしょうゆも扱う商家の長男は、15代目を継ぐ者として育った。[8][7]

    名古屋に生まれ、知多の家業と東京の工場へ。全体図と拡大図。
    名古屋に生まれ、知多の家業と東京の工場へ。名古屋は出生地、常滑は小鈴谷に盛田家の家業があった地域です。市の代表位置であり、出生宅や醸造場の所在地を示しません。
    地理データ:Natural Earth(パブリックドメイン)。 湖の補助データ:© OpenStreetMap contributors(ODbL)。使用データ。現代の地理と都市の代表位置。出生宅・移動経路ではありません。編集部作図。

    父は、古い家業をそのまま受け取った人ではない。経営と資産が傾いた家へ戻り、慶應での勉学を途中で切り上げた。骨董品を売って資金を作り、問屋任せだった販売も変えた。自分たちで小売店へ売る。家を守るために、売り方を変えた父だった。[7]

    昭夫少年にも商売の会議へ接する機会があり、家には新しい電気製品や、音楽を楽しむ道具があった。少年が夢中になるのは、音そのものだけでなく、そこから音を出す機械だった。蓄音機、ラジオ。中で何が起きているのかを確かめ、手を動かす時間を持てた。[9]

    物理を選ぶ

    第八高等学校を経て、1942年、大阪帝国大学の物理学科へ進んだ。酒を売る家の跡取りが、電気や物理を学ぶ。やがて技術を率いる井深大と、営業を担う盛田という組み合わせが生まれるが、盛田も技術を学んだ人だった。仕組みを理解し、その機械を欲しがる相手へ持っていけた。[8][10]

    ただ、その大学生活は戦時下にあった。1944年、海軍の技術学生として横須賀へ勤務し、同年に大学を卒業する。[8]

    1945年には技術将校となり、軍の研究委員会で13歳年上の井深に出会った。2人が初めて接した仕事の場は、家庭へ音楽を届ける場所ではなかった。[8][11]

    03新聞の小さな記事から

    再び井深を訪ねる

    1945年8月、盛田は家族の疎開先だった小鈴谷で終戦を迎えた。24歳。学んだ技術を使うはずだった軍はなくなり、仕事を選び直す時が来た。[8]

    その年の10月、井深は東京・日本橋の白木屋百貨店の一角に、東京通信研究所を開いた。ラジオの修理や改造から始める小さな仕事場だ。盛田は朝日新聞の短い記事で、その再出発を知った。戦争の中で会った技術者を、今度は自分の意思で訪ねる。[8][11]

    井深たちは、何を作れば暮らしに役立つかを試していた。電気炊飯器にも取り組んだが、うまく炊けず商品にはならない。会社を始めれば発明が次々に売れる、という状況ではなかった。直せるものを直し、頼まれたものを作りながら、自分たちの商品を探していた。[11]

    跡取りを東京へ送り出した父

    1946年5月7日、東京通信工業が誕生した。資本金19万円、従業員は20人ほど。井深の義父で、文相も務めた前田多門が初代社長となる。井深と盛田の新しい仕事に、年長者や家族の信用も加わった。[11]

    盛田の父は、跡取り息子から新会社の話を聞いた。盛田家の記録に残るのは、息子の望む道を認め、名古屋の土地を売って19万円を渡したという支援だ。昭夫は、家と縁を切って東京へ飛び出したのではない。家が持っていた資産を、新しい会社の出発へ回してもらった。[7]

    翌1947年、家業では父が会長、東京で働く昭夫が社長、弟の和昭が専務となった。実務を担う弟が残ったから、兄は別の会社へ力を注げた。さらに家業側から経理の人材も加わった。盛田の背後には、東京へ来た人と、来ずに家を支えた人がいた。[7][12]

    04給料日の前に金が来ない

    修理を続けながら自分の商品を探す

    創業したばかりの会社は、仕事場を1カ所へそろえることにも苦労した。日本橋の借りた部屋から、作業場や倉庫が別々の場所へ散る。井深と盛田が探していたのは、皆が近くで働ける屋根だった。1947年、ようやく品川の倉庫へ、製造、保管、事務の仕事をまとめた。ところが雨の日には、その屋根の下でも傘が要った。[13]

    社屋にエレベーターと水洗便所があれば。後の会社史には、当時の2人の望みがそう残る。将来、銀座に看板を掲げる会社は、その頃、濡れずに働ける場所を探していた。[13]

    NHKの放送設備を改修する仕事は、大切な収入になった。戦災を受けた設備を直し、音声を調整する卓を作り直す。だが、仕事を仕上げても、給料を払う現金がすぐ会社へ届くわけではない。[11]

    1947年末、その現金を左右したのは逓信省からの注文だった。通信に使う二重平衡装置を100台、80万円で納める。12月25日の給料日に間に合えば、給料とボーナスを払える。会社は仕事を急ぎ、23日に納品した。ところが、支払いには10種類以上の承認印が要り、通常なら入金まで半月かかった。製造を終えた後に、今度は書類が止める。[11]

    年末という事情をくんでもらい、翌24日になんとか金を受け取れた。社員全員へ、給料とボーナスを渡す。装置は100台作れた。納期にも間に合わせた。それでも会社を続けるには、代金を受け取る日まで動かさなければならなかった。その年、会社は売上353万円、利益5万円を計上し、62人の株主へ初めて配当をした。[11]

    頼まれた設備だけでは、仕事の量も相手に左右される。井深と盛田は、NHKの外でも売れる、自分たちで作る商品を探した。そこで耳にしたのが、声をテープへ記録して再生する機械だった。[14]

    05声を残しても売れない

    35キログラムで16万円

    テープレコーダーを作るには、録音するテープそのものから用意しなければならなかった。薬品を探し、粉を作り、紙へ塗る。木原信敏らは、音が出ない試みを繰り返して、録音できる材料と機構をそろえていった。[14]

    1950年、G型が発売された。重さ35キログラム、価格16万円。人の声が機械からもう1度聞こえる。開発した側には、大きな到達だった。だが客は買わない。重く、高価で、テープの扱いも難しい。感心してもらうことと、財布を開いてもらうことの間に、会社は立ち止まった。[15][14]

    盛田は、代理店の倉橋正雄らと使い方を調べた。学校で外国語を練習する。仕事の記録を残す。自分の声を聞き直す。驚かせるために同じ音を再生するのではなく、日々どの仕事に使うかを見つけていった。[14][16]

