THE STORY
矢野博丈の物語
選んだ道。その先で、起きたこと。
01100円になる前の人生
箱を開ける客に追い付けない
売り場に着くと、もう客が待っていた。荷物を下ろし、商品を広げ、値段を確かめる。その準備より早く、客の手が段ボールへ伸びる。何百種類もある品を示されても、伝票を探して値段を調べる暇がない。矢野博丈は100円と答えた。次の品も100円。その次も100円。[1]
買う側には、実に分かりやすかった。値段を聞くたびに返ってくる答えは同じ。売る側も、一品ずつ価格を覚え、値札を貼る手間から解放される。全国へ広がる100円の商売は、目の前の客に追い立てられながら、その形を整えていった。[1]
後にDAISOの看板は世界へ広がり、2026年2月期の連結売上高は7710億円になった。だが、店を始める前の矢野は、養殖で借金をつくり、東京へ逃げ、百科事典も売れなかった男だ。何度も仕事を変え、ようやく日用雑貨を積んだ車で売り場を回るようになった。[2][3][4]
工具箱にしまった売上金
創業期の社員が使った金庫は、釘を入れる工具箱だった。売り場の台は酒瓶のケースとベニヤ板。借りたトラックは水が漏れ、途中で止めて水を足さなければならない。それでも荷物を運ばないと、明日の売上はない。[5]
100円という値段を決めただけでは店は続かない。売れる商品を仕入れ、運び、並べ、次の客を迎える。そのどこでも、矢野と社員はつまずいた。バケツの隙間をスポンジで埋めて運賃を浮かせたら、店から苦情が来る。大きな倉庫を借りたら、1週間で埋まる。彼の会社は、ひらめきがそのまま成功になる場所ではなかった。[6][7]
それより前には、食べていく道さえ見失っていた時期がある。100円の商品を売るようになるまで、いったい何があったのか。[3][8]
02医者の家の五郎少年
北京から広島へ
1943年4月19日、後の矢野博丈は北京で生まれた。出生時の名前は栗原五郎。8人きょうだいの末っ子だった。戦後、家族は父の故郷である広島へ戻る。まだ戦争の傷を抱える土地で、五郎は育った。[3][9][10][11]

写真:撮影者不詳/『Djawa Baroe』1943年2月1日号/出典/Public domain。表示用にサイズと圧縮を調整。内容の改変・合成なし。
地理データ:Natural Earth(パブリックドメイン)。 湖の補助データ:© OpenStreetMap contributors(ODbL)。使用データ。現代の行政区分と都市の代表位置を表示。編集部作図。
父は医師。母は銀行家の娘で、祖父は地主だった。兄にも医師がいた。しかし、家の肩書きと、毎日の家計は同じではない。父は貧しい患者を診ても十分な金を取らず、本人には暮らしの苦労が強く残った。患者から感謝される父を見ていた息子は、その父から働け、勉強しろと繰り返し言われた。[12][10][4]
五郎にとって、それはいつもありがたく聞ける言葉ではなかった。農作業も手伝わされる。家にいる父は、診療で感謝される姿とは違い、息子へ厳しい注文をする人でもあった。後に本人が恵まれた環境だったと語る家族は、少年の頃から何でも望みをかなえてくれる家ではなかった。[4]
バックミラーに映った父の顔
父が貧しい患者から十分な診療費を取らなかったことを、五郎は家計の苦しさとして覚えていた。ところが後年、タクシーに乗った時に、その仕事が別の形で自分へ返って来る。運転手がバックミラーの顔を見て、栗原先生の息子ではないかと尋ねた。[13][12]
運転手の母は、矢野の父に診てもらったことがあった。金がない時にも診療を続けてもらい、年末には米や野菜を持って行ったという。父が家で息子へ繰り返していた小言とは違う、家の外に残した仕事の話だった。矢野は同じような経験を2度したと講演で語る。自分に幸運が回ってくる理由を、先祖が積んでくれたものとも考えるようになった。[13]
