NOBRILO起業家たちの原点と、その物語。

スティーブ・ジョブズ

Steven Paul Jobs

Apple共同創業者。ガレージから始めた会社を追われ、倒産寸前のAppleへ復帰。iMac、iPod、iPhoneを次々と送り出し、2011年度に売上1,000億ドルを超える企業へ導いた。映画会社Pixarも育て、『トイ・ストーリー』を世界へ届けた。

1955–2011年 / アメリカ出身 / コンピュータ・テクノロジー

物語を読む
黒いタートルネック姿でiPhone 4を持つ、2010年のスティーブ・ジョブズ。
WWDCでiPhone 4を披露するスティーブ・ジョブズ(2010年6月7日)。
写真の出典写真:Matthew Yohe/出典/CC BY-SA 3.0。表示用サイズ・圧縮調整、肖像枠で切り抜き。切り抜き表示もCC BY-SA 3.0。

ハングリーであれ。愚かであれ。

Stay hungry. Stay foolish.

2005年、スタンフォード大学卒業式でのスピーチ。『Whole Earth Catalog』から引用。 原文 · 日本語は編集部訳

資産と事業

WEALTH & BUSINESS

生前の推定資産

70億ドル

約1兆1,032億円

生前の資産・持分

  • Disney株
  • Apple株

Apple

共同創業者・元CEO

iPhone(スマートフォン)、Mac(パソコン)、App Storeや音楽配信など。

年間売上

4,161億ドル

約65兆5,869億円

Pixar

元会長・経営を支えた主要株主

『トイ・ストーリー』などを生んだアニメーション制作会社。1986年にジョブズがLucasfilmの部門を取得し、独立企業として育てた。

買収発表時の取引価額

74億ドル

約1兆1,662億円

NeXT

創業者・元CEO

Appleを離れた後に設立。コンピュータと基本ソフトを開発し、その技術が後のMacの土台になった。

Appleによる総買収価格

4億ドル

約672億円

出典・詳しい補足

Appleの売上は、ジョブズ没後の会社規模。本人の生前の資産とは対象年が異なる。

Pixar:『トイ・ストーリー』などを制作するアニメーション会社。2006年にDisney傘下へ。NeXT:コンピュータと基本ソフトを開発し、1997年にAppleへ統合。

円換算は2026年11月2日確認のWise表示値(1米ドル=157.6円)を使用。取引当時の為替や物価・購買力を再現するものではありません。 元通貨の端数処理前の値から計算し、1億円未満を切り捨て。

金額の対象時点・集計範囲

  • Apple — 年間売上 / 2025年度・連結売上高 / 会社公表(決算表)
  • Pixar — 買収発表時の取引価額 / 2006年1月24日・Disneyによる買収発表 / 会社公表・全株式交換取引。Pixar全体の取引価額。ジョブズ個人の受取額ではない。
  • NeXT — Appleによる総買収価格 / 1997年2月4日取得・Appleの1997年度開示 / 会社公表・会計上の取得価格。現金・株式などを含む会計取得価格。発表段階の現金額とは異なる。

主な保有資産・持分の出典

掲載する割合は、会社の株式に対する各開示基準での保有比率です。本人の資産全体に占める割合ではなく、議決権比率とも異なります。家族・信託・報酬株・オプションなどの算入範囲は各出典に記載しています。生前の持分は当時の時点を示し、現在の遺族・財団の財産とは区別します。

関連事業の確認日:2026-10-31。財務数値の確認日:2026-10-31。金額表示は1億通貨単位未満を切り捨てています。円換算には切り捨て前の元数値を使います。個人資産は保有株式などを含む推計値です。会社の売上は本人の収入や現金残高ではありません。円換算は金額感をつかむための参考で、取引当時の為替や物価を再現したものではありません。投資先・親子会社の売上を合算せず、売却済みの企業は現在の本人保有とは区別します。

THE STARTING CONDITIONS

2つのガチャから見る出発点

高いほど、選べる道や支えが多い。人生の価値ではなく、環境の有利さを表す編集評価です。

時代・場所ガチャなぜこの点数? +81 / 100

1955年に生まれ、電子産業が育つカリフォルニアで少年時代を過ごした。部品を集めたい子どもの近くに技術者がいて、HPのような企業があり、やがて個人用コンピュータの愛好家や投資家も集まった。大きな市場から遠く、専門知識を得る場所も乏しい環境と比べ、関心を仕事へつなげやすい場所だった。

ただし、技術産業への接近が非常に有利でも、1950〜70年代の医療や通信を、後の時代と同じ最高水準には置かない。地域の産業集積と、基本的な暮らしの条件を別々に採点した。成人後はアメリカの市場・大学・専門人材・技術基盤がさらに広がったことを加えた。本人が成功して富裕になったことは、この点数の加点理由にしていない。

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親・環境ガチャなぜこの点数? +88 / 100

養父母は安定した家を用意し、大学進学のために貯蓄を使った。父とのものづくり、関心を受け止めた教師、早くから技術を語り合えたウォズニアックとの関係も、具体的な支えだった。同時代の世界では、中等・高等教育へ進めず、家計を支えるために早く働く子どもも多い。私立大学へ進み、退学後に進路を試し直せたジョブズの選択肢は、かなり広い。

一方、親の学費負担は小さくなく、家業や巨額の資産を継いで自由に起業資金を使える家庭ではなかった。大学へ行けたことを最大級に評価しても、経済的な支えまで一律100点にはしない。成人後は、初期に得た技能・接点が残る効果を含めるが、AppleやPixarで本人が稼いだ資産を親からの支援に置き換えることはしない。

詳しい評価方法はこちら →

THE STORY

スティーブ・ジョブズの物語

選んだ道。その先で、起きたこと。

01世界を変える前に父の手元を見ていた

選んでくれた両親

1955年2月24日、スティーブ・ジョブズはサンフランシスコで生まれた。アメリカ西部・カリフォルニア州の港町だ。彼を迎えたのはポールとクララ。実母が当初望んだ、大学を出た夫婦という条件に2人は当てはまらなかった。それでも息子を大学へ進ませると約束し、養子縁組は決まった。後に彼が途中でやめることになる大学の話は、生まれたときから、すでに両親との間にあった。[1]

父ポールは車を直し、機械を扱う人だった。少年スティーブはその手元を見た。表から見えるところだけ整えればいい、とは教えられなかった。使う人が普段のぞかない場所も、きちんと作る。後に息子がコンピュータの内部まで気にするようになるずっと前に、家の作業台では、それを当たり前にする父がいた。[2]

大富豪の家ではない。だがポールとクララには、息子を大学へ送り出すという約束があった。そのために金をため、関心を受け止め、暮らしを支えた。スティーブが家の外で大胆に動き始める後ろには、帰る場所と、彼のために蓄える親がいた。

果樹園のそばに技術者がいた

サンフランシスコに生まれ、南の街で育つ。全体図と、海・湖・主な河川・市街地を示す拡大図
サンフランシスコに生まれ、南の街で育つ。
地理データ:Natural Earth(パブリックドメイン)。 湖の補助データ:© OpenStreetMap contributors(ODbL)。使用データ。現代の行政区分と都市の代表位置を表示。編集部作図。

家族は同じカリフォルニア州の、果樹園が残る町マウンテンビュー、のちに近くの住宅地ロスアルトスで暮らした。周囲には果樹園が残り、その一方で電子機器を作る会社が増えていた。同じカリフォルニア州で、後に世界的な技術産業の中心地となるシリコンバレーが形を変えつつあった時代だ。近所の大人に、電子機器を仕事にする人がいる。部品や回路の話を、身近な大人から聞ける場所だった。[3]

分からないことを聞ける技術者が、近所に住んでいる。電子機器を作る会社もある。部品を集め、分解して、また組み立てる遊びが、大人の仕事とすぐにつながった。少年が暮らす地域は、やがて世界のテクノロジー企業が集まるシリコンバレーと呼ばれる。その変化は遠いニュースではなく、家の周りで進んでいた。[3]

学校では退屈し、いたずらもした。そこから勉強へ引き戻した教師もいる。指示通りおとなしく座っていれば自然に力を発揮する少年ではなかった。関心をつかまれると深く入り込み、そうでなければ教室の決まりからはみ出す。周囲の大人は、手のかかるその子へ違う働きかけをした。[4]

電話帳の向こうの社長

周波数を数える装置を作りたい。部品が足りない。そこで少年スティーブは、電子機器メーカーHewlett-Packardの共同創業者ビル・ヒューレットへ電話をかけた。紹介を頼んだのでも、会社へ長い手紙を書いたのでもない。電話帳に載っていた番号を調べ、本人へ部品を頼んだ。[4]

電話は実った。ヒューレットは部品を手配し、夏の仕事まで用意してくれた。頼んだ部品だけでなく、会社の中へ入る機会も手に入る。スティーブは、電話帳の名前へ手を伸ばすだけで、相手と話ができることを知った。相手が立派な経営者だからといって、自分から頼んではいけないわけではなかった。[4]