    客が使えるところまで近づく

    1950年には、録音を広める冊子も作った。新しい機械を欲しいと言ってもらう前に、それで何ができるかを伝える。学校へ講演や実演に出向く人が増え、売った先で壊れた機械を扱う体制も整えていった。[16][14]

    1954年のTC-301は4万9000円になった。小さくし、価格を下げ、同じものを続けて作る。その努力と、使う場を探す盛田らの仕事が重なって、機械は家庭や教室へ近づいた。[17]

    製品を積んだバスも、北海道から九州まで走った。珍しいステレオの音を、その場で聞いてもらう。店へ来る客を待つのでなく、販売店や学校へこちらから行く。まだ知られていない楽しみは、人と機械を運んで渡した。[18]

    06遠慮のない音楽学生

    大賀典雄が改良を要求する

    録音機の使い手に、音楽を学ぶ大賀典雄がいた。外国製の機械にも詳しい東京藝術大学の学生は、アンプやテープについて井深へ質問し、練習で使うために改良してほしい点を提出した。完成品を前にして、よくできていますねと帰る相手ではなかった。[14]

    1953年、大賀は嘱託として会社と契約した。それでも音楽を捨てて工場へ入ったわけではない。ドイツへ留学し、声楽家としての道を歩く。正式な入社は1959年だった。井深と盛田が迎えたのは、電気工学を学んできた同業の技術者ではなく、製品の音へ遠慮なく注文をつける音楽家だった。[19][20]

    入社すると第2製造部長となり、広告部長とデザイン室長も兼ねた。作る側、伝える側、形を決める側を横断する仕事である。最初に手がけたトランジスタ式テープレコーダーTC-777は、本体にも内部の骨組みにも金属を鋳込むダイカストを使った。大賀は晩年の退任会見でも、その機械の美しさを自慢している。苦情を言いに来た学生は、自分で製品の姿を決める人になった。盛田は、その相手にやがて音楽会社とSony本体の経営まで託していく。[19][21]

    良子とつくる仕事の外の場所

    1951年、盛田は良子と結婚した。三省堂の社長、亀井豊治の娘だった。2人は子どもを育て、やがて家族で海外へ暮らすことになる。盛田が商談や会議へ出る間、良子も客を迎え、人と人の関係を続ける役割を担った。[8][22]

    後年、夫妻が東京の自宅へ客を迎えた記録は、1969年から1997年までで400回以上に及ぶ。記念館に残るのは、誰が来たかの名簿だけではない。席順、献立、ワイン、料理人まで書き留めてある。14人が座れる食卓へ誰をどう迎えるか。その準備を主に担ったのが良子だった。商談相手を訪ねて歩く盛田の仕事には、相手が日本へ来たときに迎える場所と、その場を整える人も要った。[23][22]

    07オランダの町から届く手紙

    32歳の初海外

    1953年、盛田は3か月かけてアメリカとヨーロッパを回った。初めての海外で引き受けた大仕事が、Western Electricとのトランジスタの特許交渉だった。電気信号を扱う小さな部品を、自分たちの新しい製品へ使いたい。[8][2]

    通産省には、小さな東京通信工業にできるのかと疑われた。許可が出なければ、契約は先へ進まない。盛田は、日本で既に磁気テープを作った実績を説明し、使える技術を増やすための交渉を続けた。[2]

    ヨーロッパで訪ねたのは、オランダ南部・電機産業の拠点アイントホーフェンのPhilipsだった。大都市でなくても、世界へ製品を送る会社がある。盛田は井深へ、海外へ出る決意を伝える手紙を書いた。帰国すると、自分たちもトランジスタを使う製品へ進む。[8][2]

    1953年の最初の海外出張では、羽田を出た後に熱が出た。給油地のウェーク島からハワイまでは、寒さに苦しみながらの移動だった。到着後に家族へ出した手紙には、東京を離れてからニューヨークまでの慌ただしい5日間と、ようやく便箋を手に入れたことを書いている。遠い市場を見に行く32歳の夫から、結婚3年目の妻と幼い長男へ。後に世界を飛び回る姿で知られる盛田も、初めから旅慣れた人だったわけではなかった。[23]

    売り歩いた箱が曲がる

    製造を率いる岩間和夫らの仕事が始まった。海外で得た知識を持ち帰り、設備を作り、部品を試す。1955年の試作ラジオTR-52には、既にSONYの名がついていた。ところが暖かくなると、正面の樹脂が変形した。売り込んでいた箱を、材料から直さなければならない。[2]

    同年、TR-55が発売された。日本初のトランジスタラジオだった。アメリカには先行するRegency TR-1がある。それでも、1人が外へ持っていける小さなラジオへ、東京通信工業は自分たちの名をつけて参入した。[4][10]

    1955年発売のTR-55。2018年3月撮影。展示品の記録。
    1955年発売のTR-55。2018年3月撮影。展示品の記録。
    写真:ブルーノ・プラス/出典/CC0。表示用の縮小・圧縮。

    08小さな注文から始まる海外

    小さくても名を残す注文

    SONYは、音を表すラテン語と、若い少年を指す英語を組み合わせた名だった。東京通信工業という長い社名より、口にして覚えやすい。10万台の注文を断る時に盛田が守ったのは、そこにまだ実績を積んでいない名前だった。[3][1]

    その名を残して買う相手も現れた。カナダの輸入業者アルバート・コーエンが工場を訪ね、TR-55を選ぶ。最初は小口の注文だった。だが相手は、その製品をSonyとして客へ渡してくれた。[24]

    1975年には、Sonyとコーエンの会社が共同でSony Canadaを設立する。断った大きな注文と、引き受けた小さな注文。その違いが、次に外国へ製品を持っていく時の足場を作った。[24]

    会社の名前も変える

    1957年のTR-63、1958年のTR-610と、ラジオは小さくなり、販路も広がった。TR-610は1960年までに世界で50万台を売るモデルになる。家族の共有物だった機械が、1人で持つ品物へ変わっていった。[4][25]

    1958年の輸出用ラジオTR-610。ミラノ科学技術博物館所蔵、撮影年不明。
    1958年の輸出用ラジオTR-610。ミラノ科学技術博物館所蔵、撮影年不明。
    写真:Museo nazionale della scienza e della tecnologia Leonardo da Vinci, Milano/出典/CC BY-SA 4.0。表示用の縮小・圧縮。

    1958年、社名もソニーへ変更した。東京通信工業として積んだ信用を惜しむ意見もあった。それでも、外国へこれから覚えてもらう名前を、会社そのものの名前にする。盛田は、1回の受注を断るだけでなく、国内で通じていた看板を替えるところまで進んだ。[2]