医者ではなくリングへ
勉強や父の期待とは別に、五郎が力を注いだのはボクシングだった。広島国泰寺高校で打ち込み、中央大学へ進んだ後も続けた。東京五輪のバンタム級強化選手に選ばれるほど、本気で取り組んだ競技だ。自分の体を使って勝ち負けを決める世界に、将来の道を求めていた。[4][14]
父と同じ仕事へは進まなかった。それでも、何年も後に商売が行き詰まった時、切れずに残っていたのは、この家族とのつながりだった。まずは、大学で追っていた別の夢が終わる。[8][4]
03強化選手が諦めた夢
大学にいた強い先輩
中央大学では理工学部の土木工学を学んだ。二部に通い、アルバイトをしながらボクシングにも時間を使った。本人は後に、授業へあまり出なかったことも隠さず話している。[3][14]

写真:Dick Thomas Johnson/出典/CC BY 2.0。表示用に最大辺1400pxへサイズ調整。トリミングなし。
五輪を目指す実力があっても、大学にはさらに強い先輩がいた。後に五輪で金メダルを獲得するほどの選手と自分を比べ、力量の差を知る。練習を続ければ何にでもなれるとは思えなかった。矢野は競技の道を断念した。長く鍛えてきた体は残ったが、それを職業へつなぐ道はここで閉じた。[4]
卒業後は海へ
大学時代に結婚し、妻の家の姓を名乗った。名前も後に五郎から博丈へ改める。広く知られる矢野博丈という名前も、人生の途中で選び直したものだった。[9]
1967年、大学を卒業した。次に選んだのは、瀬戸内海に面する広島県尾道市での養殖事業だった。妻の家業を引き継ぎ、魚を育てて売る。会社勤めで仕事を覚えるより先に、家族の生活を自分の事業で支える側へ回った。[3][8]
魚を仕入れ、餌を与え、売れる大きさになるまで待つ。その間も現金は出ていく。大学を出たばかりの若者には、体力とは別の難題が待っていた。[8]
04東京で探す食べる道
兄から借りた700万円
養殖で苦しんだのは餌代だった。売れるまで魚を生かし、大きくしなければならない。今日与える餌を、将来の売上で買うことはできない。手元に金が要った。兄から借りた資金は700万円。家族から融資を受けても、商売を軌道に乗せられなかった。[8]

写真:Tim Vickerman (Vickerman625)/出典/Public domain。表示用に最大辺1400pxへサイズ調整。トリミングなし。
魚が泳いでいる間にも支払いは来る。やめれば、それまでに入れた資金を回収できる保証はない。続ければ、また餌が要る。事業は行き詰まり、矢野は妻と子どもを連れて東京へ逃げた。[3][8]
故郷に失敗と借金を残し、家族を連れて別の仕事を探さなければならなくなった。[8][4]
同級生を頼る
東京には、一流商社に就職した同級生がいた。困った矢野を、その友人が次の仕事へつないだ。紹介されたのは百科事典の営業。魚を育てる仕事から、家を訪ねて高額な本を売る仕事へ移った。[4]
借金を抱えたままでも、働く入口は見つかった。だが、入口を開けてもらうことと、その先で稼ぐことは違った。矢野はまた、思うように金を得られなくなる。[4][12]
1冊も売れなかった1か月
百科事典の値段は30万円だった。相手の家で説明し、買う理由を伝え、支払いを決めてもらう。矢野は1か月働いても売れず、その仕事をやめた。別の回想では、営業成績は30人中27番だったと話している。[4][12]
魚を育てていた時は資金に追われた。今度は、話を聞いてくれた相手が買ってくれない。紹介してくれた友人がいても、客の財布を開ける仕事は自分でやらなければならなかった。営業をやめ、また収入の道を探した。[4]
返しに持っていった50万円
次に取り組んだ仕事の1つが、ちり紙交換だった。古い紙を集めるために町を回り、体を動かす。鍛えてきた体力を使う仕事で、金がたまった。矢野は50万円を持ち、兄たちのところへ返しに行った。[4]
