NOBRILO起業家たちの原点と、その物語。

ビル・ゲイツ

William Henry Gates III

Microsoft共同創業者。19歳で売り込んだソフトから、世界のパソコンを動かすWindowsとOfficeの帝国へ。巨額の富と独禁法裁判を経験し、今は感染症や貧困に取り組む財団へ資産を注ぐ。Microsoftの2026年度売上は3,318億3,900万ドル。

1955年生まれ / アメリカ出身 / コンピュータ・テクノロジー

物語を読む
2023年のビル・ゲイツ。落ち着いた表情でペンを持つ。
欧州委員会を訪れたビル・ゲイツ(2023年)。
写真の出典写真:European Commission - Photographer: Jennifer Jacquemart/出典/CC BY 4.0。表示用のサイズ・圧縮調整と肖像枠での切り抜き。

成功は、ろくな教師ではない。賢い人に、自分は負けないと思い込ませる。

Success is a lousy teacher. It seduces smart people into thinking they can't lose.

1995年の著書『The Road Ahead』より。原著はネイサン・マイアボルド、ピーター・リニアソンとの共著。 原文 · 日本語は編集部訳

資産と事業

WEALTH & BUSINESS

推定資産

1,148億ドル

約18兆924億円

主な保有資産

  • Microsoft株
  • Republic Services株
  • Four Seasonsへの出資

主な取得・売却の記録

  • 米国内の農地

Microsoft

共同創業者・元CEO

Windows(パソコンの基本ソフト)、Microsoft 365(文書・表計算など)、Azure(クラウド)やAI関連サービス。

年間売上

3,318億ドル

約52兆2,978億円

TerraPower

創業者・会長

次世代原子炉Natriumや、がん治療に使う医療用同位体を開発するエネルギー企業。

資金調達額

6億ドル

約1,024億円

Breakthrough Energy

創設者

気候変動対策の新技術へ投資し、研究から事業化までを支える。投資ファンドや起業支援などを展開する。

BEV IIIの出資約束額

8億ドル

約1,322億円

出典・詳しい補足

個人資産と会社売上は別の指標。現在のMicrosoftの規模は、ゲイツが日常業務を離れた後の経営陣・社員による成長を含む。円換算は1米ドル=150円の参考値。

資産はForbesの2026年9月11日時点の推計。財団の基金を本人の個人資産へ加算していない。会社売上は2026年6月期で、対象日が異なる。

円換算は2026年11月2日確認のWise表示値(1米ドル=157.6円)を使用。取引当時の為替や物価・購買力を再現するものではありません。 元通貨の端数処理前の値から計算し、1億円未満を切り捨て。

金額の対象時点・集計範囲

  • Microsoft — 年間売上 / 2026年6月期・連結売上高 / 会社公表(決算表)
  • TerraPower — 資金調達額 / 2025年6月18日発表・当該ラウンド / 会社公表・調達完了。累計調達額ではなく、このラウンドの調達額。
  • Breakthrough Energy — BEV IIIの出資約束額 / 2024年7月31日届出・第3号ファンド / SEC Form D/A(販売済み出資約束額)。傘下の投資ファンドBEV IIIの額。支援活動全体の売上ではない。

主な保有資産・持分の出典

  • Microsoft株:Forbes — Bill Gates profile ↗ — 2026年10月31日 / 2026-10-31 / Forbes現行プロフィールは保有1%未満と推計。2025年記事の0.9%も推計なので現時点の確定保有比率へ転用しない。財団Trust保有株は本人の個人資産として加えない。
  • Republic Services株:Forbes — Bill Gates profile / company stakeholder ↗ — 2026年10月31日 / 2026-10-31 / 現行プロフィールでCompany Stakeholderと確認。2025年Forbes資産分析でも最大級の既知保有対象として挙がる。Cascadeを通じる投資と財団Trustの投資を混ぜて合算しない。
  • Four Seasonsへの出資:Forbes — Gates wealth/holdings analysis, updated 2025-06-06 ↗ — 2025年6月6日 掲載情報 / 2025-06-06 / Forbesが主要既知保有対象として紹介。会社公式が過去に公表したCascade71.25%をそのままGates個人の持分と表示しない。Cascadeによる保有と個人への帰属を分ける。
  • 米国内の農地:Cascade Investmentなどを通じた取得を2021年の報道で確認。財団の資産とは別。 — Cascade PBS — Gates investing in American farmland ↗

掲載する割合は、会社の株式に対する各開示基準での保有比率です。本人の資産全体に占める割合ではなく、議決権比率とも異なります。家族・信託・報酬株・オプションなどの算入範囲は各出典に記載しています。生前の持分は当時の時点を示し、現在の遺族・財団の財産とは区別します。

関連事業の確認日:2026-10-31。財務数値の確認日:2026-10-31。金額表示は1億通貨単位未満を切り捨てています。円換算には切り捨て前の元数値を使います。個人資産は保有株式などを含む推計値です。会社の売上は本人の収入や現金残高ではありません。円換算は金額感をつかむための参考で、取引当時の為替や物価を再現したものではありません。投資先・親子会社の売上を合算せず、売却済みの企業は現在の本人保有とは区別します。

THE STARTING CONDITIONS

2つのガチャから見る出発点

高いほど、選べる道や支えが多い。人生の価値ではなく、環境の有利さを表す編集評価です。

時代・場所ガチャなぜこの点数? +83 / 100

1955年の米国シアトルは、大規模な戦禍から距離を置き、学校・病院・電力・通信がそろう都市だった。世界で就学や基本的な生活基盤への接近が限られる境遇と比べ、技術を学び仕事にする道が開かれていた。近くには大学やコンピュータ関連の仕事があり、やがて全米の大きな市場へ商売を広げられた。

一方、当時の医療や通信を、現在の最も整った生活環境と同じには置かない。米国の1955年の平均寿命は69.6歳で、その後の医療水準とは差がある。学校の珍しい端末や親の人脈は、地域の全員に同じように配られたものではないため親・環境側で評価した。成人後の生活基盤と市場の発展を20%で含め、本人の資産額やMicrosoftの成功では加点していない。

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親・環境ガチャなぜこの点数? +98 / 100

同時代の世界を80%、時代を超える共通尺度を20%として比べる。裕福な専門職の父と、教育・慈善・企業活動に広く関わる母が、暮らしと教育の足場を用意した。レイクサイドからハーバードへ進め、世界でも極めて珍しかった中学生のコンピュータ利用を経験できた。家計を支えるために学校を離れる子どもや、機器を学ぶ場所すらない境遇と比べ、教育と試行錯誤の機会は最上位に近い。

両親は反抗期にも支えを保ち、大学を離れて起業するリスクを取れる安心感を与えた。成人後も早期に得た技能や接点の効果は残り、父は寄付や財団の仕事を実務面で支えた。後半の新たな送金額が不明というだけで、支援を消したり下げたりしない。

経済面を100点にしないのは、資料がないからではなく、既存の巨大企業の支配権や莫大な資産をそのまま受け継ぐ形より、家から直接受け取った経営資源が小さいため。教育・支援・接点は極めて厚いが、Microsoftの事業や本人が稼いだ資産まで親からの贈与に置き換えない。家庭の愛情の完全さや親の人格、成功の何%が親のおかげかを測った数字でもない。

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THE STORY

ビル・ゲイツの物語

選んだ道。その先で、起きたこと。

01学校に未来が届いた

シアトルの弁護士の家に生まれる

シアトルから、世界へ。全体図と、海・湖・主な河川・市街地を示す拡大図
シアトルから、世界へ。
地理データ:Natural Earth(パブリックドメイン)。 湖の補助データ:© OpenStreetMap contributors(ODbL)。使用データ。現代の行政区分と都市の代表位置を表示。編集部作図。