    09チョコレートについたSONY

    電機の会社だから関係ないのか

    その名前が広まると、今度は製菓会社が「ソニー」「SONY」の商標をチョコレートにつけて売り出した。ラジオと菓子。別の商売なら、同じ名前でも客は間違えないのか。まだ日本の法律に、著名な商標を異業種で使うことへの明確な扱いが整っていない時代だった。[26]

    盛田は対応を弁護士へ任せ切らなかった。電機以外の事業も将来は始めるかもしれない。だからこそ社名をソニー電機にしなかったと説明し、自ら証人として法廷へ出た。長く守った4文字が、いま扱っている製品だけにしか使えない名前になっては困る。音楽も映画も銀行も、まだ看板に並んでいない頃の争いだった。[26]

    担当弁護士の中村稔らは、別の会社に見えても関係があると誤解されないかを問題にした。訴訟は最後に和解で終わる。Sonyが看板の書き換え代ほどの金を払い、相手は名称の使用をやめる。商談で守った名を、別の売り場から外してもらう地道な交渉も続いた。[26]

    10午前4時までラジオを運ぶ

    ニューヨークの最初の仕事

    アメリカの代理店を通じた販売では、相手が他の日本企業とも組み、伝えてきた売り方が競合側へ渡る問題が起きた。輸出を増やすほど、販売の行方を相手へ預けたままではいられない。1960年2月、Sony Corporation of Americaを設立した。[25][27]

    その始まりにあったのは、3万台のラジオを運び出す作業だった。以前の代理店の倉庫から引き取り、トラックへ積む。盛田も作業着で加わり、朝から翌日の午前4時までかかった。自分たちの販売網を持つという決断は、まず大量の箱を動かす1日になった。[27]

    やがてニューヨークの5番街にショールームを設けた。街で客に製品を見てもらい、売った後のサービスも引き受ける。10万台を断って残した名前に、外国でも買える場所と、買った後に頼れる場所が加わった。[27]

    11株主と社員が増える

    外国で資金も集める

    1961年、Sonyは日本企業で初めてアメリカでADRを発行した。現地の投資家が株式へ投資しやすくする仕組みを使い、成長の資金を海外へ求める。輸出先は、製品を買う相手だけのいる場所ではなくなった。[8][25]

    ラジオが売れれば、次の工場と材料が要る。研究を進める間にも、社員へ給料を払う。創業時の家族の資金から、遠い国の株主へ。盛田は、機械を売る時とは違う相手に、これからの会社を説明した。[28][25]

    創立記念日にストライキ

    その1961年、創立15周年の記念日に、労働組合は初のストライキを行った。1956年には約500人だった従業員が、4000人近くへ増えていた。20人ほどで始まった頃のように、互いの顔を知るだけでは動かない会社になっていた。[25]

    世界へ売る品物が増え、資金を出す人が増える。その内側で働く人々も、経営者とは違う要求を持つ。盛田が外で語る成長と、社員が職場で経験する変化を、会社は同時に扱うことになった。[25]

    家族でその国へ入る

    1963年6月、盛田は良子と子どもたちを伴い、アメリカへ移った。出張の予定を終えれば日本へ戻る生活から、学校や近所付き合いのある暮らしへ。アメリカ人が何を買い、どう過ごすかを、その場で知ろうとした。[8][25]

    現地法人の人の顔ぶれも、日本の本社とは違っていた。後にSony Americaを率いた弟の正明が、兄の作った現地法人で驚いたのは、周囲にアメリカ人が多かったことだった。秘書も現地の人。従業員の約7割をアメリカ人が占めていた。日本人だけで日本のやり方を持ち込み、外国の客へ売る会社にはしなかった。[29]

    やがてアメリカ西部・カリフォルニア州のサンディエゴでも生産するようになると、日本製のほうがよいという客の声まで出た。日本製は安かろう悪かろうと言われた時代から評価が変わる一方、今度は現地工場の品質を認めてもらわなければならない。正明は検査で悪い製品を通さないことを説明した。現地に工場を建てれば、顧客の疑問がすべて消えるわけでもなかった。[29]

    12売らずに見せる銀座の場所

    黒と銀の製品を並べる

    1961年、大賀は、事業部ごとに分かれているデザイナーを集めようと提案した。録音機とラジオとテレビが、同じロゴの下で違う顔をしていては、会社全体の姿にならない。盛田は大賀へ任せ、デザイン部門が生まれた。黒と銀を重視する製品の姿も、ここから育っていく。[30]

    1966年、東京・銀座の数寄屋橋にSony Buildingが開業した。一等地で製品を見せ、触ってもらう。販売店で値札を比べるより前に、知らなかった機械を試せる場所をつくった。かつて全国へ運んだ実演の道具が、今度は街の中心で人を迎えた。[8][31][18]

    1966年開業の銀座ソニービル。2007年公開の写真。
    1966年開業の銀座ソニービル。2007年公開の写真。
    写真:Jorge Láscar/出典/CC BY 2.0。表示用の縮小・圧縮。

    しかし建物へ使う金も、工場や開発へ使う金も、同じ会社から出る。元幹部の郡山史郎は、この建設期にも資金面の苦しい局面があったと記している。見栄えのする建物の裏には、なお金を集め続ける経営があった。[12]

    学歴の札を外して見る

    同じ1966年、盛田は『学歴無用論』を出した。帝国大学で物理を学んだ本人が、採用後も学校名や成績で人を決める見方へ疑問を投げた。出身校の札を外した時、その人は仕事で何をするのか。[32][33]

    大賀は、会社へ不満を言いに来た学生だった。音楽の知識で製品へ要求し、やがて経営へ入った。その相手へデザインまで任せる盛田は、自分と同じ経路を歩いた人だけを近くへ集めなかった。[20][30]

    盛田の下で働いた平松庚三は、経営者は明るくあるべきで、明るくなれない時もそう振る舞えと教わったことを覚えていた。資金が苦しくても、失敗しても、社員の前から姿を消せない。本人の明るさも、会社を動かすために使うものだった。[34]

    1977年10月には、名古屋市の鶴舞公会堂で、母校の創立100周年を記念する講演に立った。学ぶ側だった少年は、自分たちで選んだ仕事を話す経営者として戻っていた。[35]

    1977年10月、名古屋市鶴舞公会堂で母校の創立100周年記念講演に立つ盛田昭夫。
    1977年10月、名古屋市鶴舞公会堂で母校の創立100周年記念講演に立つ盛田昭夫。
    写真:626startouch/出典/CC BY-SA 4.0。表示用の縮小・圧縮。