もちろん、電話を受けてくれる相手がいたから成立した経験だ。少年の頼みを取り合い、職場へも招く。スティーブが大胆だっただけでなく、応じた大人もいた。その後の彼は必要な人へ直接近づくことをためらわなくなるが、最初の電話の向こうにいたのは、子どもの関心を面白がる経営者だった。[4]

02もう1人のスティーブ

自分より回路に詳しい友人

1971年、スティーブは年上のスティーブ・ウォズニアックと出会った。周囲からウォズと呼ばれる青年は、電子回路を少ない部品で作ることに夢中だった。面白い仕組みを思いつくと試さずにはいられない。ジョブズも技術に引かれていたが、2人の得意分野は同じではなかった。

ウォズは回路を考える。ジョブズは、それを売る道も考える。2人を結びつけたのは、立派な起業計画ではなかった。機械への興味と、いたずらへの好奇心だ。会社を作る前に、彼らは大きな電話網を小さな箱でだます遊びへ入っていく。[5]

最初の商品は電話網をだます箱

電話網をだますブルーボックス。コンピュータ歴史博物館の展示(2004年撮影)。
電話網をだますブルーボックス。コンピュータ歴史博物館の展示(2004年撮影)。
写真:Photo taken by RaD man. Cropped by David Remahl 2004./出典/CC BY-SA 3.0。表示用にサイズと圧縮を調整。

Appleを始める前、2人は「Blue Box」と呼ばれる装置を作った。当時の電話網の仕組みを利用して、長距離電話の料金を回避するためのものだった。ウォズが電子回路を工夫し、ジョブズが販売に関わった。違法な使い方を可能にする、危うい商売だった。[3]

電話会社の巨大な仕組みが、自分たちで作った箱に反応する。長距離通話を通す信号を再現するだけで、料金を払う経路を回避できた。世界を変える企業の前身にしては、ずいぶん危うい商品だった。それでもウォズは設計し、ジョブズは売り、2人は自分たちの手で作ったものを他人へ渡すところまで進んだ。[3]

後のジョブズは、この箱がなければAppleもなかっただろうと振り返る。大きな仕組みに働きかける自信と、作ったものを売れるという経験。最初にそれを得たのは、人の暮らしを便利にする正統派の製品ではなく、電話料金を回避する装置だった。[3]

大学へ行き大学を辞める

リード大学のエリオット・ホール。2013年撮影。
リード大学のエリオット・ホール。2013年撮影。
写真:Visitor7/出典/CC BY-SA 3.0。表示用にサイズ調整。トリミングなし。

1972年、17歳のジョブズはアメリカ北西部の川沿いの都市、ポートランドにあるReed Collegeへ進んだ。両親は約束を果たした。しかし、学費は家計に重く、本人は必修授業にその費用に見合う意味を見つけられなかった。約半年で退学を決める。

退学しても、学びたい授業はあった。友人の部屋で寝泊まりし、興味を持った講義へ顔を出す。カリグラフィーでは、文字の形や間隔、組み合わせを学んだ。卒業へ向かう必修課程を捨てた後に、文字をどう見せれば美しいかを覚えていく。後にMacintoshへ入る書体への関心は、この一見遠回りに見える時間からも育った。[6]

両親は大学へ進ませる約束を果たした。息子は半年で正規の学生をやめた。その先で得たものが、すぐ金になる技術だったわけでもない。文字の余白や形に引き込まれた青年は、それを何に使うかも決まらないまま学んだ。Macintoshへつながるのは、ずっと後のことだ。[1]

03インドとゲーム会社のあいだ

答えを探して遠くへ行く

大学を離れたジョブズは、ゲーム会社Atariで働いた。Atariは「Pong」などのゲームで知られる、当時の新しい企業だった。ジョブズはそこで働いて旅費を作り、友人とともにインドへ向かった。宗教や精神的な探求に引かれていた時期だった。[7]

給料を得たら、そのまま同じ職場で働き続ける。彼はその道に落ち着かなかった。旅費を作り、インドへ渡る。電子回路を触る仕事から遠く離れた場所で、宗教や精神的な探求へ向かった。後の製品発表会で見せる黒い服の経営者は、このころまだ、自分の進む先を仕事だけで決めていなかった。[7]

帰国すると再びAtariで働いた。旅をし、友人と会い、ゲームを作る仕事へ戻る。その生活の中へ、ウォズの作る回路がもう1度入ってくる。

4日間の仕事と報酬の食い違い

Atariで、ジョブズはゲーム「Breakout」の試作に関わった。画面のブロックをボールで崩していく、いわゆるブロック崩しだ。回路を小さく、少ない部品で実現する力が必要になり、ジョブズはウォズに助けを求めた。

頼まれた期限は4日。ウォズは徹夜を重ねて回路を仕上げた。彼が後に語った報酬は350ドル(約5万5160円)だった。ジョブズが会社から700ドル(約11万320円)を受け取り、半分ずつ分けると説明したからだ。ところが後になって、実際には数千ドル(円換算では数十万〜100万円台の規模)を受け取っていたと知ったという。友人の仕事を持ち込んだ男と、その仕事を徹夜で作った男の間に、金の話が残った。[8]

350ドル(約5万5160円)を渡した。それは半分だったのか。この出来事を語るウォズの回想には、技術でつながった2人の間へ、商売と報酬の分配が入り込む痛みがある。ジョブズが次の仕事へ持ち込むのは、売り込む力だけではなかった。相手にすべてを同じように見せない強引さも、すでにこのころの話に現れていた。[8]

それでも2人の共同作業は続いた。ウォズはまた回路を作る。ジョブズは、それを欲しがる人を探す。Appleが生まれるより前から、2人の間には金を巡る傷もあった。

趣味の集まりに未来の商売があった

1970年代半ば、個人でコンピュータを作る人たちが集まる「Homebrew Computer Club」が活動していた。ウォズは、自分で設計した機械を持ち込み、他の愛好家と情報を交換した。知っていることを人へ教え、工夫を見せ合う文化があった。[9]

その基板を売ろう。ジョブズはウォズが作った回路に、商品になる道を見た。愛好家へ設計を見せるだけなら、その人が部品を買って自分で作る。だが完成した基板を渡せば、そこまでの苦労を引き受けられる。回路を作る楽しみの横で、ジョブズは金を払って受け取る相手を考え始めた。[9]

先に必要なのは、作るための金だった。ジョブズは車を売り、ウォズは高価な計算機を手放した。先に使える金を、自分たちで作らなければならなかった。持っているものを換金し、その金で部品をそろえる。2人は、自分たちの生活の中にある品物を、次の商品へ替えていった。[10]

04注文はある部品代がない

Byte Shopの50台

木製ケースに収められたApple Iの基板
Apple I。機械の中心となる基板が見える。
写真:Kazuhisa OTSUBO/Wikimedia Commons/CC BY 2.0

1976年4月1日、ジョブズ、ウォズニアック、ロナルド・ウェインの3人はAppleを共同で始めた。ウェインは契約書などの整備に関わったが、間もなく持分を手放して離れた。若い2人の事業には、期待とともに、借金を背負う危険もあった。[11]

Byte Shopというコンピュータ店のポール・テレルが、50台を注文した。1台500ドル(約7万8800円)。合計2万5000ドル(約394万円)だ。ただし欲しいのは、客が自分ではんだ付けする部品一式ではない。組み立てた基板を持ってきてほしい。ジョブズは売り先を見つけた。だがその注文を金に変える前に、50台分の部品を買い、組み立て、渡さなければならない。[12]

ジョブズは部品業者と交渉し、支払いを後に回した。店の注文がある。それを信用にして部品を受け取り、組み立て、納品した代金で払う。注文を取っただけでは越えられない隙間を、口で交渉してつないだ。ウォズの回路が商品になるために、ジョブズは製品の外側で金の流れを作っていた。[12]

ガレージの神話その内側

ロスアルトスにあるジョブズの実家とガレージ。2007年撮影。
ロスアルトスにあるジョブズの実家とガレージ。2007年撮影。
写真:Mathieu Thouvenin/出典/CC BY-SA 2.0。表示用にサイズ調整。トリミングなし。

ジョブズ家は作業の場所を提供した。基板を組み立て、検査し、出荷する準備を進める。ウォズが設計し、部品メーカーが作り、販売店が注文し、家族も協力する。その仕事が家の一角に集まった。[5]

Apple Iは、今日のパソコンのように箱を開ければすぐ使える完成品ではなかった。キーボードや画面などは別にそろえる必要があった。それでも、すべてを自分で設計するより大きく先へ進める商品だった。コンピュータを個人が持つ世界が、愛好家の手から少しずつ広がり始める。[9]