1955年10月28日、ビル・ゲイツはアメリカ北西部・ワシントン州の港町シアトルで生まれた。父ウィリアムは弁護士、母メアリーは教育や地域活動に力を注いでいた。家には本があり、子どもの関心に付き合う大人がいた。学校が合わなければ、別の学校を選べるだけの経済力もあった。[1][2]

母は家庭だけに収まる人ではなかった。病院や大学、慈善団体、企業の役員を務め、社会へ出て人を動かした。後にはワシントン大学の評議員にもなる。息子が育った家には、勉強して良い仕事に就く話だけでなく、地域の問題へ時間とお金を使う大人の姿があった。[3][4]

その息子は、扱いやすい優等生にはならなかった。母とぶつかり、自分で決めたがった。本人は後に、母から独立して自分の力を示したい気持ちが、行動する力になったと話している。両親の望むことを全て受け入れる代わりに、言い返しながら自分の場所を探した。[5]

それでも家から支えは消えなかった。父は得意なことだけで満足させず、水泳やサッカーにも挑ませた。衝突しても戻れる場所がある。大学を離れて会社を始めるような大きな賭けに出られたのも、失敗しても両親が味方でいてくれるという確信があったからだと、ゲイツは書いている。[2]

祖母はなぜ勝ち続けるのか

祖母アデルに教わったカード遊びでも、ビルは勝ちたがった。運任せに配ったはずなのに、祖母が何度も勝つ。見ていると、祖母は自分の手札だけでなく、孫たちの札と動きまで追っていた。ビルはそのやり方へ注意を向けた。勝つ相手が何を見ているのか、確かめようとした。[5]

返事は紙に印字された

レイクサイドで使われたものと同型のASR-33端末。写真は別個体を2018年に撮影。
レイクサイドで使われたものと同型のASR-33端末。写真は別個体を2018年に撮影。
写真:ComputerGeek7066/出典/CC BY-SA 4.0。表示用のサイズと圧縮を調整。

1967年、両親はビルをシアトルの私立校レイクサイドへ入れた。翌1968年、学校にテレタイプ端末が届く。母親たちがバザーで集めたお金で、端末とコンピュータの利用時間を用意したのだ。[1]

画面の中にアプリが並ぶ機械ではない。タイプライターに似た端末を電話回線で遠くの大型コンピュータにつなぐ。命令を打ち込み、返事を紙で受け取る。間違えれば、命令を直してもう1度送る。何も知らない人には地味な機械でも、ビルには自分の考えを試せる相手だった。[6][1]

世界の多くの子どもがコンピュータに触れる機会を持たない時代に、ビルは学校で試し続けられる場所を手に入れた。そこで出会ったのが2学年上のポール・アレンだった。アレンは技術を知り、小型のコンピュータがこれからどう変わるかを考えていた。ビルは年上の少年と、機械の前で時間を過ごすようになる。[7]

周囲にはリック・ウェイランドや、同い年のケント・エバンズもいた。誰かが新しいことを覚えれば、ほかの誰かも試す。1人だけで問題を解く勉強とは違い、腕のある仲間が目の前にいた。ビルは学校の中で、仕事を一緒にする人間まで見つけていった。[1][8]

02使いたい時間を仕事で稼ぐ

学校のお金だけでは足りない

プログラムを書くほど、使える時間が減っていく。大型コンピュータは利用時間に応じてお金がかかる。学校が用意した分では、少年たちの熱中に追いつかなかった。

そこで不具合を調べる仕事を引き受け、その見返りにコンピュータを使わせてもらった。自分たちのために覚えた技術が、相手の役にも立つ。機械の前に長くいたければ、会社が困っていることを解決すればいい。ビルたちは学校の外へ出て、利用時間を取りに行った。[6][5]

給与を計算する仕事や、学校の時間割を組む仕事にも取り組んだ。得意な計算を見せるだけでは済まない。教師や生徒の都合を入れ、依頼した側が使えるものを渡す。コードを書くだけでなく、仕事を引き受け、分担し、仕上げるところまで経験していった。[1][8]

最初の会社は交通量を数える

ゲイツとアレンがMicrosoftの前に始めた事業は、Traf-O-Dataだった。道路を通過した車の記録を読み取り、交通量を分析する。道路計画などに使うデータを処理する仕事だ。機械を作るポール・ギルバートも加わり、3人で専用機を形にしようとした。[9][10]

ところが、機械を作れば次々と売れるという商売にはならなかった。技術を動かすことと、自治体などへ継続して買ってもらうことの間には距離があった。後に何十億台ものパソコンへソフトを届ける2人も、最初の専用機では事業を大きくできなかった。[9]

この仕事でアレンは、手元に実機がなくても、別のコンピュータ上でその動きを再現する方法を身につけた。売れなかった機械に費やした時間が、数年後、まだ持っていないコンピュータのソフトを売る勝負で役に立つ。[9][11]

親友を失った時間割

ケント・エバンズとは学校の時間割を作っていた。科目、教師、生徒の希望をぶつけずに並べる。2人は技術だけでなく、その仕事をどう商売にするかも話せる仲間だった。[1]

1972年、ケントが登山事故で亡くなった。17歳。来週も、その次の年も一緒にいるはずだった相手がいなくなった。ゲイツは、残った時間割の仕事を進めるため、すでに学校を離れていたアレンへ助けを求めた。[1][12]

Microsoftの創業者2人は、最初から同じ道を切れ目なく歩いていたわけではない。学校で出会い、別々の生活へ進み、友人を失った後の仕事でまた組んだ。ゲイツのそばには、後まで一緒にいた年上の相棒と、一緒に大人になれなかった同い年の親友がいた。

03ハーバードを途中で離れる理由

数学とカードに時間を使う

ハーバード大学のオールド・ヤード。2005年に公開された写真で、ゲイツ在学時の記録ではない。
ハーバード大学のオールド・ヤード。2005年に公開された写真で、ゲイツ在学時の記録ではない。
写真:The original uploader was Mancala at English Wikipedia./出典/Public domain (author release)。表示用サイズ・圧縮調整。

1973年、ゲイツはハーバード大学へ進んだ。アメリカ北東部・マサチューセッツ州の大学街ケンブリッジ。興味があれば、登録していない講義にも顔を出した。数学ではパンケーキの山を並べ替える問題に取り組み、後に研究者との共著論文にもなった。[13][14]

大小のパンケーキを、上から何枚かまとめてひっくり返す操作だけで順番に並べる。遊びのようでも、どんな山なら何回必要かを突き詰めると難しい。ゲイツはそういう問題へ潜り込める学生だった。一方、夜のポーカーではお金を失うこともあり、使いすぎを止めようとアレンに小切手帳を預けたこともあった。[14][13]

当時、アレンは近くのボストンで働いていた。半導体の性能が上がれば、大企業や大学だけのものだったコンピュータを、個人も持てるようになる。2人はその未来について話し続けていた。ただ、話している間にも、別の誰かが機械を作っていた。

雑誌の表紙に先を越される

1974年末、2人が目にしたのは『Popular Electronics』の1975年1月号だった。表紙に載っていたのはAltair 8800。愛好家が自分で組み立てる、小型コンピュータのキットだった。[7]

考えていた時代が、もう売り物になっている。

大学の授業を終えてから動こうとすれば、その間にも誰かがソフトを作る。ゲイツとアレンは、Altairを開発したMITSへ連絡した。自分たちには、この機械向けのBASICがある。そう売り込んだ。BASICは、利用者が比較的読みやすい命令でプログラムを書くための言語だ。[11]

実際には、まだなかった。

買う側に興味を持たせてから、売るものを作る。ゲイツは大学生のまま、納期のある仕事を自分へ背負わせた。しかも2人とも、Altairの実機を持っていなかった。[11]