    13作るほど赤字のカラーテレビ

    クロマトロンから引き返す

    テレビでも、Sonyは小型化と独自方式へ進んだ。1960年にはトランジスタ式の小型テレビを発売し、カラーではChromatron方式へ賭ける。明るい色を出せる見込みはあったが、工場で同じ品質の製品を安く作れない。発表まで進んでも、量産で苦しんだ。[36][37]

    売れば売るほど赤字が膨らむ。井深は開発の前線へ戻り、盛田は他の経営を支える側へ回った。吉田進らの技術者は別の構造を探し、電子銃や画面の仕組みを組み直す。会社を救うために、最初に掲げた方式そのものから離れた。[37]

    1968年、Trinitronの第1号機KV-1310が発売された。明るさと鮮やかさが評価され、1973年には技術がEmmy賞を受ける。苦しんだテレビは、盛田が海外でも売り込める看板へ変わった。[36][8]

    1969〜70年製のトリニトロンKV-1320UB。英国科学博物館所蔵。1968年の第1号機とは別モデル。
    1969〜70年製のトリニトロンKV-1320UB。英国科学博物館所蔵。1968年の第1号機とは別モデル。
    写真:The Science Museum UK/出典/CC BY 4.0。表示用の縮小・圧縮。

    100インチは高すぎた

    同じ1968年、別の試みとして100インチのカラー映像パネルも発表した。多数の発光部分を並べる大きな画面だ。小さくするだけでなく、どこまで大きく見せられるかにも技術を使う。だが価格は1000万円規模で、一般向けの商品にはならなかった。[38]

    1つのテレビが売れる間にも、ほかの案は売り物にならずに終わる。盛田の前には、完成した名品だけでなく、開発費を使ったまま次へ渡せない製品も並んだ。[38][37]

    14相談相手から合弁相手へ

    CBSを迎える

    1967年、アメリカのCBSのハーベイ・シャインが、日本でレコード事業をする相手を探して盛田を訪ねた。放送機器で関係のある経営者に、誰と組めばよいか相談する。ところが盛田は、自分たちがその相手になる道を示した。[39]

    大賀も賛成した。機械を作り、音楽を再生するだけでなく、再生する音楽を持つ。1968年、CBS・ソニーレコードが生まれ、盛田が社長を兼ね、大賀が日々の経営を担った。名前の並び方も交渉になり、最後はアルファベット順で決めた。[39]

    80人へ7000人が応募する

    新聞の採用広告は、国籍や年齢、性別、学歴で人を狭めなかった。自分がこの会社で何をするか、文章で出してもらう。募集80人に対して、約7000人が応募した。14歳から70歳までが、新しいレコード会社へ名乗り出た。[40]

    レコード会社で働いたことのない人も入った。工場で部品をそろえる仕事と、歌い手を見つけて作品を売る仕事は違う。盛田は扉を開き、大賀らはそこで人を選び、曲を選び、事業を動かした。後に巨額で買う音楽会社の経営を、この小さな合弁から学び始めた。[40][6]

    15海外で作る日本の会社

    皇太子からの提案

    1970年、Sonyはニューヨーク証券取引所へ上場した。翌1971年、盛田が社長になる。かつてラジオの名前を外せと言われた国で、いまは投資家が会社の株を売買していた。[8]

    同じ時期、日本から製品を輸出するだけでは、相手国の不満も増えた。客が買ってくれることと、そこで暮らす人が日本企業の進出を歓迎することは、いつも重ならない。盛田は、その国で作り、雇う方向にも会社を進めた。[41][42]

    1970年の大阪万博では、イギリスのチャールズ皇太子と話した。イギリスでの事業を勧められた交流は、1974年のウェールズ工場開設へつながる。外国は、商品を受け取る先だけでなく、Sonyの社員が作る場所にもなっていった。[41]

    16放送の時間から自由にする

    家のテレビを録っておく

    テレビの録画では、1965年のCV-2000、カセット式U-maticを経て、1975年に家庭用のBetamaxを発売した。放送が始まるまでに家へ帰れなくても、後で見られる。盛田が売るのは、画面のきれいさだけでなく、見る時間を選べる暮らしだった。[43][5]

    ところが翌1976年、日本ビクターがVHSを出した。テープに互換性がない。どちらを買うかで、店で借りられる映像も、友人から借りたテープを使えるかも変わる。客が選ぶ時に、画質以外の条件が積み上がっていった。[5]

    盛田の狙った家庭の録画市場は広がった。だが、その中心にBetamaxが居続けるわけではなかった。この競争の結末が出る前に、会社はもう1つ、音を持ち歩く機械へ踏み出す。[5][44]

    17飛行機に持ち込むには重すぎる

    井深のための1台

    井深は、飛行機でも音楽を聞きたかった。持ち歩いていたTC-D5は録音もできて音もよいが、重い。小型のPressmanを、再生だけするステレオ機へ改造してもらう話が、大賀を通じて大曽根幸三らの開発陣へ渡った。[45][44]

    井深のために作った機械を、盛田も試した。これを使いたいのは、海外へ飛ぶ経営者だけだろうか。音楽を1日中聞いていたい若者へ渡せないか。[45][44]

    1979年、盛田は再生専用機の商品化を進めた。[45][44]

    録音できないテープレコーダーは売れない。社内にも販売側にも、そう考える人がいた。従来の商品から見れば、大事な機能を削っただけに見える。盛田は、外へ音楽を連れていく使い方へ、その機械を置いた。[44]

    軽さと壊れにくさを両立する

    本体が小さくても、重いヘッドホンをつけて歩くのでは広がらない。別のチームが進めていた軽量ヘッドホンを組み合わせる。初代の付属品は45グラム。300〜400グラムあった従来機種より、はるかに軽かった。[46]

    初代ウォークマンTPS-L2の内部。2015年の分解記録。
    初代ウォークマンTPS-L2の内部。2015年の分解記録。
    写真:Dave Jones/出典/CC BY 2.0。表示用の縮小・圧縮。

    新しい動作機構を全て作り直す代わりに、既に生産したPressmanの機構も使った。最初の客に故障の多い製品を渡せば、新しい楽しみ方ごと嫌われる。開発陣は、限られた時間を、使える姿にまとめる方へ注いだ。[44][47]

    18録音できない3万3000円

    2人分のイヤホン端子

    価格は3万3000円になった。1979年は創立33周年。その数字を使った盛田の決定で、夏休み前の発売へ進んだ。最初に作る数は3万台。新しい用途の機械へ、まとまった生産を約束した。[44]