次に欲しいのは、客が自分で残りを組み立てなくていい製品だった。基板を手に入れても、画面もキーボードも別に要る。それを普通の人の机へ置くには、むき出しの回路から先へ進まなければならない。ジョブズは、機械の中身だけでなく、手に入れた人が使い始めるところまでを商品にしようとした。

Apple IIで相手が変わる

ディスプレイとキーボードを備えたApple II
Apple II。家庭や学校にも広がった。
写真:Rama & Musée Bolo/Wikimedia Commons/CC BY-SA 2.0 FR

1977年、Apple IIが登場した。キーボードとケースを備え、色の付いた画面を扱える。自分で基板をむき出しのまま使う世界から、机の上に置く製品へ近づいた。投資家マイク・マークラも加わり、会社としての資金と経営の体制が整っていく。[11]

Apple IIの使い道は、ゲームや趣味だけにとどまらなかった。表計算ソフト「VisiCalc」が登場すると、仕事の数字を扱う道具として買う理由が生まれた。計算の条件を変えたときに結果をすぐ見直せることは、紙と電卓で作業していた人にとって大きな変化だった。[13]

VisiCalcを使いたいからApple IIを買う。そんな客が生まれた。回路が好きな人だけでなく、仕事の計算を変えたい人へコンピュータが届き始める。ウォズの設計と、別の開発者が作ったソフトが、売る理由を増やした。ジョブズが欲しかった普通の人へ広げる道は、彼自身が作ったものだけで開いたわけではなかった。[13]

05大きくなる会社小さな娘

1978年リサが生まれる

Appleが成長する中、ジョブズとクリスアン・ブレナンの間に娘リサが生まれた。だが、ジョブズは当初、父子関係を認めなかった。娘リサは後の回想録で、母と暮らした時期の経済的な苦しさや、父との距離を描いている。会社の成功と、家庭で引き受けるべき責任は、同じ速さでは進まなかった。[14]

社内では、新しいコンピュータにLisaという名前が付いた。家の外では娘との父子関係を認めず、会社では同じ名前の製品を進める。製品の物語だけを追えば、そこで父がどんな振る舞いをしたかは見えなくなる。会社を成功させる彼の力は、娘が安心して頼れる父になることと結びついてはいなかった。[14]

後に父娘が過ごす時間は増えた。それでもリサの回想にあるのは、素晴らしい製品を作る父を誇るだけの話ではない。惹かれ、傷つき、また近づく。世界がジョブズを知るようになる間にも、娘は目の前の父との距離を測っていた。[14]

未来を見せられた研究者

Appleには、新しい人材が集まってきた。ビル・アトキンソンは、神経科学の研究をしていた青年だった。ジェフ・ラスキンに招かれて会社へ来ると、ジョブズは社員を紹介し、自分たちが何を作ろうとしているかを説明した。アトキンソンは研究の道からAppleへ移った。[15]

彼が取り組んだのは、画面の上で絵や文字を扱う仕組みだった。黒い背景に文字を並べるだけの画面ではなく、紙のように白い背景に図を描く。技術上の問題や費用の懸念はあったが、ジョブズはその方向を支持した。

こういう画面にしたい。ジョブズは行き先を示し、それを形にできる人を引き込んだ。だが引き込まれた技術者にも判断がある。費用や日程を理由に反対し、別の案を用意し、ときには本人に隠れて仕事を進める。彼が望むコンピュータは、その要求へ人々が従うだけでは完成しなかった。

06Xeroxで見た未来は誰のものか

画面の中の窓

1983年発売のLisa。写真は2022年、ボストンのコンピュータ博物館で撮影。
1983年発売のLisa。写真は2022年、ボストンのコンピュータ博物館で撮影。
写真:Timothy Colegrove / 編集 Shritwod/出典/CC BY-SA 4.0。Commons版の背景加工を保持。追加加工なし。

1979年、ジョブズはカリフォルニア州の大学都市パロアルトにある、Xeroxの研究所PARCを訪れた。Xeroxはコピー機で知られる会社だが、研究所では後のパソコンにつながる技術を開発していた。マウスで画面上のものを選び、窓のように区切られた領域で情報を扱う。文字の命令を覚えて入力するだけではない操作方法だった。[16]

マウスを動かせば、画面の中のものが動く。命令の文字列を覚えなくても、見えている対象を選べる。ジョブズはその可能性に引き込まれた。機械に詳しい人しか使えない世界から、見たものに手を伸ばせば使える世界へ。専門家の研究所の中に、普通の人へ売れるコンピュータの方向があった。[16]

ただし研究所の実演を見たところで、店に並べる製品が手に入るわけではない。使いやすい画面を作り、安く丈夫なマウスを用意し、限られた記憶容量へ押し込む。その仕事はApple側に残っていた。後に盗用の一言で語られる訪問の先には、違う開発者たちが手を動かす長い工程があった。[16][17]

見たものをそのまま作るだけでは届かない

XeroxとAppleの両方で働いたブルース・ホーンは、Macの開発が単純なコピーではなかったことを具体的に説明している。ファイルを扱う仕組みや、操作の細部にはApple側の独自の設計があった。アイデアの出発点を借りることと、製品の全体ができていることの間には距離がある。[16]

マウスも、研究所の高価な装置のままでは家庭へ届けにくい。丈夫で、製造しやすく、直感的に使える形へ変える必要があった。技術を初めて考えた人だけでなく、普通の人が買える製品へする人の仕事があった。[17]

先に考えた人がいる。その考えを見て、製品にしたいと飛びつく人がいる。さらに、売れる形へ設計し直す人がいる。ジョブズはその全部を1人でこなしたのではない。PARCで見た可能性を会社へ持ち帰り、作れる人々へ、実際の製品にするよう迫る側へ回った。

ガレージから株式市場へ

1980年12月12日、Appleは株式を公開した。1株22ドル(約3,467円)で売り出された株式は、急速に買い手を集めた。創業からまだ5年もたっていない。部品を掛けで買い、完成した基板を店へ納めていた会社が、今度は市場で値段の付く会社になった。[18]

25歳になったジョブズが持つ株には、株式市場の値段が付いた。車と計算機を売っていた2人の資産は、数年で別の桁へ移る。初期の社員や投資家も、その変化を経験した。その間にも、次の製品の仕事は進む。Apple IIの後を担う機械をどうするかという問題が、会社には残っていた。[18]

Apple IIは金を生んでいる。ジョブズが夢中になる次の機械は、まだその後を引き受けていない。会社を市場へ出した青年は、すでに売れている製品を守るだけでは満足しなかった。マウスで扱う新しいコンピュータへ、さらに人を集めていく。

今度はゲイツを責める側になる

後にMicrosoftがWindowsを発表すると、ジョブズはビル・ゲイツへ、Appleのアイデアを盗んだと怒りを向けた。MicrosoftはMac用のソフトを作る相手でもあり、開発の内側を知っていた。

ゲイツは切り返した。両社ともXeroxの技術から影響を受けている、と。その場にいたアンディ・ハーツフェルドが記録したやり取りだ。Appleのアイデアを盗んだと責めるジョブズの前に、自分たちも研究所で見たものが突き返された。MicrosoftはMac用ソフトを作る重要な相手だったが、その相手が別の画面の仕組みを広め始めていた。[19]

このゲイツと、後に手を組むことになる。だが今は、怒りを向ける相手だ。Macの内側を知る協力者が、外では競争相手になる。製品を完成させるために必要だった関係は、完成した後にも味方のままとは限らなかった。

07Macの部屋では何が起きていたのか

電源を抜いて席を変える

初代Macintoshの本体とマウス
1984年の初代Macintosh。
写真:All About Apple Museum、Grm wnr(画像加工)/Wikimedia Commons/CC BY-SA 2.5 IT(背景等を加工した画像)

Macintoshの計画は、もともとジェフ・ラスキンらが進めていた。ジョブズが主導権を強めると、開発チームは彼の望む製品へ向けて再編されていく。

1981年、アンディ・ハーツフェルドはMacの仕事へ移りたがっていた。今のApple IIの仕事を片づけてから行くつもりだった。ジョブズは待たない。作業中のコンピュータの電源を抜き、機械を運び出し、新しい席へ連れていった。そこには、去ったジェフ・ラスキンの持ち物がまだ残っていた。ハーツフェルドが考えていた穏やかな異動の段取りは、電源コードごと引き抜かれた。[20]

片づけてから移る。その当たり前の順番さえ、ジョブズが今すぐ必要だと判断すると守られない。新しい仕事は魅力的だった。一方で、自分の都合がどこまで通るかは別の問題になる。Macの開発室へ人を集める力は、こうして相手を振り回す強引さと一緒に働いた。[20]

「できない」が通じない部屋

Macの開発では、要求も締め切りも厳しかった。技術者から見れば、予定どおりには間に合わない。それでもジョブズは、できると信じさせるように話した。チームでは、その説得力が「現実歪曲フィールド」と呼ばれた。現実の制約を曲げて見せるほど、周囲の判断に作用するという意味だった。[21]