ところが、家族は受け取らなかった。自分の人生のために使うようにと、金を残してくれた。返すつもりで持っていった現金が、そのまま手元に戻る。養殖で支えてくれた家族は、失敗した後にも、弟がやり直す余地をつくった。[4]
その出来事は、本人の中に強く残った。妻も、兄も、仕事を紹介する友人もいた。矢野は助けを受け取りながら、食べていく道を探し直した。[4][8]
05妻と始めた100円の商売
店を借りる金がなくても
1972年3月、矢野商店を創業した。28歳。扱うのは家庭で使う雑貨だった。自分たちの店を構えて客を待つのではなく、品物を車に積み、人の集まる場所へ出かける。農協や商店の前を借り、台を置き、その日だけの売り場をつくった。[15][3]
妻の勝代も売り、運び、トラックを運転した。4トントラックで広島から東京へ十数時間かけて走る仕事もあった。着いて終わりではない。荷物を下ろして並べ、客に売り、残った品をまた積む。売り場の前にも後にも、夫婦の仕事が続いた。[16][17]
独立しても暮らしに余裕ができたわけではなく、実家で食事や生活を支えてもらう時期もあった。家族の助けで生活をつなぎながら、次の売上を車に積んで出かけていった。[12]
何もない場所に売り場をつくる
一升瓶のケースを置き、ベニヤ板を載せれば台になる。商品を広げた場所が店だ。矢野が用意していたのは、客が家へ持ち帰って使える小物だった。百科事典のように30万円を決めてもらう買い物から、目の前で気に入った品を手に取ってもらう商売へ変わった。[5][4]
売る場所が変われば、客も変わる。商品を何に使うか聞かれ、値段を答え、買ってもらう。準備が整うまで客が待ってくれるとも限らなかった。その慌ただしさの中から、商売の形を決める値段が生まれる。[1]
箱から先に売れていく
天気予報は雨だった。露店では濡れる日には売れないため、矢野は休むつもりでいた。ところが空模様が回復する。その日の売り場は家から約30分。まだ間に合うと車を出すと、チラシを持った客が既に待っていた。[1]
並べ終わる前に、客が自分で段ボールを開け始める。品物ごとに仕入れ値は違う。伝票を探し、金額を確かめてから答えたい。1つの商品について調べている間に、また別の人が別の商品を持って来た。何百種類もある売り物の中から、その場で値段を見つけ出す仕事が追い付かなくなった。[1]
矢野は100円と答えた。品物が変わっても同じ値段にする。仕入れ原価の低い物も高い物もあったが、すぐに買い物を続けられる。客は次の商品を選び、矢野も次へ応じる。その場を回すために付けた値段が、売り場を分かりやすくした。[1]
次は100円で売れる物を集める
価格を調べる手間が減ると、売る側の人数が少なくても応じやすい。買う側も、商品を持つたび値段を聞かずに済む。100円で何が買えるかを、売り場の中で探せるようになった。[1][9]
ただし、値段をそろえても仕入れ先への代金はそろわない。利益が残る商品も、ほとんど残らない商品もある。矢野たちは100円を入口に、客が欲しくなる物を集める仕事へ進んだ。売り方が決まり、その売り方を続けられる品ぞろえを後から整えていく。[1][12]
酒瓶のケースが店になる
1976年ごろに大学生のアルバイトとして入った石川政史が見た会社には、立派な店の設備はなかった。酒瓶のケースにベニヤ板を載せ、売上金は工具箱にしまう。自宅が事務所と倉庫を兼ね、商品が生活のすぐそばに積まれた。客が払った金を保管する物さえ、商売専用ではなかった。[5]
これで次の日も売りに行く。場所を借り、台を組み、商品を広げる。会社を始めたという看板より先に、手元の道具で1日を回す必要があった。[5]
水を足さないと走れない