    初代TPS-L2には、ヘッドホンを挿す端子が2つあった。隣の人と一緒に聞ける。マイクを通じて会話するボタンもあり、音楽を聞いている人へ声を届けられた。1人の世界へ入る品物に、2人で使う工夫も残した。[48][47]

    1979年発売の初代ウォークマンTPS-L2。2016年、銀座の展示会で撮影。
    1979年発売の初代ウォークマンTPS-L2。2016年、銀座の展示会で撮影。
    写真:Yoshikazu TAKADA/出典/CC BY 2.0。表示用の縮小・圧縮。

    6月の発表では、記者へ実物を渡した。説明を壇上で聞かせるだけでなく、公園へ出て、音楽を聞きながら動いてもらう。普段の景色へ音が重なる体験を、製品の中から伝えた。[44]

    7月に残り8月に足りなくなる

    7月1日、Walkmanが発売された。ところが最初の月に売れたのは3000台ほどだった。作ると決めたのは3万台。その大半が、まだ客の手へ渡っていない。録音機能のない機械への反対を、発売直後の数字が裏付けるようにも見えた。[49]

    宣伝と販売の担当者が、商品をつけて街へ出た。興味を持った相手に聞いてもらう。写真で見るだけでは分からない音を、自分の耳で確かめてもらう。8月末には、最初の3万台が売り切れた。売れ残る不安から、今度は品物が足りない状況へ変わった。[49]

    盛田が作ると決めただけでは、在庫は動かなかった。その機械で過ごす時間を伝えた現場の人がいて、聞いた客がまた次の人へ話した。録音できないという欠落は、外で音楽を聞く楽しさに、ようやく追い越された。[49][46]

    19Walkmanを探す客が来る

    英語らしくない名が広がる

    海外の販売会社は、Walkmanという名に異論を唱えた。アメリカからはSony Disco Joggerという案も出る。盛田は、ディスコへ行く若者だけの物だと思われたくなかった。年齢の違う客にも、この機械を渡したい。[50]

    それでも当初は、アメリカでSoundabout、イギリスでStowaway、オーストラリアでFreestyleと、別の名になった。ところが日本で買った外国人が持ち帰ると、現地の店へWalkmanを求める客が現れた。売る側が付け直した名前より、使う人が覚えてきた名の方が強かった。[50]

    1980年、盛田は名前を世界で統一した。1986年にはOxford English Dictionaryにも載る。英語として不自然だと言われた商品名が、英語の辞書へ入った。SONYの4文字を外国へ覚えてもらうために苦労した男は、もう1つの名前を、客の口コミで広げていた。[50]

    1999年の20周年時点で、カセット型の累計出荷は1億8600万台に達した。CD型やMD型を足す前の数字だった。小さな再生機は、音楽を聞く場所を、居間から街や列車へ連れ出していた。[46]

    20雪の中から音楽を聞きに行く

    カラヤンの操縦するヘリコプター

    海外で会う相手は、工場や販売店の人々だけではなくなった。指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンとも親しくなった。良子が覚えているのは、夫妻がスイスのダボスへ行ったときの誘いだ。迎えに来たヘリコプターを操縦していたのは、指揮者本人だった。[51]

    機体は、道から離れた雪の積もる広場に着いていた。2人は深い雪をかき分けて乗り込み、スイス東部の山岳リゾート、サンモリッツへ向かう。別荘ではプールへ入り、昼食には肉や野菜のポトフを囲んだ。公演の客席から見上げていた人が、同じ食卓へ迎えてくれる距離になっていた。[51]

    食後に散歩へ出るとき、カラヤンが抱えてきたのは、大きなSonyのFMトランジスタラジオだった。外で一緒に聞こうという。良子が写真を撮り、盛田も2人の写真を撮った。録音技術や音響の話ができる相手であり、泳ぎ、食事をし、散歩する友人でもある。世界へ売った機械は、その家でも使う人の持ち物になっていた。[51]

    21電機の看板で生命保険へ

    すぐ売れない商売を選ぶ

    盛田は、新しい機械の外にも事業を求めた。アメリカ中西部・イリノイ州の大都市シカゴで見たPrudentialの大きな建物も、保険へ目を向けるきっかけになった。電機の会社にも、こうした金融の仕事を持てないか。[52]

    相手と組みたいと思っても、製品のように完成すれば店へ出せるものではない。保険の営業には認可が要る。Prudentialとの準備を進める間にも、新しい販売方法への警戒があった。始めるまでに年単位で待った。[53]

    1979年に合弁会社を設け、1981年に営業を始めた。後のソニー生命である。ライフプランナーが客の生活や家族の将来を聞き、必要に合わせて保険を考える。本社と支社を合わせても、最初は約90人だった。[52][53]

    大きくなった電機会社が始めても、保険はその場で大きくならない。盛田は、望む姿へ育つまで20年かかるという目で見た。ラジオの注文を断った時と同じく、すぐ入る売上だけで道を決めない。その判断を、今度は長く続く契約の商売へ使った。[53]

    22憧れの会社と規格を作る

    Philipsと音楽の次を決める

    1980年代に入ると、音楽を入れる媒体そのものも変わった。CDは、音をデジタル情報として記録し、光で読み取る円盤だ。開発で手を組んだのは、SonyとPhilips。1953年、盛田がその規模に驚いて井深へ手紙を書いた会社だった。[54][21]

    今度は、見学して帰る立場ではない。両社は技術を持ち寄り、ディスクや信号の規格を詰めた。大賀も、音楽家としての耳と、音楽を収める側の要求を持って関わった。機械の都合だけでは、新しい音楽の媒体は決まらなかった。[21]

    1982年10月1日、CDプレーヤーCDP-101を16万8000円で発売した。同時にCBS・ソニーから50タイトルのCDを出す。機械だけでなく、そこへ入れてすぐ聞ける音楽もそろえた。1968年に始めた音楽事業が、技術と同じ発売日に並んだ。[15][21]

    1982年発売のCDプレーヤーCDP-101。2008年撮影。
    1982年発売のCDプレーヤーCDP-101。2008年撮影。
    写真:Atreyu(後のトリミング等:Ukexpat)/出典/CC BY 3.0。表示用の縮小・圧縮。

    ジョブズが求めた台数

    この頃、スティーブ・ジョブズもSonyへ来た。AppleのMacintosh開発を率いたロバート・ベルヴィルは、フロッピーディスク装置をめぐる交渉で盛田に会ったことを覚えている。取り外せるディスクに、パソコンのデータを保存する装置だった。[55]