技術者には、間に合わない理由が見える。それでもジョブズは、できると言い切る。周囲はその説得力を現実歪曲フィールドと呼んだ。無理だと思う制約まで曲がって見える。引き込まれると、それまでの見積もりを超える工夫が生まれる。だが残った制約は、結局現場で解くしかない。部品と時間を相手にする開発者は、熱に乗りながらも、自分で判断する必要があった。[21]

彼の要求を聞けば、すべて良くなるわけではなかった。要求に従って工夫を重ねる日もあれば、従わずに別の方法を用意する日もある。小さなMacのチームでは、同じ製品を完成させるために、上司を信じることと、その上司に逆らうことが両方必要になっていた。

電卓を本人に作らせる

クリス・エスピノーザは、画面に表示する電卓を作っていた。ジョブズに見せるたび、背景、線、ボタンなどに修正が入る。直しても、また別の部分が気に入らない。[22]

直すたびに、別のところが気に入らないと言われる。そこでエスピノーザは、電卓を直し続けるのをやめた。ボタンや背景の見た目を、ジョブズ自身が変えられる道具を作った。気に入るまで本人に選んでもらう。ジョブズは操作して形を決め、ようやくその電卓の見た目が定まった。[22]

要求の答えが本人の中にあるなら、本人が試せるようにする。技術者が用意したのは、もう1つの完成案ではなく、修正のやり方を変える仕組みだった。画面の小さな電卓には、細部を見逃さない上司と、その上司を扱う側の知恵が入っていた。[22]

08命令に背く人が製品を救う

隠されたSonyの技術者

Macに使うディスク装置が、難題になっていた。自社側で進めた装置は不安定で、そのままでは製品の出荷を危うくする。Sony製の装置を使う道があったが、ジョブズは別の会社と新規開発する方向を求めた。[23]

担当者は、Sonyとの開発も秘密で続けた。ある日、その技術者が現場に来ているところへジョブズが近づいた。見つかれば秘密の作業が止まるかもしれない。技術者を物置へ隠した。世界へ売り出す新しいコンピュータを完成させるために、協力者を創業者の目から隠す。開発室ではそんなことまで起きていた。[23]

結局、別の会社との新規開発では時間がかかり過ぎると分かった。残っていたのは、秘密で進めたSonyの装置だった。これが出荷を支える。ジョブズは、指示に逆らって仕事を続けた担当者へ感謝した。従っていたら間に合わなかった製品を、従わなかった人が完成へ近づけた。[23]

屋上の海賊旗

開発チームは、自分たちを大きな組織の通常の部署とは違う存在として意識していた。屋上には海賊旗が掲げられた。スーザン・ケアが描いた骸骨の眼帯には、Appleの虹色の印があった。ジョブズもその旗を気に入った。[24]

旗を掲げたチームには、自分たちは普通の部署と違うという意識があった。だが同じAppleには、売れているApple IIを支える人も、Lisaを作る人もいる。Macだけが会社の未来を代表する顔をすれば、ほかの部署には面白くない。社外の競争相手へ挑む前から、会社の中にも製品同士の競争があった。[24]

Lisaのチームがその旗を持ち去る騒動まで起きる。冗談めいた旗の取り合いの下には、誰の作る製品が会社を動かすかという競争がある。同じロゴの下で働いていても、開発室の全員が同じ未来を待っていたわけではなかった。[24]

見えない内側に残した署名

ジョブズは、Macのケースの内側に開発者の署名を入れようと提案した。1982年、チームの人々が紙に名前を書き、それがケースの型へ移された。普段使う人は目にしない場所に、作った人の名前が残った。[25]

ケースの内側だから、買った人は普段見ない。それでも名前を刻む。父ポールが見えない場所もきちんと作ったように、製品の内側へ、作り手にしか分からないものを残した。完成品を開けば、開発した人々の名前がそこにある。

電源を引き抜いて異動させ、締め切りを迫る上司が、その人たちの署名を製品へ入れる。同じ人物から出てくる、どちらも実際の行動だった。技術者たちは振り回されながら、自分の名前が入る機械を完成させようとしていた。[25]

09ほんの1秒ほんの1つの記号

起動の待ち時間を人の時間として数える

ジョブズは、Macの起動にかかる時間を短くするよう求めた。担当者へ示したのは、単に競合より速くしたいという話ではない。使う人の数と、毎日待つ秒数を掛ければ、全体として非常に大きな時間になるという考え方だった。[26]

1台の前では数秒でも、多くの人が何年も使えば、その待ち時間は積み重なる。開発側にとっての小さな改善を、客の生活の時間へ置き換えて見せた。技術者たちは起動を速くする工夫を進めた。

速いCPUを積んだ、と言う代わりに、人が待つ時間の話をする。開発者が毎日向き合う数字を、画面の前で過ごす客の時間へ変えて見せる。ジョブズにそう言われた後では、起動の数秒をただの小さな差として扱いにくくなる。[26]

「実行して」が悪口に見えた

操作の言葉にも、思わぬ落とし穴があった。Lisaのテストで、「Do It」と書かれたボタンを、利用者が「dolt」、つまり「間抜け」という意味の単語と読み違えた。大文字のIと小文字のlが紛らわしかった。チームは表記を「OK」へ変えた。[27]

作った側は実行の意味でDo Itと書いた。初めて使う人には、自分をばかにする言葉に見えた。コンピュータを身近にする仕事は、新しい機能を足すだけではない。こういう予想もしなかった読み違いを、テストの場で拾い直すことでも進んだ。[27]

Macのキーボードで知られる⌘の記号にも、具体的な選択の過程がある。メニューの中にAppleのロゴが何度も出ることをジョブズが嫌い、ケアが記号辞典から別の印を探した。北欧で見どころを示すために使われる記号が、小さな画面とキーの上へ移された。[28]

辞典の中の印が、毎日押すキーになる。派手な発表会では目立たない小さな選択も、客が触るときには製品の一部だった。[28]

10拍手の前夜

あの広告は放送されないかもしれなかった

Macintoshの宣伝として作られた「1984」というCMは、後に有名になる。だが、Appleの役員たちは最初から熱狂したわけではない。むしろ反応は悪く、放送枠を売り戻そうとする動きまであった。[29]

画面に映るのは、管理された世界と、そこへ走り込む人物。商品の機能を並べて説明する広告ではない。ジョブズらが強い印象を狙った映像を、役員たちは歓迎しなかった。大きな放送枠を確保しても、肝心のCMが会社の判断で止まりかける。

残った枠でCMは放送された。今ではMacintoshを象徴する広告も、公開前には枠を売り戻されかけていた。名作だから順調に世へ出たのではない。反対を受け、それでも残った機会へ流した映像が、製品の発売前から人々の話題になった。[29]

朝6時工場へ持っていく

広告が注目を集めても、売る製品が間に合わなければならない。発売直前、Macのソフト担当者は、残っている不具合を直すために延期を求めた。ジョブズは出荷を優先した。開発者たちは徹夜で修正を続けた。[30]

開発者は徹夜で修正を続け、朝方の版を確認した。6時ごろ、それを製造のため工場へ運ぶ。問題を全部消してからではない。出荷を止めるほど重大なものかを判断し、残る不具合を抱えたまま送り出した。広告を見て待つ客へ、いよいよ実物を渡す日が来ていた。[30]

もっと直したい開発者と、出すと決めるジョブズ。細部にこだわる男は、ここでは発売を止めなかった。理想の機械は、いつか完全になるのを待つだけでは店へ届かない。その朝、工場へ運ばれた版が、Macintoshとして世へ出た。[30]

Macintoshが舞台の上で声を出す

1984年のスティーブ・ジョブズとMacintosh
1984年、Macintoshとジョブズ。
写真:Bernard Gotfryd/米国議会図書館・Wikimedia Commons(公開上の既知の著作権制限なし、画像を修整)

1984年1月、ジョブズはMacintoshを披露した。小さな本体に画面が収まり、マウスで操作する。コンピュータが合成音声で話す実演も、会場を沸かせた。開発室の衝突や徹夜は、舞台の上では1つの滑らかな体験として現れた。[11]

小さな機械が声を出す。会場の人々が目にしたのは、開発者の徹夜でも、物置へ隠れた技術者でもない。ジョブズが組み立てた順番で動き、初めて見る相手を驚かせる製品だった。開発室の不格好な混乱は、舞台の上で滑らかな未来へ変わった。[11]

発表会の後、客が確かめるのは価格と使えるソフトだった。Macintoshはここから、Appleの売上を引き受ける製品として試されることになった。

11自分の会社で決められることがなくなる

売れる予測と売れた台数

発売直後に注目を集めたMacは、その後、販売の勢いが鈍った。社内の楽観的な予測と、実際の数字が離れていく。Apple IIはなお会社の収益を支えていた。次の時代を作るはずの製品が、今の会社を支える製品に頼っていた。[31]