借りたトラックはラジエーターから水が漏れた。社員たちは一升瓶3本分の水を積み、約30分ごとに補給した。冷却水が減れば止めて足し、また荷物を運ぶ。壊れない車へすぐ買い替えられる会社ではなかった。[5]
売り場の台だけでなく、そこへたどり着く車も、人の手でつないでいた。夜遅く戻った社員たちは矢野の家で食事をした。仕事場と食卓と倉庫が近い。暮らしを囲むように商品があり、その商品をまた翌日、車へ積んだ。[5]
保険のない火事
草創期には、自宅と事務所、商品を置く倉庫が火災に遭った。家族にけがはなかったが、保険を掛けていなかった。暮らす場所と、売るために買った在庫を同時に失う。手元の商品の中へ入っていた金も、焼けた品からは戻って来なかった。[8][4]
矢野は後の広島大学での対談で、放火に遭ったうえ自分が疑われ、保険に入っていなかったため疑いが解けたと説明している。家を失うだけでも大事だ。その火を自分がつけたのではないかという目まで向けられた、忘れ難い出来事になった。[4]
火災後は、100円でも50円でも手元に残れば、銀行へ入れようと考えるようになった。何億円もの金を持てるようになる前に、まず少額を残す。養殖で餌代に追われていた時、あるいは売れない本を抱えていた時とは違う形で、現金がなくなる怖さを覚えた。[13][4]
再び兄たちの支援を受け、事務所を立て直した。残った商品は売った。立ち止まって過去を整理していても、家族の生活は待たない。手元に残った物を現金へ替え、新たに仕入れ、商売をつなぐ必要があった。[11][4]
なくならなかった怖さ
矢野は後に、自分が優秀だったと説明するより、失敗と支えてくれた人を語った。兄が金を出し、妻がともに働き、知人が仕事をつなぐ。本人が商売をやめずに済んだ場面には、その手があった。[12][4]
会社が大きくなっても、倒産への恐れは消えなかった。商品が売れなければどうなるか。働けなくなったらどうするか。かつて生活を失いかけた男は、その不安を昔話にして済ませず、現場へ通い続けた。[18]
06催事から会社へ
財布を持った客がいる場所
移動販売には、売れる場所が要った。矢野は広島のスーパー、イズミへ足を運び、店先で販売できないかと働きかけた。すでに買い物客が来る場所なら、自分たちだけで人を集める必要はない。[11]
スーパーで開いた催事では、3日間で330万円を売った。100円の商品を積んできた業者が、それだけの売上をつくる。取引先が驚き、別の売り場へ進む材料になった。ダイエー、イトーヨーカ堂、ユニーなどのチェーンにも広がり、スーパーの網に矢野たちの商売が乗っていった。[4][11]
客を上の階へ連れていく
売り場は入口の一等地ばかりではなかった。スーパーの4階への出店を勧められたこともある。普段は人の少ない階へ、100円の商品を求める客が上がってきた。空いた場所を借りる側だった商売に、客を呼ぶ力が見えてきた。[16]
ただし催事が終われば撤収する。売れた場所でも、台を解体し、品物を箱へ戻して次へ行く。場所が増えるほど、設営と片付けも増えた。売り場を動かし続けるやり方には、まだ大きな負担が残っていた。[19]
社名に入れた1億円の夢
1977年、矢野商店は株式会社大創産業になった。大きな会社を創る。その願いを社名に入れた。矢野が夢見ていたのは年商1億円だった。客が払う100円を重ねて、その規模の会社にする。[1][3]
その社名を名刺にして、勉強会へ出た。以前、業種を雑貨販売と記していた時には、名刺交換をした相手と、広島にいる親戚や修学旅行の話ができた。100円均一販売と記すようになると、相手の態度が変わった。矢野の記憶では、同じ席で学ぶ相手としても見てもらえないような空気があった。[13]
銀行やコンサルタントからも、別の商売へ変えた方がよいと勧められた。100円で売っても、材料費、運賃、人件費、家賃を払えばいくら残るのか。もっともな計算を向けられても、次にできる有望な仕事があるわけではなかった。矢野は、食べられるならこの仕事にしがみつくしかなかったと話した。[12][13]