    ジョブズはSonyに強い関心を持っていた。ただ、製造現場を見た際には、生産規模へ厳しい反応もした。欲しい装置があるだけでは足りない。新しいパソコンへ載せる数を、納期までに作ってもらわなければならない。やがてMacintoshにはSonyの装置が採用された。[55]

    かつて外国の会社の特許を使いたいと交渉したSonyへ、今度はアメリカの新しいコンピュータ会社が来る。Sonyの名は、店の客だけでなく、別の製品を作る相手にも必要とされていた。[55]

    23小さな木の箱を目標にする

    5万円を切って持ち歩く

    据え置きのCDプレーヤーが売れても、それで終わらなかった。大曽根は、CDケースを4枚ほど重ねた大きさの木の模型を作り、この姿に収める目標を示した。既存の部品を詰めれば大きくなる。それでも、持ち歩くための大きさを先に置いた。[45]

    盛田は、CDを広めるため5万円未満を押した。1984年のD-50は4万9800円。初期の16万8000円から、価格も体積も下がった。部品と消費電力を詰めた技術者の仕事が、客の手に持てる箱になった。[45][21]

    1984年発売の携帯CDプレーヤーD-50。2005年撮影。
    1984年発売の携帯CDプレーヤーD-50。2005年撮影。
    写真:Norbert Schnitzler / Timo Beil/出典/PD-self。表示用の縮小・圧縮。

    会社には、カセット型Walkmanという大成功がある。その横で、別の媒体の機械を安くする。自分たちが広げたカセットの聴き方へ、別の商品で次を持ち込んだ。音楽をどこへでも連れていく客は、会社の都合で同じテープを使い続けてはくれない。[45][46]

    24最高裁で勝ち店では負ける

    録画機を売る責任

    Betamaxには、規格争いとは別の裁判もあった。UniversalやDisneyが、家庭での録画と機器の販売をめぐり、Sonyらを訴えた。便利な録画機が普及すれば、作品を持つ側の権利はどうなるのか。会社は、自分たちの製品を売り続けられるかを、法廷で争った。[56]

    1984年、アメリカ連邦最高裁は5対4でSony側に有利な判断を出した。この事件で扱った、家庭で放送を後から見るための非営利の録画を公正使用と認め、機器には相当な非侵害用途があることを重く見た。あらゆるコピーを許したのではなく、録画機の販売者を侵害へ加担した側とする主張を退けた。[56]

    VHSもSonyの名で売る

    裁判に勝っても、店でBetamaxが選ばれるとは限らなかった。VHSを作るメーカーと対応する作品が増え、Sonyは1988年、VHS製品も出す決断へ進んだ。自分たちの方式を広めるために走ってきた会社が、競合の方式を自分たちの名で売る。[5]

    盛田が開こうとした、時間に縛られず映像を見る生活は広がった。その客に残るために、会社は自分たちの規格だけを守るのをやめた。10万台の注文を断った強さはあっても、市場で負けた方式まで、意思だけで勝たせることはできなかった。[5]

    25大皿の梨を食べたスター

    マイケルから夜の電話

    1987年、盛田夫妻は横浜スタジアムでマイケル・ジャクソンの公演を見た。その後、神奈川県西部の温泉地・箱根の別荘へ着くと、マイケル側から連絡が来ていた。良子の回想では、本人は来場へのお礼を伝えるとともに、自分の出来に満足できず、次はもっと良い公演を見せたいと話した。[57]

    やがて良子の誕生日の集まりにも来た。自動ピアノやオルゴールに興味を示し、用意された大皿の梨を1人で抱えて食べてしまう。ほかの人には1つも残らなかったという。世界のスターは、家の客として、そんな可笑しな記憶にも残った。[57]

    盛田が音楽家と会うのは、契約の署名だけの時間ではなかった。音を出す仕掛けを楽しむ家へ、音楽を作る人が来る。その関係は、後に盛田が前線を離れた後まで続いていく。[57][22]

    2660歳から雪山へ

    遊びの予定にも人を呼ぶ

    盛田と長く付き合った大前研一は、仕事の会議以外でも行動を共にした。盛田は60歳でスキー、65歳でウィンドサーフィンを始めた。67歳での対談では、70歳になったらスキューバダイビングもしたいと話す。記事を読んだ店から誘いが集まると、70歳を待たずに免許を取り、大前と沖縄の海へ出た。[58]

    沖縄本島西海岸の万座で潜り、翌日には、島々が連なる慶良間諸島の座間味へ向かった。盛田は防水ケースへ入れたSonyのMavicaを持ち込み、水中の写真を撮った。新しい場所へ行けば、見て帰るだけでは済まない。自分の手で機械を使い、海の中を記録した。[58]

    その旅の朝食で、盛田はテーブルの余った席を数え、夕食へ地元の財界人を呼んだ。潜るための休暇も、人と会う予定に変わる。大前には、誰にも会わずに遊びたい気持ちもあった。盛田と出かければ、人の輪がまた増えるのだった。[58]

    1989年、世界の経営者が集まるWEFのためスイスへ行った際には、現地社員のスキー遠足にも夫妻で加わった。場所はスイス東部の山岳地、フリムズ。夕食でフォンデュを囲み、社員のヨーデルの生演奏を楽しむ。役職にかかわらず相手を知ろうとする盛田を、現地社員は記憶していた。講壇で世界の経済を語る人が、その社員たちとは同じ雪山へ出かけていた。[59]

    2720億ドル(約3152億円)で相棒を買う

    CBSの世界へ入る

    1987年11月、SonyはCBSのレコード事業を20億ドル(約3152億円)で買う契約に合意した。完了は1988年。日本で合弁を始めた相手の、世界の事業を引き受ける。ラジオを持って外国を回った会社が、今度は各国の音楽家と作品を抱える側へ進んだ。[60][6]

    その話がまずSonyへ来た背景には、1968年の合弁契約があった。片方が株を売りたいときには、もう片方に優先して交渉できる権利を与える。当初はCBSがSonyをけん制するために設けた条件が、今度は買う側のSonyへ働いた。大賀とアメリカ法人のマイケル・シュルホフらが動いたが、CBSの役員会は売却へ反対し、交渉は10カ月ほど止まる。[6]

    1987年10月の株価暴落、ブラックマンデーが状況を変えた。CBS側が売却へ同意し、翌月の合意へ進む。盛田たちが資金を用意するだけでなく、昔の契約が残り、相手の社内の意思が変わり、市場が揺れる。その組み合わせで、長く一緒に日本のレコード会社を育てた相手を買う機会が生まれた。[6]