会社へ呼び込んだジョン・スカリーとの関係も崩れた。Pepsi出身の経営者と、Macを率いる創業者。製品の値段、販売の見通し、組織をどう動かすかを巡って衝突した。ジョブズが必要だとして招いた男が、今度は自分の判断を押し通す前に立ちはだかった。[31]

1985年、取締役会はスカリーを支持し、ジョブズはMac部門の実務上の権限を失った。会長という肩書は残っていても、製品と人を動かす仕事から外された。創業した会社に、自分の席はある。だが、自分が決められることはなくなっていた。[31]

Appleを離れる

ジョブズはその年、Appleを去った。創業から10年もたっていない。自分たちで始め、株式を公開し、新しいコンピュータを舞台へ出した会社から、30歳の創業者が離れる。金も知名度もある。だが、毎日入り込み、細部まで口を出していた製品の仕事はなくなった。

後にStanfordで語ったとき、彼はこの出来事を大きな転機として振り返った。失敗がよかったと話せるのは、その後の人生を生きた本人だ。当時のジョブズには、次の製品も、Appleへ帰る道も、まだ完成していなかった。手元にある資金と、ついてくる仲間で、別の会社を始めることになる。[1]

名前はNeXT。今度の相手は大学や研究の現場だ。高度な仕事をする人へ、優れたコンピュータを届ける。Appleの中で失った自由を、別の会社では持てる。だが自分で決められるようになったからといって、客の予算まで自由になるわけではなかった。

12美しい黒い箱は思いどおりに売れなかった

理想を詰め込んだNeXT

1988年、NeXT Computerが発表された。黒い立方体の本体は、見た目からして他のコンピュータと違った。新しいソフトウェア環境を備え、研究や開発のための道具を目指していた。だが、基本価格は6,500ドル(約102万4400円)。学生が気軽に買えるような金額ではなかった。[32]

基本価格6500ドル(約102万4400円)。その黒い箱にジョブズの理想を詰めても、大学が欲しい台数を買えるとは限らない。すでに使うソフトも設備もある。独特な美しさと、新しい環境を備えた機械はできた。それを十分に売るという、別の難題が残った。[32]

やがてNeXTはハードウェア製造から離れ、ソフトウェア中心へ移った。世界中の机に黒い立方体が並ぶ未来は来ない。ジョブズは、自分で作りたいものを作れる会社でも、売れないという結果を受け取った。それでも、機械の中で育てた技術は残った。[10]

最初のWebサイトはこの機械の上にあった

初期ウェブのサーバーとして用いられたNeXTcube
ウェブの初期に使われたNeXTcube。
写真:Geni/Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0

スイスの研究機関CERNで、ティム・バーナーズ=リーはNeXTのコンピュータを使い、最初のWebサーバーとWebサイトを動かした。研究者が情報をつなぎ、共有するための仕組みが、この機械の上で形になった。[33]

そのNeXTで、ティム・バーナーズ=リーが情報をつなぐ仕組みを作った。ジョブズが売りたかった台数とは別のところで、彼の会社の道具がWebの誕生を支えた。市場で大成功しなかった黒い箱が、世界中の情報へつながる最初の仕事場になった。[33]

Webが生まれた後も、NeXTは十分な台数を売る難しさを抱えた。ジョブズは、黒い箱の製造からソフトウェアへ会社を移す判断を迫られていた。

ソフトウェアが帰り道になる

NeXTのソフトウェアは、後にAppleが求めるものになる。当時のAppleは、次世代の基本ソフトをどう作るかという問題を抱えていた。Macを支える土台を更新したいが、自社の計画は思うように進んでいない。

10年以上前にAppleを離れて作ったものが、今度はAppleに必要とされる。帰るために出ていったのではない。外で別の仕事を続けた結果、その技術が、元の会社の足りないものになっていた。NeXTのソフトウェアは、思いがけずジョブズ自身の帰り道も作る。[11]

そこへ至るまでには、もう1つの会社にも金を入れ続けていた。コンピュータで映像を作る小さな集団。黒い箱よりもさらに、いつ大きく稼げるか見通しにくい相手だった。

13映画会社になるとは決まっていなかった

Pixarはコンピュータを売っていた

1986年、ジョブズはジョージ・ルーカスの会社から独立するコンピュータグラフィックスの部門へ資金を出した。エド・キャットムルやアルヴィ・レイ・スミスらが率いる集団で、これがPixarになる。最初に投じたのは1,000万ドル(約15億円)。まだ長編映画を1本も公開していない会社への、大きな賭けだった。[34]

売ろうとしていたのは、画像処理用の高価なコンピュータだった。映画の長編ではない。ジョン・ラセターたちは短い映像を作り、その技術で何ができるかを見せた。しかし、その映像が素晴らしくても、毎月かかる費用は別に払わなければならない。Pixarには、まだ作品の人気で会社を支える仕組みがなかった。[35]

ピクサーが売っていたPixar Image Computerの前面(2007年撮影)。
ピクサーが売っていたPixar Image Computerの前面(2007年撮影)。
写真:Adam Schuster from Orlando, FL, USA/出典/CC BY 2.0。表示用にサイズと圧縮を調整。

ジョブズは金を足した。最初の1000万ドル(約15億円)で終わらず、投じた累計は約6000万ドル(約94億円)に達した。Appleで得た富が、売れる道を見つけられない会社へ少しずつ流れていく。短編は作れる。技術もある。だが、それが会社を存続させるほどの売上へ変わるまでは、出し続ける金が要った。[34]

資金を出す人と会社を持つ人

共同創業者スミスの記述では、ジョブズが追加資金を入れる過程で、初期の社員たちが持つ持分は薄まっていき、やがてジョブズが全体を所有する形になった。会社が存続できたことと、創業時の仲間の所有権が減ったことは、同じ出来事の2つの面だった。[35]

追加の金が会社を生かし、そのたびに元の仲間の持分は薄くなる。スミスが描いたのは、才能を持つ集団が救われたというだけでは済まない過程だった。金を出すジョブズの側へ、会社の所有も移っていった。[35]

それでも映画の中身を代わりに作ることはできない。Appleでは細部へ入り込み、違うと言って人を動かした男も、ここではラセターやキャットムルたちの仕事に頼った。彼が決められるのは、資金を続け、交渉し、作品が世へ出る道を作ることだった。

小さなランプが観客を驚かせる

Pixarの短編「Luxo Jr.」では、机の上のランプが親子のように動く。人間の顔をそのまま描かなくても、動きの間や姿勢で感情が伝わる。技術の実演でありながら、観客は機械の性能ではなく、そこにいる存在を見始める。[36]

ランプに人間の顔はない。それでも動きを見ていると、親子の関係が伝わる。Pixarの技術者と作り手は、珍しい映像を見せるところから、画面の中の存在を気にしてもらうところへ進んだ。次に何をするのか。短い作品の中で、観客がランプを追い始めていた。[36]

だが数分の作品が届くことと、長編映画を作り、劇場へ客を呼ぶことは違う。Pixarの前には、技術よりもずっと長い物語を支える仕事が残っていた。

14嫌なウッディを作り直す

Disneyと組んだ長編映画

1991年、PixarはDisneyと長編映画の製作契約を結んだ。映画を世界へ届ける力を持つ会社と、コンピュータ映像の技術を持つ小さな会社が組む。Pixarにとって大きな機会だったが、相手は資金も配給も握る巨大企業だった。[36]

持ち主が見ていないところで、おもちゃが動く。中心になるのはカウボーイ人形のウッディと、新しくやって来る宇宙飛行士のおもちゃバズだった。コンピュータで何を描けるかという会社の運命が、古いおもちゃが新しい人気者をどう迎えるかという話へ懸かり始めた。

ところが制作の途中で、ウッディは好感を持ちにくい人物になっていった。関係者の要求を受け、鋭さや刺激を加えるうちに、物語の中心が壊れてしまった。1993年、Disney側は制作を止めた。[37]

技術は動く物語が動かない

動く映像は作れる。だが中心にいるウッディが嫌な人物になってしまえば、観客はその先を見たくならない。制作は止められた。長く金を足してきた会社が、ようやく手にした長編の機会を失うかもしれなかった。技術の成功が、物語の失敗を埋めてはくれない。[37]

制作陣はウッディを作り直した。嫉妬そのものを消すのではない。人気を奪われる怖さと、そのために起こす失敗を、観客が追える物語へ戻す。嫌なことをする人形をただ並べる代わりに、その人形がなぜ間違え、どう関係を変えるかを練り直した。長編を続けられるかどうかは、その仕事に懸かっていた。[37]

ジョブズの資金も交渉力も、ウッディの性格を直してはくれない。作り手たちが直すのを支え、その映画を届ける道を保つしかなかった。コンピュータ部門へ金を出した男は、いつの間にか、おもちゃ同士の関係がうまく描けるかに会社の命運を預けていた。