一方、売り場へ品を持っていけば客が買った。その実績を持って次の場所へ向かう。1980年には東京、1981年には九州へ営業所を広げた。名刺を見せる時の扱いと、目の前の商品へ客が払う金。その違いの中で、商売を続けた。[15][13]
36億円を売って初めて黒字
売上が大きくなっても、仕入れや輸送、人への支払いも増えた。
1985年、公式史で初めて黒字になった。売上36億円、創業から13年が過ぎていた。社名に込めた1億円をはるかに超えて売っても、そこまで利益は残らなかった。[1]
次の売り場へ行くには、また仕入れた商品が要る。営業所を増やせば、その場所で動く人と荷物も要る。客が増えた喜びだけで、手元の支払いが軽くなるわけではない。矢野の会社は、売る力と同時に、売れた分を補い続ける力を求められていた。[1][20]
公衆電話から商品名を読む
初期の社員、石川政史は、公衆電話で商品を注文していた。10円玉を入れ、必要な品名や数を伝える。店で売れれば、また頼む。電話口で注文をつなぐやり方から、やがて自分で注文用紙をつくるようになった。[20]
何を頼んだか、何個届くか。その記録が残れば、離れた売り場同士でも仕事を合わせやすくなる。100円の看板の裏には、こうして社員が自分でつくった手順が積み上がっていった。[20]
事務所のカーテンを閉める
九州の営業所では、1階に事務所や食堂、風呂があり、2階の4畳半は寮だった。1階の事務所でも、アコーディオンカーテンを引いて社員が寝た。夜になれば、仕事をしていた場所が眠る場所へ変わる。[20]
石川が初めてもらったボーナスは、学生アルバイトの催事用Tシャツや、おそろいのジャンパーになった。自分の買い物だけに使わず、仲間が着る服を作った。多い時には約20人で、3泊4日のスキーへも出かけた。会社に入ったというより、仲間と続ける活動のような楽しさを感じていた。[20]
矢野から怒られることも多い。だが、好きなように試せる仕事が残っていた。発注用紙を作り、事務所の片隅にベッドを入れ、ボーナスで制服まで用意する。足りない設備や手順を、自分たちの働き方に合わせて作る人がいた。社長のひらめきの後ろには、そうやって毎日を回す社員たちの時間が積み重なった。[20]
07明日も開いている店
売上の式に足りないb
年商30億円ほどの頃、入社した黒田隆司は催事だけではない商売を提案した。持ち出したのは、y=ax+bという式だった。催事の回数を増やせば売上は伸びる。それに、常設の売り場から入る売上を足したい。今日つくって片付ける店とは別に、明日も客が来られる場所を持つ構想だった。[19]
スーパーの文具売り場に小さな常設コーナーを置いた。しかし、商品が少なく、手書きやFAXの発注も追い付かない。置いておけば自然に売れる仕組みには、まだなっていなかった。[19]
30坪で1日100万円
1987年、100円SHOPダイソーの常設店舗の展開が始まった。[15]
1991年には、四国北部・香川県の高松市へ初の直営店を開いた。瀬戸内海に面する街で、借りた催事場ではなく、会社が直接動かす店をつくる。[15][21]
広さは約30坪、商品は約300種類。黒田の記憶には、1日100万円を売った店として残る。小さな売り場に100円の商品が集まり、客がそれを目指してやってくる。毎回片付けなくても、店を続けられる。その手応えが、次の出店を後押しした。[19]
一方で、商店街では場所を貸してもらえないこともあった。安い物を並べる店が、長く家賃を払える相手なのか。商品を客に選んでもらうのと同じように、店を貸す人にも、商売を認めてもらう必要があった。[19]
ガラスも鉄も竹も並べる