    1989年の年次報告書で、盛田と大賀は、製品とサービスを通じて客へ長く喜びを渡す方針を示した。機械と、その機械で楽しむ作品。音楽で持った組み合わせを、次は映像でも持とうとした。[42][6]

    28ハリウッドに日本が来る

    34億ドル(約5358億円)と引き受ける負債

    1989年、Columbia Picturesを買収した。株式の取得は34億ドル(約5358億円)、負債などを合わせれば48億ドル(約7564億円)規模だった。海外へ小さな機械を売る会社が、アメリカの文化を作る大きな会社を買った。[61]

    反応は、価格だけに集まらなかった。貿易摩擦の中で、日本がハリウッドを買うという話になった。盛田は買収の狙いを説明し、現地の人々が働きやすいようにし、作品を日本から細かく指図するつもりはないと伝えた。会社同士の合意ができても、世間へその意味を伝える仕事が残った。[6]

    会社を買っても、映画を作る人々の働き方まで、そのまま手に入るわけではなかった。SonyはColumbiaの経営へ、プロデューサーのピーター・グーバーとジョン・ピーターズを迎えた。2人の会社Guber-Peters Entertainmentも、2億ドル(約315億円)で買う。新しい親会社は、映画づくりを知る経営者にも大きな金を払った。[61]

    だが2人には、Warnerとの契約があった。Sonyで働くことをめぐって訴訟になり、和解が必要になる。1990年の年次報告書は、その解決にスタジオの持ち分や、レコードなどを通販するColumbia Houseの持ち分を含む取引があったことを記録する。買収契約へ署名した後にも、誰がどこで働き、何を相手へ渡すのかという交渉が待っていた。[61]

    本の題名まで海を越える

    同じ1989年、石原慎太郎との共著『「NO」と言える日本』も出した。日本企業や日米関係をめぐる意見を示した本だ。非公式な英訳が広がると、共著者の主張や書名も含めて、盛田自身が反発を受けた。[62][63]

    それぞれの章で書いた意見まで同一ではない。それでも同じ本へ名前を並べれば、外国でどう読まれるかを本人だけでは決められない。1991年の正式な英語版に、盛田の章は入らなかった。製品名を広めるために世界を歩いた人は、自分の名を載せた言葉の広がりにも直面した。[63]

    森一夫は、盛田がアメリカだけでなく、日本の働き方や従業員への利益配分にも疑問を投げていたと記している。相手国を批判して終わる立場ではなかった。日本へ戻れば、日本のやり方も変えるべきだと話した。[1]

    29アメリカの会場で苦言を呈する

    両国の商売の仕方を問う

    1992年2月19日、盛田はアメリカ南部・アラバマ州の州都モントゴメリーで、日米協会の会合に立った。貿易摩擦のさなかでも、相手を喜ばせる挨拶だけで終えなかった。日本もアメリカも、非効率な商売の慣行を抜け出すべきだと述べ、アメリカでは短期の利益が重んじられすぎていないかと問う。製品を作り、産業を長く育てる仕事への評価を求めた。[64]

    出席していた粟倉健二は、その場で盛田と会った。競合メーカーJVCのアメリカ事業を担っていた人だったが、盛田は企業の枠を越え、本社に海外経験を持つ人がどれほどいるかが大切だと語りかけた。自分が外国へ出た経験を、自社の名人芸で終わらせようとはしなかった。[64]

    翌1993年春には、詩『青春』で知られるサミュエル・ウルマンの記念館をつくる募金にも、日本側の発起人の1人として加わった。他の経営者や団体と進め、日本側は2800万円の目標を約2カ月で集めた。アメリカで売上を作る仕事と、その土地の文化を残す仕事が、盛田の晩年には並んでいた。[64]

    30もう1度学ぼうという言葉

    1993年のニューヨーク

    1993年9月、盛田は社内へ、もう1度謙虚にアメリカから学ぼうと伝えた。その場にいた吉田憲一郎は、長くその言葉を覚えていた。1953年に初めて海を越えた盛田から、40年がたっていた。[65]

    この頃、会社では、次の世代が新しい商売を進めていた。久夛良木健や大賀、Sony Music側の人々が関わる家庭用ゲーム機だ。Nintendoとの計画が進まなくなった後、独自の3Dゲーム機へ進み、1993年にSony Computer Entertainmentを設立した。翌1994年、PlayStationが発売される。[66]

    その前に、盛田は病で倒れた。

    72歳で止まった日常

    1993年、脳出血を起こした。世界を飛び回り、人と会い、自分の声で会社を説明してきた生活が止まる。翌1994年、名誉会長へ移り、経営の前線を離れた。[8][10]

    その後の映画事業では、興行収入の大きな作品も生まれた。だが高い費用をかけた作品が、期待したほど客を呼べないことも続いた。1994年9月、グーバーは会長兼CEOを退く。当時のUPI通信は『Last Action Hero』など大型作品の不振や重い支出、経営交代を報じた。人を迎え、作品を送り出しても、それが会社の利益になるまでには、まだ壁があった。[67]

    この年、映画部門は大きな損失処理を行う。営業権の一時償却は2651億6700万円だった。買った時に期待した価値を、帳簿で大きく引き下げた。日本の外で作品を作る人へ任せれば、巨額で買った事業がそのまま利益を返すわけではなかった。[68][6]

    会社は止められない。映画の立て直しも、発売したばかりのゲーム機も、大賀ら次の経営陣と社員が引き受ける。盛田が望んで増やした事業は、盛田が毎日そこにいることを前提にせず、動かなければならなくなった。[65][66]

    31人の声がテープに戻ってくる

    療養の家へ届いた録音

    倒れた盛田へ、マイケル・ジャクソンは自分で作ったテープを送った。回復を願う呼びかけと、静かな音楽を組み合わせたものだった。良子は、朝に起こす前や夜に休む時に聞かせた。亡くなるまで続いた、その家の習慣になった。[57]

    声を残す機械を売るのに苦労した人へ、今度は、人が声を残して届けた。数百万台の出荷でも、数十億ドル(円換算では数千億〜1兆円超の規模)の買収でもない。療養する1人のもとへ届く音に、盛田の始めた仕事があった。[57][16]

    78歳で亡くなる

    1999年10月3日、盛田昭夫は肺炎で亡くなった。78歳だった。翌年の年次報告書には、その死と、ネットワークの時代へ会社を進める取り組みが並んだ。創業者は去っても、製品も事業も組み替えていく会社が残っていた。[8][69]