04持っていない機械のソフトを売る

4KBへ押し込む

Altair 8800とASR-33端末。現存する機器の展示写真。
Altair 8800とASR-33端末。現存する機器の展示写真。
写真:Tim Colegrove/出典/CC BY-SA 4.0。表示用のサイズと圧縮を調整。

MITSのあるアルバカーキは、アメリカ南西部・ニューメキシコ州の砂漠地帯に広がる街だった。創業者エド・ロバーツは、個人向けコンピュータを売り出していた。買い手が自分で命令を作れるようになれば、機械のできることは広がる。ゲイツたちの売り込みには、必要とされる理由があった。[15][16]

実物の代わりにアレンが用意したのは、Altairの中心にあるIntel 8080の動きを、ハーバードの大型コンピュータPDP-10で再現する仕組みだった。その上でゲイツがBASICを書き、モンテ・ダビドフが数値計算の部分を担当した。[11]

目指したのは4KBという小さな容量だった。コードが場所を食えば、買い手が自分のプログラムを入れられなくなる。命令の処理を組み込み、使う場所を削る。約2か月かけて、実機のないまま商品を作った。[11]

飛行機の中でも足りないものがあった

実演に向かったのはアレンだった。アルバカーキへ飛ぶ途中で、プログラムを機械へ読み込ませるための短いコードが足りないことに気づき、機内で仕上げたという。[17]

用意したBASICを、初めて本物のAltairで動かす。MITSでの実演は成功した。実物のない場所で書いたソフトが、売り込んだ相手の機械で動いた。ロバーツは採用を決める。ゲイツたちは、想像していた市場へ商品を持ち込めた。[15][18]

1万6005ドル(約252万2388円)の売上

1975年7月2日付の8K BASICを記録した紙テープ。2007年に博物館で撮影。
1975年7月2日付の8K BASICを記録した紙テープ。2007年に博物館で撮影。
写真:User:Swtpc6800 Swtpc6800 Michael Holley/出典/Public domain。表示用のサイズと圧縮を調整。

1975年、ゲイツとアレンはMicrosoftを始めた。ゲイツは大学と新しい仕事を行き来したが、顧客への対応は授業の都合を待たない。7月にMITSとライセンス契約を結び、その年の売上は1万6005ドル(約252万2388円)になった。当初の名前はMicro-Soft。小型コンピュータとソフトウェアを組み合わせた名前だった。[18]

自分たちの商品に、代金を払う顧客ができた。ソフトを直し、説明をし、別の機械でも動くものを作る。大学へ戻る道を残していても、目の前の仕事へ使う時間は増えていった。[13][19]

0520歳の売り手が愛好家へ怒る

評判だけでは給料を払えない

BASICを使う愛好家は増えた。だが、正規に買う人ばかりではなかった。プログラムを記録した紙テープを複製し、仲間へ渡す。手元の工夫を共有して楽しむ文化の中で、ソフトも回っていった。[20][21]

開発した側には、次の修正も説明書もある。誰かを雇えば給料もいる。使う人が増えても売上が付いてこなければ、その仕事を続けられない。ゲイツは1976年2月、愛好家へ公開書簡を出し、代金を払わずに使う行為を厳しく批判した。[20][22]

見込み客へ頭を下げて好かれるより、まず自分たちの労働へ金を払えと迫る。20歳の経営者は、コンピュータ好きの仲間でありながら、同じ仲間の振る舞いに公然と腹を立てた。

共有する側からも反論は来た。報酬なしでも開発する人はいるし、金を払うなら十分なサポートも欲しい。ソフトを皆で分ける楽しさと、ソフトを売って人を雇う商売がぶつかった。[21]

ゲイツは売る方へ進んだ。1976年には最初の正式な社員マーク・マクドナルドが加わり、年末には6人になった。売上は2万2496ドル(約354万5369円)。仲間内で腕を見せる少年から、社員のいる会社の経営者へ変わっていた。[22]

日本から納期を守らせに来る

MITSだけに売る会社では終わらなかった。機械ごとに言語ソフトを用意し、顧客を増やした。1978年に売上100万ドル(約1億円)を超え、同年には日本に初の海外営業拠点、ASCII Microsoftが生まれる。翌1979年、本拠地をアルバカーキから、故郷シアトルの東に位置するベルビューへ移した。[23][24]

遠くの顧客が増えれば、約束も増える。大学で試験前に一気に勉強するような進め方を、商品開発でも続けるわけにはいかなかった。日本の取引先は納期が遅れると担当者を飛ばし、長い時間オフィスに居続けた。ゲイツが後に書いた、納期を守らせに来る顧客の話だ。[25]

担当者がオフィスに残っている間も、相手は待っている。予定が変わったなら理由を説明し、次はいつ渡せるかを決める。腕の良い若者が最後に何とかする会社から、遠くの企業が予定へ組み込める会社へ。技術以外にも直すところがあった。

06IBMが期限を持ってやって来る

巨人も全てを自分では作れない

1980年、IBMが個人向けコンピュータの開発を急いでいた。大型コンピュータで強い会社が、小型機の市場へ入る。短期間で完成させるため、社外の部品やソフトを使う方針だった。[26]

Microsoftは言語ソフトを供給する会社として知られていた。同年には大学時代の知人スティーブ・バルマーも加わり、人事、財務、法務などを受け持つようになる。年末の社員は40人。売上は800万ドル(約12億円)へ伸びていた。ゲイツの前へ来た大企業の話は、まだ数人で机を囲んでいた頃とは違う規模で引き受けられた。[27]

ただし、機械全体を動かす基本ソフトは、Microsoftが最初から完成品を持っていたわけではない。ゲイツたちは外部で開発された86-DOSを調達し、IBMの機械へ合わせていく。大きな取引へ手を挙げてから、必要な商品をそろえる。Altairの時とは別の方法で、顧客の期限へ間に合わせようとした。[28][29]

IBM以外にも売れる契約

1981年発売のIBM PC 5150。現存する本体を2010年に撮影。
1981年発売のIBM PC 5150。現存する本体を2010年に撮影。
写真:Ruben de Rijcke/出典/CC BY-SA 3.0。表示用のサイズと圧縮を調整。

IBMに供給しても、ソフトの権利を全部渡さない。ほかのメーカーへ売る道を残した。これが、その後の商売を変えた。[6][30]

1981年8月12日、IBM PCが発表された。企業がIBMの機械を買い、やがてほかのメーカーも互換性のあるパソコンを売り始めた。利用者は機械を替えても使い慣れたソフトを動かしたい。メーカーは、そのソフトの動く基本ソフトを用意したい。IBMだけでなく、次のメーカーからもMicrosoftへ注文が来る。[26][31]

本体のメーカー同士が価格や性能で競争しても、どちらにもMS-DOSを売れる。新しいパソコンが市場へ入るたび、ソフトを入れる場所が増えた。ゲイツたちはIBMという大きな顧客へ入り込みながら、IBM 1社の成績だけでは決まらない商売を手に入れた。[28][6]

母メアリーはUnited Wayなどで経済界の幹部と活動し、父はMicrosoftの重要な局面で法律の相談に乗った。子どもの頃に学校の端末を使えたことから、大学を離れた後の実務まで、家族の支えは続いていた。その足場の上で、ゲイツたちはソフトをそろえ、大きな顧客の期限と契約に応えた。[3][4][2][29]

07病気の相棒と持ち株の話

成長する会社から離れていく

1982年、アレンにホジキンリンパ腫が見つかった。Microsoftの仕事が増えている最中に、治療が必要になった。[32]

アレンは後の回想で、治療中にゲイツとバルマーが、自分の持ち分を薄める話をしているのを聞いたと記している。病気で仕事を減らしている時、そのことが会社の所有へ響く。彼にとって、相棒への信頼を傷つけられる出来事だった。[32]