常設店ができると、次は並べる商品の量が問われた。黒田たちは用途だけでなく、素材でも品ぞろえを広げた。ガラス、鉄、竹。同じ素材で100円にできる物を集めると、台所用品や文具という分類だけでは見つからなかった商品が加わった。[19]
売り場が100坪から300坪、400坪へ広がっていく。次の店を開くたび、その棚を埋める品物と人が要る。黒田の回想には、三重県四日市市の300坪の店で300万円超、北海道の上磯の400坪の店で480万円という開店時の売上も残っている。より広い場所でも客は来た。すると、また次の広さを試したくなる。[19]
開店日に荷物が来ない
1978年から働く青野美恵子が出た催事には、開店日なのに商品が届かないこともあった。借りたのは1週間の売り場だ。設営して品物を並べ、客へ売り、片付けて次へ移る。その始まりの日に、肝心の品物が来ない。現場にいる人たちは、整った手順を待つ余裕もなく動いた。[22]
会社には細かなノルマや予算がない。社長に言われた数字を順に実行する代わりに、困った時には自分たちで解決を探す。青野はやがて商品を買い付ける側になり、今度はメーカーと、前の品をどう直すかで悩むようになる。売る場所を用意する苦労から、そこに何を置くかという苦労へ、仕事の範囲が広がった。[22]
1度で完成品へ届くとは限らない。前の試作を確かめ、直す所を見つけ、次を頼む。青野が覚えていたのは、メーカーと何度も改善を喜び合ったことだった。開店を間に合わせるために走った社員たちが、今度は仕入れ先と一緒に、次に売る品を変えていた。[22]
08急成長の裏側で
倉庫の前に300メートルの列
1990年代後半、多い月には64店舗を開いたと黒田は振り返る。新しい店には、開ける前に商品を入れなければならない。客から1円も受け取る前に、何十店分もの棚を埋める在庫が要った。[19]
物流担当の新広等を待っていたのは、荷物の到着さえ把握しきれない倉庫だった。トラックが並び、その列は300メートルほどにもなった。1000坪の倉庫を借りたら、1週間でいっぱいになる。神戸で2000坪の場所を使っても埋まっていく。置き場所を増やす速さより、入ってくる商品の量が勝った。[7]
荷物が多いのは、店が増えているからだ。だが、倉庫に積まれたままでは売上にならない。出荷する先と品物を取り違えず、トラックに載せ、店まで着かせる。会社は拡大しながら、その中継地点で詰まり始めた。[7]
FAXが全国から届く
全国およそ500店舗から、1店当たり約40枚の発注書がFAXで送られてくる規模になった。電話口で品名を伝えていた頃とは、受け止める量が違う。売れた物を補う仕事を、人の記憶と紙だけで回すのは難しくなっていた。[1]
1997年、広島県内で約1000坪の福山倉庫が動き始める際には、在庫を管理するシステムも導入した。倉庫にある品が何か、どこへ出たかを、データで追う方向へ変える。各地から届く発注を、どの箱を何個送るかへ結び付けなければならない。[1]
1997年、年商は300億円へ届いた。店が増える一方で、商品の入荷と出荷をつなぐ仕事も作り直す。トラックが並んだ倉庫の問題は、広い場所を借りるだけで終わらなかった。[1][7]
社員番号5番の買い付け
栗森健二が1979年に入った時は、まだ23歳だった。社員番号は5番。入社から数日で宮崎への出張を任され、現地でトラックをぶつけたという。多くの部署を順に見学してから働く余裕はなく、入った人がすぐ販売へ向かった。[23]
1990年ごろに中国からの輸入が始まると、栗森の扱う品も変わる。30cmもある大皿を100円で出すと、客が1000円ではないかと確かめに来た。既に知っている相場よりはるかに安い。何を買うつもりでもなかった人が、目の前の値札に足を止める商品が増えていった。[23]