映画が当たり交渉の立場が変わる

1995年、「Toy Story」が公開された。コンピュータで作られた長編アニメーションは大きな成功を収めた。公開の翌週、Pixarは上場した。長く資金を投入していたジョブズにとっても、会社の価値が大きく変わる転機だった。[38]

当たった作品が、交渉する立場を変えた。映画を作らせてほしい側だった会社に、次の作品も欲しいと言われる理由ができた。技術だけを説明していたころとは違う。世界へ届いた『Toy Story』そのものが、Pixarの次の条件を交渉する力になった。

ジョブズは、才能ある人が仕事をできる環境を作ることを自分の役割として語るようになる。自分が細部を全部決めなくても、会社の価値は生まれる。Appleを出た後、売れない箱に苦しむ横で、彼は別の人が作る物語を事業として支える仕事も覚えていた。

15帰るつもりのなかった帰還

「Pixarにもっと時間を使える」

1996年12月、AppleはNeXTの買収を発表した。買収額は約4億2,700万ドル(約672億円)。売れなかった黒い箱の中で育った技術に、Appleが巨額を払う。ジョブズはAppleへ戻ることになる。[34]

発表の日、Pixarの社員へ送ったメールで、ジョブズはNeXTの技術が多くの人へ届くことを喜んだ。そして2つの会社を経営する負担が減り、Pixarへもっと時間を使えるという期待も書いた。Appleへ戻ると決まった日、本人が思い描いていたのは、Appleだけに人生を戻すことではなかった。[34]

現実は、その予想を変えた。Appleの経営は苦しく、製品の種類も複雑になっていた。ジョブズは助言する立場から、会社を動かす立場へ近づく。1997年には暫定CEOとなり、立て直しを担った。[11]

作らないものを決める

復帰後のAppleでは、製品や計画の整理が進んだ。何種類もある機種や、会社の力を分散させる仕事を減らし、少数の製品へ集中する。新しいものを足し続けるのではなく、何をやめるかを決める仕事だった。[39]

やめる計画の中にも、人が時間をかけて作ったものがある。ジョブズが戻ったから、全員が自分の開発を続けられるわけではなかった。手元の金と人を、作りきれる製品へ絞る。会社を救う仕事は、未来のアイデアを次々増やすより先に、目の前にある仕事を終わらせる判断から始まった。[39]

若いころはMacのチームを特別な集団にし、社内のほかの製品と競った。今度は会社全体の命が懸かっている。自分の理想の1台だけを通せばいい立場ではない。次も作れて、売れて、その次の開発を続けられるAppleへ戻さなければならなかった。

ゲイツが大きな画面に現れる

1997年8月、AppleはMicrosoftとの提携を発表した。Microsoftは1億5,000万ドル(約236億円)の議決権のない株式へ投資し、Mac向けのOfficeを継続する。両社は特許の利用でも合意した。Apple側はInternet Explorerを標準で搭載することになった。[40]

昔、アイデアを盗んだと怒った相手が、大きな画面へ現れる。今度はAppleの将来を支える提携先としてだ。MicrosoftのソフトがMacでも続くことは、仕事に使う客には大きい。相手を負かして気分を晴らすより、客が買い続けられる条件を作る。そのためにジョブズはゲイツと組んだ。

Appleが成功するためにMicrosoftが失敗する必要はない。ジョブズが示したのは、その考えだった。Macの価値を守るため、かつて責めた相手との協力を受け入れる。復帰した男の仕事には、自分の製品を強く信じるだけでは選びにくい判断も入っていた。[40]

16半透明のパソコンが帰還を告げる

iMacの青緑

半透明の青色のiMac G3を背面から撮影した写真
iMac G3。写真は後年のブルーベリー色モデルの背面。
写真:Stephen Hackett/Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0

1998年、iMacが登場した。青緑色の半透明のケースに、画面と本体が1つに収まっている。灰色やベージュの箱が多かったパソコン売り場で、離れた場所からでも違いが分かった。[41]

ジョナサン・アイブらが形にした半透明のケースは、店の中でも目立った。中身の仕様を読み込む前に、見た目で近づきたくなる。ジョブズが復帰して会社を絞った後、Appleはこういう製品を客へ出すのだと、iMacは言葉より先に見せた。[41]

その一方で、フロッピーディスク装置はない。今まで使っていたものを、そのまま全部つなげる製品ではなかった。新しい見た目で近づいた客にも、慣れた方法を変える判断を求める。分かりやすさと強引さは、復帰後の製品にも同居していた。

店まで自分たちで作る

製品を作っても、店頭で良さが伝わらなければ客へ届かない。Appleは、自分たちで小売店を持つ計画へ進んだ。ジョブズはロン・ジョンソンとともに、倉庫の中に作った試作店舗で配置を検討した。[42]

店の配置を考えていたロン・ジョンソンが、組み直したいと言った。製品の種類ごとではなく、客が何をしたいかに合わせて並べる。ジョブズは最初、強く反発した。ここまでの仕事がやり直しになる。それでも後には提案を受け入れ、店の計画は変わった。[42]

反発された時点で引き下がっていたら、店は違う形になっていたかもしれない。相手の提案に強く怒ることと、それを最後まで拒むことは、彼の中で同じではなかった。周りの人々は、否定された後にも、客にとって何がいいかを示さなければならなかった。[42]

触ってから選べる場所

2001年5月、最初のApple Store2店舗が開いた。最初の2日間で7,700人以上が訪れた。実際に製品を触り、質問し、説明を受けられる場所を、会社自身が作った。[43]

買う前に触れる。分からなければ聞ける。Macの画面を使いやすくしたいという会社が、今度はそのMacへ出会う場所を自分たちで作った。製品を棚へ渡して終わる代わりに、客が店へ入ってから持ち帰るまでを、自分たちの仕事へ加えていく。

その年の秋、同じ会社は、机に置かない製品を発表する。今度の行き先はポケットだった。

17千曲を持ち歩き一曲ずつ買う

iPodは最初の音楽プレーヤーではない

初代iPodと後年のiPod nano
右は初代iPod、左は後年のiPod nano。
写真:Gareth Wiscombe/Wikimedia Commons/CC BY 2.0

2001年、AppleはiPodを発表した。デジタル音楽を持ち歩く製品は、すでに他社にもあった。Appleが最初に音楽を携帯できるようにしたわけではない。iPodは、小さな本体に多くの曲を入れ、探して再生する操作と、Macから曲を移す仕組みをまとめた。[44]

ポケットに1000曲。ジョブズはそこを前に出した。今日はどのCDを持っていくかを選ぶ代わりに、まとめて持ち歩く。小さな画面で曲を探し、再生する。複雑な仕様を覚える前に、音楽を好きな人なら欲しい理由が伝わった。[44]

ただし最初はMacが必要だった。Appleの外にいる大勢へ届けるには、Windowsの利用者も使えるようにしなければならない。やがてその壁を越え、Appleのコンピュータを持っていない人のポケットにもiPodが入った。会社の製品へ近づく順番が、パソコンからとは限らなくなる。[45]

音楽会社を説得する

聴く機械を作るだけでは、曲を手に入れる問題が残る。インターネットでは音楽ファイルが広がり、音楽業界は売上や権利の扱いに悩んでいた。Appleは、曲を合法的に買い、すぐ聴ける売り場を作ろうとした。

2003年、iTunes Music Storeが始まった。1曲99セント(約156円)で、欲しい曲を選んで買う。月ごとの定額契約を前提にせず、曲単位で購入できる仕組みだった。レコード会社との契約があって初めて、音楽を広く販売できる。[46]

99セント(約156円)を払えば、欲しい1曲を手に入れられる。探す、払う、取り込む、持ち歩く。その途中で何社もの面倒な手続きを踏まずに済むよう、機械と売場をつないだ。ジョブズが交渉した音楽会社との契約は、手のひらに載るiPodの外側にあるが、使う人の体験には欠かせない部分だった。[46]

次に奪われるのは音楽プレーヤーかもしれない

携帯電話でも音楽を聴けるようになれば、人は専用のプレーヤーを持たなくなるかもしれない。iPodが成功するほど、電話がその役割を取り込む可能性は、Appleにとって無視できなくなる。[47]

iPodは売れている。だからこそ、電話に役割を奪われる未来を放置できなかった。専用プレーヤーを守るために電話へ入り、その電話がいつか専用プレーヤーを要らなくする。Appleは、自分たちの成功した製品を、次の製品で食べる側へ進んだ。[47]

小さな画面の下に物理ボタンを並べる電話ではなく、画面を大きく使い、指で操作する。ジョブズらは、その形へコンピュータの機能を押し込もうとした。手の中に入れば、使う場所も、欲しい機能も変わる。iPodを作った先に待っていたのは、音楽だけでは済まない小さな機械だった。