Microsoftを始めるきっかけを持ち込み、実機のないソフトの開発を支え、最初の実演へ飛んだ人物だった。それでも、毎日の仕事への貢献と持ち株をめぐり、共同創業者の利害はぶつかった。

1983年2月、アレンは副社長を辞めた。取締役と持ち株は残したが、日々の仕事からは離れた。ゲイツは、少年時代から未来の話をしてきた相棒のいない現場で、会社を広げていく。[33]

友人には戻れた

対立の後も、2人の関係は続いた。技術を話し、音楽やスポーツを楽しんだ。アレンは持ち株を保って資産を築き、別の分野にも挑戦した。[12][7]

2018年にアレンが亡くなると、ゲイツは、個人用コンピュータの時代を先に見抜いていた友人について書いた。Microsoftの仕事へ自分を引っ張ったのはアレンだった。ゲイツが世界の富豪になった後も、相棒の先見性と、共に過ごした時間は、自分の歩みから切り離せなかった。[7]

08発表したWindowsがなかなか勝てない

Appleの客へも売る

初代Macintoshの本体とマウス
1984年の初代Macintosh。
写真:All About Apple Museum、Grm wnr(画像加工)/Wikimedia Commons/CC BY-SA 2.5 IT(背景等を加工した画像)

1983年、Microsoftはマウスを売り出し、文書を作るWordも送り出した。同年にWindowsを発表する。文字の命令を打つだけでなく、画面の窓や絵をマウスで動かす環境を、IBM互換機にも広げようとした。[33]

翌1984年、スティーブ・ジョブズのAppleがMacintoshを発売した。Microsoftはその競争相手へも商品を作った。1985年、最初のExcelが登場したのはWindowsではなくMac向けだった。数字を表へ入れ、計算し、グラフにする。Macを買った人が仕事で使う道具にも、Microsoftが入り込んだ。[34][35]

自分たちの基本ソフトが勝つのを待たず、すでに使う人のいる機械で売る。Appleは競争相手であり、Microsoftのソフトを使ってもらう大切な場所でもあった。ゲイツの会社は、味方と敵をきれいに分けるより、商品を売れる相手と契約していった。

発売まで2年かかる

Windowsの発売は1985年11月になった。発表から2年。出した途端にパソコンの中心をさらったわけでもなかった。[35]

すでに仕事で使っているソフトがある。保存したデータがある。新しい画面が便利でも、毎日の仕事を途中で止めてまで乗り換える理由が要る。パソコン自体の性能も、使うソフトも、新しい環境を支えなければならない。[36]

MicrosoftはDOSを売り続け、IBMとはOS/2という別の基本ソフトの共同開発も進めていた。今使われている商品を支えながら、その次の候補を複数抱える。ゲイツはWindowsへ投資を続けた。[6][35]

Windowsを発表する前から、Microsoftには顧客も収益もあった。だから次の製品を育てられたが、会社が伸びていることと、新しい製品が売れることは同じではなかった。発表した未来を、毎日使う商品へ変える時間が続いた。

09株を高く売りたがらなかった創業者

非公開の会社でいたい

1986年3月13日、Microsoftが株式を公開した。ゲイツは30歳だった。

本人は本来、非公開のままでいたかった。ところが社員へ株を持ってもらう制度が広がり、株主数が増えていた。情報開示の義務が生じる人数へ近づく中で、会社は株式公開へ動いた。[30]

引き受けるGoldman Sachsなどが1株17〜20ドル(約2,679円〜3,152円)の価格帯を勧めると、ゲイツはむしろ16〜19ドル(約2,521円〜2,994円)という低い範囲を提案した。値を欲張らず、きちんと売れる条件を選ぼうとした。最終的な公開価格は21ドル(約3,309円)、初日の終値は28ドル(約4,412円)。会社は約6100万ドル(約96億円)を調達した。[30]

1987年、ゲイツはForbesの億万長者の列へ入った。大量の工場を持たなくても、ソフトを複製して売る会社の株が、若い創業者を富豪にした。[37]

駐車場が仕事ぶりの物差しになる

会社の内側では、ゲイツの働き方が周囲にも要求された。初期には社員の車を覚え、駐車場を見て、誰が遅くまで残っているかを確かめていた。休日や休暇を大切にしていなかったと、後に本人が認めている。[38]

コードを深く理解する社長は、製品の細部にも入ってくる。自分と同じ熱量で考え、働くことを求める。その猛烈さでソフトを作り、顧客を増やしてきた一方、家庭や休息のある社員にも同じ速度を迫った。[6][38]

レイクサイドで足りない計算時間を探していた頃と違い、今は人の働く時間まで動かせる立場だった。何を作るかだけでなく、どれだけ働かせるかにも、ゲイツの考え方が表れた。

10WindowsとOfficeが机を占める

7年かけて主役になる

1990年5月、Windows 3.0が発売された。1983年の発表から7年。改良を重ねたWindowsが大きく普及する転機になった。[39][36]

画面で複数の仕事を扱えるようになり、対応するソフトが集まる。ソフトが増えると、そのためにWindowsを選ぶ人も増える。売れるソフトを作るだけでなく、ほかの会社が自分たちの上で商品を作る環境を持つ。それがMicrosoftの強さになった。[36]

その机にはWordがあり、Excelがあり、発表資料を作るPowerPointもあった。MicrosoftはOfficeとしてまとめて提供し、仕事の中で自社商品が占める場所を増やした。Mac向けに始まったOfficeに続き、1990年にはWindows向けも登場した。[40][39]

1990年度の売上は11億8344万6000ドル(約1865億円)。創業年の1万6005ドル(約252万2388円)から15年で、10億ドル(約1576億円)を超えた。別々のメーカーが作るパソコンの上で、Microsoftの基本ソフトと仕事道具が動くようになっていた。[39][18]

日本でも、メーカーの違いを越えて使う土台を作ろうとした。1983年に発表された家庭用コンピュータの共通仕様MSXは、その試みの1つだった。機械が違っても同じ規格のソフトを動かす。各社が競う市場に、共通の足場を置く商売だった。[34]

Appleと画面を争う

窓やアイコンをマウスで動かす画面を広げる間、Appleとは著作権でも争った。1985年の契約でAppleが利用を認めた表示があり、後のWindowsで契約の範囲を超えたかどうかが問題になった。[41]

1994年、控訴審はMicrosoft側に有利な判断を維持した。許諾済みの表示と、アイデアや機能のように著作権で独占できない部分を除き、保護される具体的な表現を検討する。画面の印象だけでなく、過去の契約と、何が権利の対象かが勝敗を分けた。[41]

技術者を集めて製品を良くする。その隣で、使える権利を契約で確保する。IBMへ売った時と同じように、ゲイツの事業を支えたのは動くコードと契約書の両方だった。

11母に誘われた2時間が延びていく

会いたくなかったバフェット

1991年7月5日、母から別荘へ来るよう誘われた。会ってほしい相手はウォーレン・バフェット。企業へ投資して巨額の資産を築いた人物だった。

ゲイツはあまり乗り気ではなかった。仕事を離れて投資家と会う時間を取りたくない。それでも母に説得され、2時間だけというつもりで出かけた。[42]

バフェットはソフトの商売について、ゲイツがそれまで聞かれたことのないような質問をした。2時間は過ぎ、さらに何時間も話した。母が用意した出会いから、長く付き合う友人ができた。[42]

自分とは違う場所から商売を見ている相手だった。技術の細部を作る側と、企業を選んでお金を預ける側。話すたびに、会社と人生について学ぶことがあったとゲイツは書いている。[43]

大富豪が競うのは手札だった

2人はブリッジをするようになった。4人が2組に分かれ、相手の手札を推測しながら競うカードゲームだ。ゲイツが、アメリカ中西部・ネブラスカ州の商業都市オマハへ行く。バフェットがシアトルへ来る。直接会えない時には、オンラインでも遊んだ。[44]