    ラジオの大口注文を断った時、まだ知られていなかったSONYの4文字には、次々に別の仕事が加わった。売れない録音機の使い道を探す人、カラーテレビを作り直す人、街でWalkmanを聞いてもらう人。盛田が開けた扉を、別の得意な仕事を持つ人々が通っていった。[14][37][49]

    父が家の土地を売り、弟が家業を守ったところから、その道はつながっている。盛田は何もかも自分の手で作る代わりに、人の技術を見つけ、任せ、時には売れないと言われても商品にした。守ると決めた短い名前の下には、成功したものと、失敗して選び直したものが、どちらも残った。[7][20][44][5]

    参考文献・出典 69件

    本文の番号に対応する資料です。本人・関係者のインタビュー、当時の取材、企業の発表を参照しています。

    1. 経済記者・森一夫:盛田昭夫生誕100年(本人取材経験を含む) ↩ 本文
    2. Sony企業史:トランジスタ ↩ 本文
    3. Sony行動規範2025:SONY名称の由来 ↩ 本文
    4. Sony製品史:ラジオ ↩ 本文
    5. Sony企業史:映像事業 ↩ 本文
    6. Sony企業史:映画・音楽 ↩ 本文
    7. 盛田昭夫公式サイト:盛田家の歴史 ↩ 本文
    8. 盛田昭夫公式サイト:年譜 ↩ 本文
    9. Anaheim University:Akio Morita ↩ 本文
    10. PBS:Akio Morita biography ↩ 本文
    11. Sony企業史:創業 ↩ 本文
    12. 郡山史郎:創業期の資金と盛田家の経理人材 ↩ 本文
    13. Sony公式History capsule03・創業期の仕事場 ↩ 本文
    14. Sony企業史:テープレコーダー ↩ 本文
    15. Sony製品史:G型・CDプレーヤー等 ↩ 本文
    16. Sony Time Capsule23:盛田の1950年録音普及冊子 ↩ 本文
    17. Sony Time Capsule2:1954年TC301量産の記録 ↩ 本文
    18. Sony Time Capsule14:1950年代の巡回展示バス ↩ 本文
    19. AV Watch・大賀典雄退任記者会見(2003年1月28日) ↩ 本文
    20. 大賀典雄:盛田昭夫を語る ↩ 本文
    21. Sony企業史:CD ↩ 本文
    22. 盛田良子:妻が語る ↩ 本文
    23. NIC アルファマガジン・盛田昭夫塾を訪ねた展示記録(2024年2月28日) ↩ 本文
    24. Sony Time Capsule25:Albert Cohen、初の海外Sony販売 ↩ 本文
    25. Sony企業史:海外展開 ↩ 本文
    26. 弁護士中村稔本人の回想・SONY商標事件 ↩ 本文
    27. Sony Time Capsule22:Sony America設立時の運搬と自社販売 ↩ 本文
    28. 郡山史郎:初期輸出と資金調達の苦労 ↩ 本文
    29. 盛田正明本人の回想・Sony America現地雇用 ↩ 本文
    30. Sony Time Capsule24:大賀主導のデザイン部門 ↩ 本文
    31. 郡山史郎講演:社員の家族も広報 ↩ 本文
    32. 盛田昭夫公式サイト:著書と原刊行年 ↩ 本文
    33. 盛田昭夫『学歴無用論』出版社公開抜粋 ↩ 本文
    34. 平松庚三:盛田から教わった経営者の明るさ ↩ 本文
    35. 626startouch:1977年母校100周年講演の本人実写・原記録 ↩ 本文
    36. Sony製品史:テレビ ↩ 本文
    37. Sony企業史:トリニトロン ↩ 本文
    38. Sony Time Capsule13:1968年100インチ映像パネル ↩ 本文
    39. Sony企業史:CBSソニー ↩ 本文
    40. Sony Time Capsule15:CBSソニー採用広告と事業開始 ↩ 本文
    41. Sony英国工場と英王室:1970年の提案から1974年開設へ ↩ 本文
    42. Sony1989年年次報告書・盛田/大賀経営書簡 ↩ 本文
    43. Sony企業史:VTR ↩ 本文
    44. Sony企業史:ウォークマン ↩ 本文
    45. Sony製品史:パーソナルオーディオ ↩ 本文
    46. Sony1999年プレスリリース:Walkman20周年と出荷実績 ↩ 本文
    47. Smithsonian National Museum of American History:TPS-L2 ↩ 本文
    48. MoMA2025展覧会ラベル:初代Walkmanの2端子とhotline機能 ↩ 本文
    49. HISTORY:初代Walkmanの発売と初期販売 ↩ 本文
    50. Sony Time Capsule20:Walkman海外名称の統一 ↩ 本文
    51. 盛田良子・カラヤンとの交流 ↩ 本文
    52. Sony Financial Group:金融事業の歴史 ↩ 本文
    53. Sony企業史:保険 ↩ 本文
    54. MoMA所蔵記録:Philips/Sony共同開発のCD ↩ 本文
    55. Robert Belleville本人オーラルヒストリー、CHM、2016、pp67–68 ↩ 本文
    56. 米連邦最高裁:Sony Corp. v. Universal、1984年判決本文 ↩ 本文
    57. 盛田良子:マイケル・ジャクソンとの交流 ↩ 本文
    58. 大前研一本人・盛田との海の休暇 ↩ 本文
    59. Gregory Granzmann・スイス社員に残る盛田の思い出 ↩ 本文
    60. Sony公式企業沿革 ↩ 本文
    61. Sony1990年年次報告書・Columbia買収 ↩ 本文
    62. 国立国会図書館:The Japan that can say no 書誌 ↩ 本文
    63. FCCJ Number1Shimbun2018年11月:盛田の会見と共著問題 ↩ 本文
    64. 粟倉健二本人・1992年アラバマ講演とウルマン記念館 ↩ 本文
    65. Sony2018年5月22日経営方針説明会・吉田憲一郎本人スピーチ1頁 ↩ 本文
    66. Sony企業史:PlayStationは久夛良木・大賀らが主導 ↩ 本文
    67. UPI・Guber resigns from Sony(1994年9月29日) ↩ 本文
    68. Sony1997年年次報告書:過年度映画営業権償却 ↩ 本文
    69. Sony2000年年次報告:盛田の死とネットワーク時代への移行 ↩ 本文

    写真の作者・利用条件・撮影年は各画像の下に記載。取材資料と写真の出典は別々に確認できます。

    ※ 円換算は2026年11月2日確認のWise表示値(1米ドル=157.6円)を使用。取引当時の為替や物価・購買力を再現するものではありません。 為替出典:USD

    本文更新:2026-11-02

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