18かつて止められた映画会社がDisneyへ入る

74億ドル(約1兆1662億円)と2人の作り手

Appleが電話を開発していたころ、Pixarにも大きな転機が来た。2006年1月、DisneyはPixarを株式交換で買収すると発表した。取引額は約74億ドル(約1兆1662億円)。ジョブズはDisneyの取締役へ入り、Pixarのエド・キャットマルとジョン・ラセターは、PixarとDisneyの両方のアニメーション部門を率いることになる。[48]

74億ドル(約1兆1662億円)。かつて長編の制作を止めた側が、今度はその会社へそれだけの価値を付けた。しかも買われる側のキャットムルとラセターが、Disney側のアニメーションも率いる。映画を作る機会を求めた小さな集団は、作品を当てた後に、相手の作り方へも入っていくことになった。[48]

両スタジオは拠点と制作の仕事を続ける方針だった。Pixarという会社の株を渡す一方、そこで育った作り手の仕事は次へ残す。ジョブズはDisneyの取締役になり、株式交換で大きな持分を得た。金を足して守ってきた会社が、彼の財産の中心を変える取引になった。[48]

最初は画像処理コンピュータを売る会社だった。1000万ドル(約15億円)を入れ、その後も資金を足し、長編が当たり、上場した。Appleの外で続けた仕事が、ついに74億ドル(約1兆1662億円)の取引へ育った。元の会社へ戻れたから意味があった、というだけの年月ではない。ジョブズは別の産業でも、大きな会社の持ち主になっていた。[34][48]

その翌年1月、彼はまた舞台へ上がる。今度の製品は、まだ発売できるほど安定していない電話だった。

19完璧な実演の下で技術者は息を詰めていた

順番を間違えると動かなくなる

2007年1月の発表会へ向けて作られたiPhoneの試作機は、まだ不安定だった。開発者への取材では、機能を動かす順番によって問題が起きるため、実演を成功させる手順を探していたことが明かされている。舞台の上の滑らかな操作を支えるため、裏では失敗しにくい経路が作られていた。[47]

発売までは数か月ある。だが世界へ見せる日は来た。舞台で止まれば、その姿が伝わってしまう。開発チームは、試作機が失敗しにくい順番を探し、実演できる経路を作った。ジョブズが指で動かす1つひとつの機能の後ろに、まだ壊れやすい開発中の機械があった。[47]

観客が見たのは、指で画面を動かし、電話をかけ、音楽を聴き、Webへつながる1台だった。開発者が見ていたのは、その実演が最後まで通るかどうかだった。同じ舞台が、見る側と作る側では、まったく違う時間になっていた。

3つの製品が1つにつながる

初代iPhoneを手に発表するスティーブ・ジョブズ
2007年、iPhoneを紹介するジョブズ。
写真:Blake Patterson/Wikimedia Commons/CC BY 2.0(元画像から切り抜き)

音楽プレーヤー。電話。インターネットの通信端末。ジョブズは3つの役割を示した後、それが3台ではなく、1台のiPhoneなのだと明らかにした。客が別々の製品を思い描いたところで、同じ小さな機械へつなげる。仕様を読み上げる前に、今から見るものの意味を、発表の順番で変えてみせた。[49]

写真なら写真を大きく出し、文字を打つときにはキーボードを映す。物理ボタンの場所を固定する代わりに、使いたい仕事へ同じ画面を切り替える。電話をかけるときだけの道具ではなく、持ち歩くコンピュータにもなる。開発者たちは、その体験を発表会の後、普通の客の手元でも動くものへ仕上げなければならなかった。[49][47]

iPhoneが広がると、写真を撮る、地図を見る、店を探す、連絡するという行動が1つの機械へ集まった。ジョブズの会社が作った製品は、使う時間だけでなく、1日の行動の順番にまで入り込むようになる。

先に買った客が怒った

2007年6月末、iPhoneはアメリカで発売された。その約2か月後、Appleは8GBモデルの価格を599ドル(約9万4402円)から399ドル(約6万2882円)へ下げると発表した。これから買う人には朗報だ。しかし、発売を待ち、早く手に入れた客からすれば、同じ機械が突然200ドル(約3万1520円)も安くなる。[50]

ジョブズのもとには抗議のメールが届いた。彼は値下げの判断自体を撤回せず、より多くの人に届けるために必要だと説明した。そのうえで、早期購入者への対応を誤ったとして謝罪し、条件を満たす人にAppleの店で使える100ドル(約1万5760円)分のクレジットを用意した。[51]

誰より早く欲しいと買った人ほど、値下げで損をする。Appleが次の客を増やす判断は、最初の客を怒らせた。ジョブズは値下げを続ける一方、早期購入者に説明し、クレジットを渡す対応を取った。舞台で未来を見せた後には、すでに金を払った人との関係を直す仕事も待っていた。[51]

他の人が作るアプリの場所になる

WWDC 2008でiPhone OS 2.0を説明するジョブズ。App Storeが始まった年の姿。
WWDC 2008でiPhone OS 2.0を説明するジョブズ。App Storeが始まった年の姿。
写真:Erik Pitti/出典/CC BY 2.0。表示用にサイズと圧縮を調整。

2008年、App Storeが始まった。外部の開発者が作るアプリを、利用者が探して入れられる場所だ。Appleが用意する機能だけでなく、多くの会社や個人の仕事が、iPhoneを別の道具へ変えていった。[52]

Appleは入口を管理し、審査や販売の仕組みを持つ。使いやすく安全な売り場を作る一方、何を認めるかを決める強い立場にもなる。小さな機械を誰でも使いやすくするという目標が、巨大な市場の門を管理する仕事へつながった。

ジョブズの製品は、自由を広げる道具として支持されながら、Appleの決めた仕組みの中で動くものでもあった。人が迷わないように選択肢を整理することと、選べる範囲を制限することは、同じ設計の表と裏だった。

20体は思いどおりに動かせなかった

世界へ出す製品と自分の時間

iPhoneが世界を変えていくころ、ジョブズは病気とも向き合っていた。2004年に膵臓の腫瘍の手術を受け、2005年のスタンフォード大学の卒業式では、死を身近に考えた経験を語った。製品の締め切りを動かし、人を説得してきた人にも、自分の体について思いどおりにできないことがあった。[1]

講演で彼は、限られた時間を、他人の期待だけで使い切らないよう学生たちへ呼びかけた。自分が大学を辞め、会社を追われ、別の仕事へ進んだ経験が、そこには重なっていた。

演壇の前には、これから仕事を選ぶ卒業生がいた。大学を辞めた人が、その門出に呼ばれて話している。彼は学位を取り戻すために来たのではない。途中で道を変えても、その先で仕事を見つけ直せることを、自分の経験から話した。[1]

会社を任せて療養する

2009年1月、ジョブズは6月末まで療養休暇を取ると社員へ知らせた。健康問題が当初考えていたより複雑だったと説明し、日常の業務をティム・クックへ任せた。大きな戦略判断には関わり続ける一方、毎日の経営の中心から離れることになった。[53]

創業者が不在でも、商品は製造され、店へ運ばれ、客へ届かなければならない。Appleをジョブズ1人の会社として見るほど、その不在は恐ろしく感じられる。しかし実際には、開発、調達、生産、販売を担う人々が会社を動かしていた。

クックは、その大きな仕組みを運営する役割を担ってきた人だった。ジョブズが製品をどう見せるかに強く関わる一方、その製品を大量に、予定どおり届ける仕事がある。会社の将来は、舞台の上で話す人だけでなく、そうした仕事を誰が引き継ぐかにもかかっていた。

家へ戻る人でもあった

Appleを離れていた1991年、ジョブズはローレン・パウエルと結婚した。仕事ではNeXTとPixarの難題を抱えながら、家庭も築いていった。[54]

娘リサが書いた記憶には、父との関係の痛みが残る。妻ローレンや妹モナ・シンプソンは、回想録で描かれた人物像が自分たちの記憶とは異なると述べた。同時に、幼いリサに十分な父親でなかったことを、ジョブズ自身が悔いていたとも説明している。[55]

製品の完成へ向ける執念が、家族をいつも幸せにしたわけではない。リサが書いた痛みと、妻や妹が語る記憶は、そのどちらも近くで過ごした人のものだった。誰もが同じ画面を見る発表会を離れると、彼は関わった相手ごとに違う時間を残している。[14][55]

21最後まで次の道具を作る

ソファで使うコンピュータ

初代iPadを発表するジョブズ。2010年1月、サンフランシスコ。
初代iPadを発表するジョブズ。2010年1月、サンフランシスコ。
写真:matt buchanan / Commons編集 William Avery/出典/CC BY 2.0。表示用にサイズ調整。トリミングなし。

2010年1月、ジョブズはiPadを発表した。携帯電話より大きく、ノートパソコンより直接的に画面へ触れられる端末だった。写真を広げ、Webを読み、本のページをめくる。キーボードに向かって仕事をする姿勢とは違う使い方を見せた。[56]