2000年、オマハで対戦した時、バフェットは互いの家を賭けようと冗談を言った。ゲイツはお金を賭けるのを断った。大学時代には小切手帳を預けるほどポーカーへ熱中していた男が、今は大富豪の友人と、金を賭けずに読みを競った。[45]

友情は、やがて寄付へもつながる。だが最初は投資の契約でも、Microsoftへの出資でもない。母の誘いをしぶしぶ受けて会いに行き、話す時間が足りなくなったことから始まった。

12会社の外で父の手を借りる

映画館の列で増えた仕事

ゲイツが慈善活動へ動き始めたのは、Microsoftを離れるより前だった。1993年、メリンダ・フレンチとアフリカへ旅行し、深い貧困に触れた。帰国後、米国なら防げる病気で多くの子どもが亡くなっていることを知った。[46]

商品があっても、買える人がいなければ届かない。薬の性能だけでなく、誰がお金を払い、どこへ運ぶかが命を分けていた。ソフトを作って売る仕事で成功した男の前に、売るだけでは届かない相手が現れた。[47][46]

1994年、母メアリーが亡くなった。父はその後、息子の慈善活動を支えるようになる。1990年代のある晩、ゲイツ、メリンダ、父の3人は映画館の列にいた。増えていく寄付の依頼について話していると、父が手伝うと申し出た。[2]

Microsoftの初期には法律の相談をした父だった。今度は、届く手紙や支援の仕事を引き受けた。新しい仕事を始めるたび、父が別の形でそばにいた。本人たちは親子であるだけでなく、一緒に働く仲間にもなっていった。[2]

台所から母親が出るまで

1994年1月1日、ゲイツとメリンダは結婚した。メリンダはコンピュータと経営を学び、1987年にMicrosoftへ入った専門職だった。最初の子どもが生まれる時、会社を離れると決めると、ゲイツは驚いた。[48]

家族を持っても、仕事の変わり方は同じではなかった。メリンダが負担を言葉にすると、ゲイツは娘を幼稚園へ送るようになる。その姿がほかの家族にも伝わり、周囲の父親の送り迎えにも影響したと、メリンダは話している。[48]

夕食後、皆で片付けても、最後まで台所に残るのはメリンダだった。そこで母親が台所を出るまで、誰も出ないというルールを作った。すると片付けが速くなった。[49]

社員の働く時間を駐車場で見ていた社長も、家の仕事を自分の都合だけで終わらせられない。生活の中で分担を変えた相手と、後には世界へ資金を出す組織を一緒に率いることになる。

13インターネットが足場を揺らす

会社を向き直らせるメモ

1995年5月26日、ゲイツは幹部らへ、インターネットの重要性を訴えるメモを送った。「The Internet Tidal Wave」。成功している商品を売るだけでは追いつけない波が来ていた。[50]

NetscapeのブラウザーNavigatorが広がっていた。ウェブページを見るソフトが、Windowsの外にも利用者と開発者の集まる場所を作りつつあった。ネットの向こうで同じサービスを使えるなら、どの基本ソフトを選んだかの意味は小さくなる。ゲイツは、Windowsが持つ足場を脅かす相手として見ていた。[50][51]

その夏、1995年8月24日にWindows 95を発売した。スタートボタンとタスクバーを備え、パソコンの新製品が大きな消費者向けの出来事になった。店へ人を集め、ニュースになる。Microsoftの名は、仕事の机だけでなく日常の話題へ広がった。[52]

同年度の売上は59億4000万ドル(約9361億円)、社員は1万7801人。会社の勢いは強かった。それでもゲイツは、目の前のWindowsの成功と、その先のネットの危険を同時に見ていた。MicrosoftはInternet Explorerを強化し、ブラウザーを配る競争へ深く入った。[53][51]

親切すぎる部屋は売れなかった

同じ1995年、Microsoft Bobという家庭向けソフトも出していた。画面を家の中のようにし、部屋の机や文房具の絵から仕事を始める。操作に慣れない人へ、知っている暮らしの形で案内しようとした。[54]

ところが、その親切な案内は広く受け入れられなかった。Windows 95が売れた年に、もう1つの使いやすさの提案は外した。Bobで試した案内役などの考えは後の製品にも残ったが、成功した基本ソフトの会社でも、利用者に何が喜ばれるかを毎回当てられたわけではない。[54]

Officeを交渉の切り札にする

ネットの競争では、製品を良くするだけでなく、どこへ配るかが争点になった。Appleとの交渉でも、Macで広く使われるOfficeが切り札になった。

後の裁判で示されたメールなどによれば、MicrosoftはMac向けOfficeを開発し続けるかどうかを、AppleがInternet Explorerを標準のブラウザーとして扱う交渉に使った。Appleの客に必要なソフトを持つことが、別の商品を広げる力になった。[51]

1997年8月、両社は提携を発表した。MicrosoftはMac向けOfficeなどの開発を続け、特許を相互に利用する。AppleはInternet Explorerを標準にする。Microsoftは議決権のないApple株へ1億5000万ドル(約236億円)を投資した。[55]

ジョブズの会社へ金を出す。それだけなら、競争相手を助けた意外な美談で終わる。だがその前には、Appleが手放したくないOfficeを巡る交渉があった。組むことも圧力をかけることも、同じ相手との商売の中にあった。

14世界の前で青い画面になる

スキャナーをつないだ瞬間

裁判が始まる1998年、別の失敗も人前へ出た。発売前のWindows 98を実演する会場で、スキャナーをつなぐとパソコンが青いエラー画面になった。ゲイツはそのすぐそばにいた。[56]

後に開発者レイモンド・チェンが説明した経緯では、開発側で試したスキャナーと、実演側が店で買ってきた機種が違っていた。未試験のスキャナーに不具合があり、デモが止まった。[56]

事前に動かした組み合わせなら成功しても、売られた後は、知らないメーカーの機器が次々とつながる。相手の組み合わせを全て決められないことは、Windowsを広げる強さであり、止めずに動かす難しさでもあった。

15勝つための方法が裁判になる

競争相手へ届く道をふさぐ

1998年、米司法省と州政府がMicrosoftを提訴した。Windowsの支配力を使い、ほかのソフトが利用者へ届く道を妨げていないか。ゲイツたちの販売方法が、法廷で調べられるようになった。[57]

Netscapeのソフトがあっても、パソコンへ入っていなければ利用者へ届きにくい。メーカーがWindowsを載せる条件や、Internet Explorerをどう見せるかが、競争相手の販路へ響く。1999年の地裁の事実認定では、こうした契約や配布の行動が具体的に検討された。[51]

かつてゲイツは、IBMの市場へ入るため権利を残した。今はMicrosoft自身が、ほかの企業が通る大きな入口を持っていた。その入口の条件を決める力が、勝ち続けるためにどう使われたかを問われた。

会社を2つに分ける命令

2000年、地裁はMicrosoftの会社分割を命じた。基本ソフトと、その上で動くアプリの事業を切り離す。ゲイツが1つの会社で広げてきた商売を、別々にする命令だった。[58]

翌2001年、控訴審は独占を維持する違法な行為について責任を一部認める一方、分割命令を取り消した。争いと交渉を経て、2002年に和解に基づく最終判決が出た。[58][59]

会社は分割されずに残ったが、パソコンメーカーとの条件や、他社ソフトが接続するための情報などについて義務を負った。製品を作り、相手に選ばせるという経営の範囲を超え、その選択肢を狭める力をどう制限するかという決着になった。[59]

コンピュータにもっと触りたかった少年が、皆のコンピュータの土台を売るようになる。その会社を守るための行動が、今度は国から制限される。ゲイツの勝ち方は、会社の中だけで決められるものではなくなった。

16Windowsを使わないゲーム機を認める

バルマーへ社長の席を渡す

2000年1月13日、裁判が続く中、ゲイツはCEOをバルマーへ譲った。44歳。会長には残り、Chief Software Architectとして技術や製品を担った。経営を20年間近く支えてきた相手へ日々の指揮を渡し、自分の仕事を組み替えた。[60]

その直後、ゲイツとバルマーの前へ来たのがXboxの提案だった。パソコンの基本ソフトではなく、家庭のテレビへつなぐゲーム機を作る。すでにSonyなどが強い市場で、本体を用意し、ゲームを集める必要があった。[61]

反発した後で承認する

2001年発売の初代Xbox。写真は後期のSコントローラーとの組み合わせを2014年に撮影。
2001年発売の初代Xbox。写真は後期のSコントローラーとの組み合わせを2014年に撮影。
写真:Evan-Amos/出典/Public domain。表示用にサイズと圧縮を調整。

開発を率いたエド・フライズが振り返った2000年2月の会議では、ゲイツはWindowsを中心にしない案へ激しく反発した。バルマーは損失を追及した。会社の強い資産をそのまま使わず、金を失う可能性もある計画だった。[62]

議論では、Sonyが家庭の居間へ入り、その機械がパソコンの仕事まで引き受けるかもしれないという警戒も示された。新しい市場へ出ないことにも危険がある。ゲイツたちは計画を認め、3月にはXbox構想を公に発表した。[62][61]

自分が育てたWindowsを外す提案へ怒った男が、最後には、その案へ会社の資金を使うことを認めた。最初の拒絶だけで会議は終わらなかった。

17新機能より安全を先にする

開発を止める時間

2001年にはCode RedやNimdaといった悪意あるプログラムが広がった。ネットへつながったパソコンの弱点は、その1台だけで済まず、企業の仕事や情報へ被害を広げる。[63]

2002年1月、ゲイツはTrustworthy Computingという方針を社員へ送った。安全性、プライバシー、信頼性を製品開発の中心に据える。通常の開発を止めて問題を探し、修正し、安全なコードの書き方を学ぶ時間を取るようになった。[64][65]

早く出す。機能を足す。相手より広める。その速度で大きくした会社で、今度は立ち止まって弱点を直す。買った後も企業の仕事を支えるソフトへ、開発する順番から手を入れた。[63]

18友人から310億ドル(約4兆8856億円)の株を託される

ワクチンを続けて届ける

オスロを訪れたビルとメリンダ・ゲイツ(2009年6月3日)。
オスロを訪れたビルとメリンダ・ゲイツ(2009年6月3日)。
写真:Kjetil Ree/出典/CC BY-SA 3.0。表示用のサイズと圧縮を調整。

2000年、ビル&メリンダ・ゲイツ財団が発足した。感染症や母子の健康、貧困などへ取り組む。ワクチンがあっても、買い、運び、冷やして保管し、接種する人がいなければ子どもへ届かない。その間の仕事にも金が要った。[66][67]

財団は、予防接種を広げる国際的な仕組みGaviの立ち上げへ、7億5000万ドル(約1182億円)の資金を約束した。ワクチンを必要とする国と、製造する企業の間へ、長期的な資金の見通しを置く。薬を安くするだけでなく、作り続け、届け続けられる条件を整えようとした。[67]

名前を残すより友人へ預ける

2006年、バフェットは、当時310億ドル(約4兆8856億円)を超える価値を持つBerkshire Hathaway株を財団へ寄付する計画を発表した。自分の巨大な財団を新しく作る代わりに、友人夫妻の進めている仕事へ託した。[68]

Microsoftのレドモンド・キャンパス(2006年7月)。
Microsoftのレドモンド・キャンパス(2006年7月)。
写真:Jonathan Schilling/出典/CC BY-SA 4.0。表示用にサイズ・圧縮を調整。

株は年ごとに渡していく。条件には、ゲイツかメリンダが方針決定と運営へ関わること、寄付が従来の支出を置き換えるだけにならないことなどがあった。長く続く友情でも、大きなお金の使い方は書面に残した。[69]

家でカードを囲む友人から、世界へ使う資金を託される。ゲイツは自分の資産だけでなく、バフェットの築いた資産も使って結果を出す立場になった。

中退した大学で格差を話す

2007年、ゲイツはハーバード大学の卒業式へ戻り、名誉博士号を受け取っていた。大学を離れた学生が世界の富豪になり、卒業生へ話す。成功談を求められる場で、本人が取り上げたのは、学生時代に十分知らなかった世界の格差だった。[47]

同じように生まれた子どもでも、使える医療が違う。すでにある方法で救えるのに救えない命がある。自分が与えられた教育や機会を何へ使うか。学校の端末と大学の計算機を使えた男は、今度は、その機会のない側へ技術を届ける仕事を話した。[47][70]

2008年にMicrosoftの日常業務から退き、仕事の重心を財団へ移した。世界へソフトを売る会社で使ってきた時間を、今度は医療や貧困の仕事へ割く。役員としては会社に残ったが、日々の生活の中心は変わった。[71]

19富裕な聴衆へ蚊を放す

遠い病気を会場へ持ち込む

マラリアについて語ったTED2009のゲイツ(2009年2月4日)。
マラリアについて語ったTED2009のゲイツ(2009年2月4日)。
写真:Steve Rosenbaum / Magnify.net Photo credit: Steve Rosenbaum/出典/CC BY 2.0。表示用のサイズと圧縮を調整。

2009年、TEDの壇上でゲイツは容器を開き、蚊を放した。マラリアについて話している最中だった。しばらくして、感染していない蚊だと説明した。[72]

病気で命を落とす人がいる。だが金を持つ人の困りごとには、さらに大きな投資が集まる。その偏りを、聴衆の前を飛ぶ虫へ変えた。遠くの国の問題として座って聞いていた人々も、同じ会場の蚊なら無関係ではいられない。

そこから、マラリアを減らす方法や、対策を続ける難しさへ話を戻した。蚊を放すのは結末ではなく、聞いてもらうための入口だった。[72]

排せつ物からできた水を飲む

2014年11月には、人間の排せつ物を処理する設備へ足を運んだ。Janicki BioenergyのOmniprocessor。廃棄物から飲める水や電気を作る仕組みだった。[73]

ゲイツはそこでできた水をグラスから飲んだ。翌2015年1月に公開した記事と映像で、その動作を世界へ見せた。難しい設備の話を聞く前に、何からできた水を口へ入れたかが分かる。[73]

安全なトイレや処理設備がなければ、病気の原因が暮らしの近くへ戻ってくる。巨大な下水道を敷けない場所にも、使える仕組みが要る。大きな会社で仕事をしていた頃には顧客が払っていた代金を、今は財団が開発を支える形で出していた。[73]

20大金を使っても教室は思い通りにならない

学校を小さくする実験

財団は米国の学校教育にも資金を入れた。大きな高校を小規模にすれば、教師と生徒が近くなり、学びを良くできるのではないか。そうした学校へ支援を進めた。[74]

しかし学校を小さくしただけで、どこでも望んだ結果が出るわけではなかった。ゲイツは2008年の講演で成果の出た学校と不満足な結果の両方を取り上げ、やり方を変える必要を述べた。[74]

続いて、教師の授業や生徒の成績の伸びを測り、その評価を研修、採用、報酬などへ結びつける取り組みに力を入れた。良い授業を見つければ、それを増やす方法も作れる。複数の学区などで、長期の実践と検証が進んだ。[75]

測れるようになっても成績は伸びない

2018年に公表された評価では、教師を評価する仕組みは改善しても、生徒の学力や卒業などで目指した幅広い改善には届かなかった。資金を入れ、観察し、数値を集めても、成果は想定どおりに動かなかった。[76]