電話もパソコンも持っている人へ、もう1台を買ってもらう。画面が大きいだけでは弱い。ジョブズはソファに座り、写真を広げ、ページをめくる使い方を見せた。机へ向かう姿勢でも、小さな電話をのぞく姿勢でもない。新しい道具を持つ理由を、使う人の体の位置から変えて見せた。[56]

発売から28日で100万台を売った。予想以上の需要によって、海外での発売を遅らせる判断もあった。新しい道具を買う理由は、多くの客に伝わった。[57][58]

未来は自分がいなくても続く

2011年8月24日、ジョブズはCEOを辞任した。職務と期待に応えられない日が来たら自分から知らせる、と以前から述べていた。その日が来たと、短い手紙に記した。後任にはティム・クックを強く推薦した。[59]

1985年には、会社の判断で仕事から外された。今度は自分から後任を推薦し、引き継ぎを求める。短い手紙に書いたのは、Appleの最高の時代はまだ先にあるという期待と、一緒に働いた人々への感謝だった。自分の手を離れた後も続く会社へ、次を託した。[59]

同年10月5日、ジョブズは56歳で亡くなった。クックは社員へその知らせを伝えた。会社は翌日以降も動き、製品は売られ、開発は続いた。ジョブズが始め、去り、戻って育て直した会社は、彼の人生より長く続くものになっていた。[60]

ジョブズの資産は、亡くなる直前の2011年9月に70億ドル(約1兆1032億円)と推定されていた。意外にも、資産の中心はApple株ではなくDisney株だった。Pixarの売却によって得たDisney株は、死去時点で約44億7,000万ドル(約7044億円)に上る。Appleを追われた後、資金を注ぎ続けた映画会社が、最後には彼の財産の大部分を形づくっていた。[61]

1人の天才では収まらない

ジョブズの仕事を、発明の一覧だけで終えることはできない。ウォズが作った回路を売り、Xeroxで見た可能性へ飛びつき、Macの開発者へ無理を求め、時にはその開発者に反抗されて製品を救われた。会社を離れた後は、売れない機械と、なかなか利益を生まない映像会社へ資金を注いだ。

抜かれた電源コード。物置へ隠れた技術者。何度も直された電卓。完成品の写真からは見えない人間関係が、その道中にはあった。ジョブズの要求へ従った人だけでなく、逆らった人も製品を支えた。その強さに引き込まれた人も、傷ついた人もいた。

手元の画面には、そうした混乱は見えない。文字を選び、音楽を聴き、地図を指で動かす。多くの人の仕事を1つにまとめ、使う側には迷いを感じさせない。それを求めた男自身の人生は、滑らかさとはほど遠かった。売れない機械へも、金の出ていく映画会社へも回り道をした。

父の作業台を見ていた少年が、世界中の人の手元へ道具を置いた。1人で発明したのではない。人を集め、衝突し、ときには仕事を失い、戻ってまた作った。その人生を通ってきた製品は、彼がいなくなった後も、誰かの日常の中で動いている。

参考文献・出典 61件

本文の番号に対応する資料です。本人・関係者のインタビュー、当時の取材、企業の発表を参照しています。

  1. 養子縁組の条件は大学へ進ませること(本人2005年講演) ↩ 本文
  2. Simon & Schuster:伝記の公開部分:父とのものづくり ↩ 本文
  3. 電話網をだます装置が最初の商品(Smithsonian本人オーラルヒストリー) ↩ 本文
  4. David Sheff:ジョブズへのインタビュー(少年時代と学校、HP) ↩ 本文
  5. Computer History Museum:Steve Wozniak:Apple Iと初期の注文 ↩ 本文
  6. Reed College:ジョブズと大学のカリグラフィー ↩ 本文
  7. National Academy of Engineering:ジョブズの追悼文 ↩ 本文
  8. 4日間のゲーム制作と350ドル(Woz直接インタビュー・全文動画へのリンクあり) ↩ 本文
  9. 自分用の基板を商品へ(所蔵博物館の資料解説) ↩ 本文
  10. Computer History Museum:ジョブズとApple、NeXT、Pixarの歩み ↩ 本文
  11. Computer History Museum:Appleの年表 ↩ 本文
  12. Computer History Museum:Apple Iの最初の注文 ↩ 本文
  13. Dan Bricklin:VisiCalcの最初の製品(開発者本人) ↩ 本文
  14. Lisaという名と父親になる責任(娘自身の回想録公認抜粋) ↩ 本文
  15. 研究者を波の先端へ誘う(Atkinson本人回想) ↩ 本文
  16. Xeroxを見て世界が変わる(XeroxとApple双方で働いたBruce Hornの技術証言) ↩ 本文
  17. IDEO:Appleの初期マウスの設計 ↩ 本文
  18. Computer History Museum:Appleの株式公開(1980) ↩ 本文
  19. Xeroxという裕福な隣人(同席者Hertzfeld回想) ↩ 本文
  20. 電源を抜かれた転属(Hertzfeld本人回想) ↩ 本文
  21. 現実歪曲フィールドの現場(Hertzfeldの観察とTribbleの発言の回想) ↩ 本文
  22. 電卓のダメ出しを終わらせる方法(Hertzfeld本人回想) ↩ 本文
  23. Sonyの技術者が物置に隠れる(同僚Hertzfeldの回想) ↩ 本文
  24. 海賊旗の眼帯はリンゴ(Hertzfeld回想) ↩ 本文
  25. 誰も見ない内側に署名する(参加者Hertzfeld回想) ↩ 本文
  26. 起動を10秒早くする意味(Hertzfeld回想) ↩ 本文
  27. OKが選ばれた小さな理由(Hertzfeldの開発回想) ↩ 本文
  28. Command記号の出所(Hertzfeld回想) ↩ 本文
  29. あのCMは中止されかけた(Hertzfeldの制作現場・社内回想) ↩ 本文
  30. 工場へ出す朝6時まで直す(Hertzfeld本人回想) ↩ 本文
  31. 売れていたはずのMacが止まる(Hertzfeldによる社内経緯) ↩ 本文
  32. 黒い立方体は高すぎた(Computer History Museum) ↩ 本文
  33. 売れなかった機械の上でWebが生まれる(CERN公式歴史) ↩ 本文
  34. Steve Jobs Archive:Pixarへの投資額、NeXT買収額 ↩ 本文
  35. Pixarはまずコンピューターを売る会社だった(共同創業者Alvy Ray Smith自身の記述) ↩ 本文
  36. Pixar:会社の歩み(企業自身の紹介) ↩ 本文
  37. 嫌なウッディを作ってしまう(Catmull直接インタビュー) ↩ 本文
  38. 映画の翌週に上場する賭け(1996年本人インタビューとArchive解説) ↩ 本文
  39. Stanford:Apple復帰時の経営再建(Adam Lashinsky講演) ↩ 本文
  40. 敵と思ったMicrosoftと握手する(当日の共同発表) ↩ 本文
  41. Apple:初代iMac発表資料・MacTech掲載(1998) ↩ 本文
  42. 店をもう一度作り直す(Ron Johnson podcast直接発言の報道) ↩ 本文
  43. 店に来た7700人(当時Apple発表) ↩ 本文
  44. Apple:初代iPod発表(2001) ↩ 本文
  45. Apple:iPodの歩み(企業自身による振り返り) ↩ 本文
  46. 持ち歩ける曲と買える一曲(当日のApple発表) ↩ 本文
  47. 順番を間違えると落ちるデモ(Fred Vogelsteinによる開発者直接取材) ↩ 本文
  48. Disney:Pixar買収と両スタジオの新体制(2006) ↩ 本文
  49. 3つの製品を1つへ(当日公式発表) ↩ 本文
  50. Apple:iPhoneの200ドル値下げ発表(2007) ↩ 本文
  51. USA Today / ABC:早期購入者へのクレジット対応(2007) ↩ 本文
  52. Apple:iPhone 3GとApp Storeの発表(2008年) ↩ 本文
  53. Apple:ジョブズの療養休暇についての社員宛書簡(2009) ↩ 本文
  54. ERIC所蔵:Steve Jobsの人物紹介(1992) ↩ 本文
  55. TIME:リサの回想録に対する家族の声明(2018) ↩ 本文
  56. Apple:iPad発表(2010) ↩ 本文
  57. Apple:発売28日でiPad100万台(2010) ↩ 本文
  58. Apple:海外でのiPad発売延期(2010) ↩ 本文
  59. Apple:ジョブズのCEO辞任の手紙(2011) ↩ 本文
  60. Apple:ジョブズ死去の発表(2011) ↩ 本文
  61. Forbes:Steve Jobs — 2011年の推定資産とDisney株 ↩ 本文

写真の作者・利用条件・撮影年は各画像の下に記載。取材資料と写真の出典は別々に確認できます。

※ 円換算は2026年11月2日確認のWise表示値(1米ドル=157.6円)を使用。取引当時の為替や物価・購買力を再現するものではありません。 為替出典:USD

本文更新:2026-11-02

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