ソフトなら不具合を直したものを配り直せる。教室では生徒も教師も違い、その外には家庭や地域がある。良い授業を見分ける手段を作った先にも、毎日の授業を変える仕事が残った。財団は成功した学校の例だけでなく、自分たちの支援が届かなかった部分も評価の対象にした。

21パソコンで勝っても次で負ける

手のひらの市場を取れなかった

それでも、新しい機械が現れるたびに同じように勝てたわけではない。携帯電話ではAppleのiPhoneとGoogleのAndroidが広がり、アプリを作る会社も大きな利用者層のある側へ集まった。[77]

ゲイツは2019年、Androidのような立場をMicrosoftが取れなかったことを、自分の大きな経営上の失敗として語った。パソコンで作った、利用者が集まり、ソフトも集まる循環を、次の機械では相手に回された。[78]

スマートフォン市場が伸びた時のCEOはバルマーで、ゲイツは財団へ重心を移していた。それでも本人は、自分の経営判断の問題として振り返った。WindowsとOfficeが生む巨額の収益が残っていても、次の土台を取れなかった失敗は消えなかった。[78][71]

22警告した流行が現実になる

備える仕組みが足りない

2015年、ゲイツはTEDで次の大きな感染症への備えを訴え、医学誌にも寄稿した。西アフリカのエボラ流行で、危険な感染症へ対応する仕組みの弱さが見えていた。病気が広がってから人や検査を集めるのでは遅い。対応できる体制を先に用意する必要があると論じた。[79]

2020年、新型コロナウイルスの感染が広がり、財団は対策へ資金を出した。ワクチンや治療法の開発が進んでも、買う力の弱い国へどう届けるかが残った。世界で使う量を作り、運び、現場で使えるところまでつなげる。警告した後の現実でも、技術を作っただけでは仕事は終わらなかった。[80]

財団の金はできることを増やす一方、何を優先するかを決める力にもなる。各国政府や医療従事者、地域の人々と組まなければ、寄付者が望む方向だけで医療は動かない。会社で商品を決めていた時とは、相手も権限も違った。[81][67]

23今度は原子炉を建てる

安くしなければ選ばれない

ゲイツは気候変動とエネルギーへも資金を向けた。排出を減らす技術があっても、従来より高ければ広がりにくい。その価格差を縮めることを、仕事の中心に置いた。[82]

発電だけでなく、鉄やセメントや燃料にも、低排出の方法が要る。裕福な人が高い商品を買える状態から、資金の少ない国や企業でも選べる状態へ近づける。ソフトの時に考えた、大勢が使える価格と仕組みを、別の産業でも追いかけた。[82]

関わった会社の1つがTerraPowerだった。開発するのは次世代の原子力発電。ソフトの修正版を配るようには進まない。土地と設備を用意し、工事を続け、安全審査を通る必要があった。[83]

ワイオミングで始めた長い工事

2024年6月、ゲイツはアメリカ西部・ワイオミング州の炭鉱の街ケメラーで、Natrium計画の関連施設の起工式へ出た。液体ナトリウムで熱を運ぶ設計の次世代原発だ。最初に始まったのは、原子炉本体の許可を待つ間にも進められる施設の工事だった。[84]

2026年3月には米原子力規制委員会から建設許可が出た。発電を始めるには、なお建設とその後の手続きが残る。土の上で始まった事業は、まだ完成した発電所にはなっていない。[85]

パソコンなら、1本のコードを直して複製できた。今は資材や人を集め、何年も設備を作る。資産を使って挑戦する場所を広げても、完成を待つ時間まで消せるわけではなかった。

24自分の振る舞いも調べられる

家族と職場に残した問題

2021年、ビルとメリンダは離婚を発表した。27年間の結婚生活が終わった。その後もしばらく財団で働いたが、2024年にメリンダは財団を離れ、自分の活動へ進んだ。[86]

Microsoftでは2019年、社員がゲイツから不適切なやり取りや行動を受けたと申告し、調査が行われていた。2022年に公表された外部法律事務所の報告書は、その調査でやり取りや面会が確認されたことを記載している。ゲイツは行為を認め、合意に基づくものだったと説明した。[87]

会社を大きくした人物自身も、その職場での振る舞いを調べられた。生み出したソフトの価値や寄付した金額とは別に、社員との関係について説明を求められた。

寄付を集める相手の選び方

性犯罪で有罪となったジェフリー・エプスタインとの付き合いも問題になった。ゲイツは保健分野へ寄付を集める目的だったと説明したが、会うことで相手へ信用を与えた判断を誤りと認めた。[88]

2026年7月、財団は外部法律事務所による調査の結果と改善策を発表した。対象となった主な接点は2011〜2014年。富裕層の寄付をまとめる基金の構想は、約束された寄付者らが現れず、進めるのをやめていた。[89]

調査では、財団によるエプスタインへの支払い、性的人身取引などへの参加や認識の証拠は見つからなかったと報告された。一方、理事会は紹介者らの審査や、会長から持ち込まれた案件のリスク管理などを強めることを決めた。[89]

大きな金を集めるために誰と会うか。その選択は財団の信用へ響く。ゲイツ本人が連れてきた相手でも、組織として調べ、立ち止まれる仕組みが必要になった。

25残すためではなく使い切るために

財団へ終了日を置く

2025年5月、ゲイツは残る資産のほぼ全てを慈善へ回し、財団を2045年に閉じる計画を発表した。それまでの20年間に、残る基金と今後の寄付を合わせ、2000億ドル(約31兆5200億円)を超える支出を見込む。[90]

大きな組織を作って永久に残す代わりに、使う期限を決めた。市場や物価で変わる見通しだが、防げる子どもの死、感染症、貧困へ、限られた期間で資金を集中する方針だった。[90]

2026年の年間予算は90億ドル(約1兆4184億円)になった。国際援助が削られる中でも、財団だけで全ての穴は埋められない。どの相手と何を続けるかを選びながら、使う速度を上げようとしていた。[91]

自分抜きでも会社は伸びる

2020年にMicrosoftの取締役を離れた後も、ゲイツは技術への関心を保った。2023年には生成AIを大きな転機として捉え、医療や教育への可能性と、誤りや悪用などの危険を論じた。[71][92]

一方、Microsoftを日々動かすのは、後を継いだ経営陣と社員たちだ。2026年度の売上は3318億3900万ドル(約52兆2978億円)。ゲイツが最初のBASICを書いてから半世紀以上たち、会社は別の世代の顧客へ商品を売っている。[93]

駐車場を見るのをやめた後

若い頃は、誰の車が遅くまで残っているかを見ていた。2023年の卒業式でゲイツが学生へ勧めたのは、仕事以外の関係を大切にし、休む時間を取ることだった。父親になり、自分の考え方が変わったと話した。[38]

13歳のビルは、コンピュータを使う時間をもっと欲しがった。19歳で存在しないソフトを売り込み、その約束を守るためコードを書いた。大きくなった会社では、他人の働く時間や、競争相手が使える販路まで左右するようになった。

手にした金と力でできることは増えた。相棒との信頼も、教室の成果も、家族との関係も、それだけでは思い通りにならなかった。今は自分で終わりを決めた財団へ、資産と時間を移している。かつて機械を使うために稼いでいた男は、手にした富を、残された時間で何へ使うかを選ぶ側にいる。

参考文献・出典 93件

本文の番号に対応する資料です。本人・関係者のインタビュー、当時の取材、企業の発表を参照しています。

  1. HistoryLink:ビル・ゲイツの生涯 ↩ 本文
  2. Bill Gates — Remembering my father ↩ 本文
  3. ワシントン大学:メアリー・ゲイツと基金 ↩ 本文
  4. United Way:ゲイツ家の社会活動 ↩ 本文
  5. CNN:ゲイツの幼少期と回想録インタビュー(2025年) ↩ 本文
  6. スミソニアン国立米国歴史博物館:1993年ゲイツ聞き取り記録 ↩ 本文
  7. Bill Gates:What I loved about Paul Allen ↩ 本文
  8. American Heritage:Even Microsoft Started from Nothing ↩ 本文
  9. Bill Gates:Traf-O-Dataとポール・アレンの記憶 ↩ 本文
  10. ポール・アレンのワシントン大学での講演/Traf-O-Dataとギルバート ↩ 本文
  11. Bill Gates:Microsoft’s original source code ↩ 本文
  12. GeekWire:ゲイツ本人インタビュー/アレンとの関係 ↩ 本文
  13. Harvard Gazette:Dawn of a revolution ↩ 本文
  14. Gates & Papadimitriou:Bounds for sorting by prefix reversal(1979) ↩ 本文
  15. Microsoft:Remembering Ed Roberts ↩ 本文
  16. Computer History Museum:1975年のコンピュータ史 ↩ 本文
  17. Paul Allen:回想録Idea Manの著者公認抜粋 ↩ 本文
  18. Microsoft:1975年の会社史 ↩ 本文
  19. Microsoft:1977年の会社史 ↩ 本文
  20. Bill Gates:An Open Letter to Hobbyists(1976年書簡の複製) ↩ 本文
  21. 同時代の愛好家による公開書簡への応答(1976) ↩ 本文
  22. Microsoft:1976年の会社史 ↩ 本文
  23. Microsoft:1978年の会社史 ↩ 本文
  24. Microsoft:1979年の会社史 ↩ 本文
  25. Bill Gatesほか:The Road Ahead公式抜粋(1996年保存) ↩ 本文
  26. IBM:The IBM PC ↩ 本文
  27. Microsoft:1980年の会社史 ↩ 本文
  28. Computer History Museum:MS-DOSとIBM PC ↩ 本文
  29. Bill Gates:Microsoft救済手続きでの証言 ↩ 本文
  30. Goldman Sachs:1986年のMicrosoft株式公開 ↩ 本文
  31. Computer History Museum:The IBM PC ↩ 本文
  32. WIRED:Paul Allen本人インタビュー(2011) ↩ 本文
  33. Microsoft:1983年の会社史 ↩ 本文
  34. Microsoft:1984年の会社史 ↩ 本文
  35. Microsoft:1985年の会社史 ↩ 本文
  36. Computer History Museum:1990年のコンピュータ史 ↩ 本文
  37. Forbes — The Next Bill Gates ↩ 本文
  38. Bill Gates:2023年北アリゾナ大学卒業式スピーチ ↩ 本文
  39. Microsoft:1990年の会社史 ↩ 本文
  40. Microsoft:1989年の会社史 ↩ 本文
  41. Apple Computer v. Microsoft, 35 F.3d 1435 (9th Cir. 1994) ↩ 本文
  42. Bill Gates — Snapshots of an amazing friendship ↩ 本文
  43. Bill Gates — Great stories from a very smart guy ↩ 本文
  44. Bill and Melinda Gates interview, November 17, 2015 — Kunhardt Film Foundation ↩ 本文
  45. A bridge face-off for Gates and Buffett — Deseret News ↩ 本文
  46. Bill Gates:1993年の初めてのアフリカ旅行 ↩ 本文
  47. Harvard Gazette:ゲイツの卒業式講演(2007) ↩ 本文
  48. Melinda Gates Q&A — Chicago Sun-Times / USA TODAY ↩ 本文
  49. Melinda Gates on the family kitchen rule — GeekWire, quoting CNBC interview ↩ 本文
  50. Bill Gates:The Internet Tidal Wave(1995年社内メモ、裁判提出資料) ↩ 本文
  51. 米連邦地裁:Microsoft事件の事実認定(1999) ↩ 本文
  52. Microsoft:Windows 95の発売と50年の記録 ↩ 本文
  53. Microsoft:1995年の会社史 ↩ 本文
  54. Stanford:Why People Hate the Paperclip/Bobの設計史 ↩ 本文
  55. Microsoft・Apple:1997年提携の共同発表 ↩ 本文
  56. Raymond Chen:Windows 98のデモ失敗と放送設備の教訓 ↩ 本文
  57. 米司法省:Microsoft反トラスト事件の裁判資料 ↩ 本文
  58. USA v Microsoft Corp, 253 F.3d 34, D.C. Circuit, June 28 2001 ↩ 本文
  59. U.S. DOJ — Microsoft Antitrust Final Judgment Expires May 12 ↩ 本文
  60. Microsoft — Facts About Microsoft, timeline ↩ 本文
  61. Microsoft:Xbox計画の発表(2000年3月10日) ↩ 本文
  62. GameSpot:Xbox責任者Ed Friesの初期計画についてのインタビュー ↩ 本文
  63. Microsoft:Trustworthy Computingの20年 ↩ 本文
  64. Bill Gates:Trustworthy Computing社内メモ(2002) ↩ 本文
  65. Microsoft:安全なソフトウェア開発の進捗報告 ↩ 本文
  66. Gates Foundation:設立と主要な出来事 ↩ 本文
  67. Gavi:Gates Foundationの資金拠出と役割 ↩ 本文
  68. Gates Foundation — 2006 Annual Report, p.6 ↩ 本文
  69. Berkshire Hathaway — Form 8-K, June 25, 2006 ↩ 本文
  70. Bill Gates:2007年ハーバード卒業式講演原文 ↩ 本文
  71. Microsoft:2020年のゲイツ取締役退任発表 ↩ 本文
  72. TED:ゲイツのマラリア・教育についての講演全文(2009) ↩ 本文
  73. Bill Gates:オムニプロセッサーと衛生改善(2015) ↩ 本文
  74. Bill Gates:米国教育フォーラムでの講演(2008) ↩ 本文
  75. AIR:教師の効果を高める取り組みの評価 ↩ 本文
  76. RAND:教員評価制度と生徒の成果に関する検証(2019要約) ↩ 本文
  77. AP:ゲイツ本人のモバイル事業と独禁法裁判の回想(2025) ↩ 本文
  78. MacRumors:Village Globalでの本人インタビュー映像と該当発言 ↩ 本文
  79. Bill Gates:The Next Epidemic—Lessons from Ebola(NEJM、2015) ↩ 本文
  80. Gates Foundation:COVID-19対応への17億5,000万ドルの拠出約束 ↩ 本文
  81. Gates Foundation:運営・寄付・終了計画のFAQ ↩ 本文
  82. Bill Gates:排出を減らす技術と価格差(2021) ↩ 本文
  83. Bill Gates:ケメラーのNatrium起工式(2024) ↩ 本文
  84. AP:テラパワーの関連施設着工(2024年6月) ↩ 本文
  85. U.S. Department of Energy — NRC Issues Construction Permit for TerraPower’s Natrium Advanced Reactor ↩ 本文
  86. Gates Foundation:メリンダ・フレンチ・ゲイツの退任 ↩ 本文
  87. ArentFox Schiff:Microsoft職場方針の外部調査報告(2022) ↩ 本文
  88. CNN:Bill Gates本人インタビュー(2026年8月26日) ↩ 本文
  89. Gates Foundation:エプスタインとの接点に関する外部調査(2026年7月) ↩ 本文
  90. Gates Foundation:2045年までの支出・終了計画(2025年5月) ↩ 本文
  91. AP:Gates Foundationの2026年予算 ↩ 本文
  92. Bill Gates:The age of AI has begun(2023) ↩ 本文
  93. Microsoft:2026年度年次報告書 ↩ 本文

写真の作者・利用条件・撮影年は各画像の下に記載。取材資料と写真の出典は別々に確認できます。

※ 円換算は2026年11月2日確認のWise表示値(1米ドル=157.6円)を使用。取引当時の為替や物価・購買力を再現するものではありません。 為替出典:USD

本文更新:2026-11-02

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