1995年からは工具の買い付けも担った。ねじを回す道具は、ただ金属の棒に柄が付いていれば売れるわけではない。海外の見本市で、栗森は売り物の小さな先端まで確かめるようになる。[23]
見本市で笑われても
商品担当の栗森健二は、海外の見本市でドライバーの先端へルーペを向けた。周囲に笑われても、細かな不具合を確かめた。見た目が似ている工具でも、先端が合わなければ、客はねじを回せない。100円で買った品が使えるかどうかは、その小さな部分で決まる。[23]
使いにくい所を工場側へ伝え、直して次へ反映する。棚に並ぶ商品の裏で、担当者はつくり手とのやり取りを重ねた。[23]
安物を売る店にしない
矢野は、安くてもよい物を持ちたい感覚を、親から受け継いだ見栄っ張りなところとも結び付けて話した。暮らしが苦しかったから、使えない物でも安ければいいという商品を選びたかったわけではない。払った100円より、得をしたと思える物を置きたい。[12]
値段を守るには仕入れ値を抑えたい。品質を上げるには、品物をよく見て、つくり方まで直してもらう必要がある。原価と使い勝手の両方を相手にする仕事は、カタログから安い品を選ぶだけでは済まなくなっていた。[23][24]
空気の代わりに商品を入れる
大きなバケツを箱へ詰めると、中には空間が残る。その空気を海の向こうから運んでも、客に売ることはできない。黒田は、そこへ別の商品を入れれば運賃を節約できると考えた。スポンジ、スプレー、たわし。バケツの中まで品物で埋め、矢野に相談して実際に送った。[6]
1つの箱で運べる商品が増える。運ぶ側から見れば、よくできた工夫だった。しかし、その箱を開ける店からは苦情が来た。[6]
頼んでいない商品まで届く
店が発注したのはバケツだ。スポンジやたわしは頼んでいない。すでに在庫がある店にも届く。本部が運賃を浮かせた分、店は不要な品を保管し、売らなければならなくなった。空間を埋めたはずが、今度は店の棚を圧迫した。[6]
数年続けた後、この方法はやめた。黒田が覚えているのは、試して失敗しても、挑戦したことそのものを否定されなかったことだ。社長に案を持ち込み、動かし、店から怒られ、変える。会社の工夫は、その往復で少しずつ使えるものになっていった。[6]
箱の先に人がいた
忙しい店で、栗森は箱を次々に運んでいた。通路で客に触れてしまったが、本人は気付かず、謝らないまま補充の作業を続けた。客から叱られて初めて、自分の動きがどう見えていたかを知った。品物を欠かさないように働くうち、品物を買う人が見えていなかった。[25]
客が喜ぶ商品を仕入れる目があっても、売り場では別の失敗をする。栗森自身がその出来事を覚えていた。店の数や売上を増やす仕事の中には、自分たちの動き方を直す仕事も入っていた。[25]
バスで現場を回る
矢野は青野と大型バスに乗り、各地で働く店長やスタッフの研修に出かけた。本社から指示するだけでは会えない人たちと、顔を合わせて仕事をする。その中で青野は、家族の協力があるから自分も働けるのだと、涙を流して話す店長に会った。[26]
その女性は以前、働くことを家族へ強く主張していた。家の人が子どもを見て、送り出してくれる。その助けに感謝できるようになり、仕事の楽しさも知ったと話したという。矢野の店を支えた人々にも、店を離れると別の暮らしがある。各地の研修は、働く人がどんな支えを受けて来ているのか、聞く場にもなっていた。[26]
総務の家に残ったコップ
1980年ごろにパートで入った延末露子は、事務と倉庫の出荷を半分ずつ担っていた。矢野はその夫や子どもまで、バーベキューや食事へ誘った。自分の家と会社がくっついていた頃の近さは、家族ごと人を迎える形でも残っていた。[27]
商談で食器の見本が届くと、大家族の延末へ持ち帰るよう渡すこともあった。数十年後の回想でも、そのスプーンやコップはまだ使えていた。品物がどんな物だったかを、家の食卓で確かめ続けることになった。[28]
新人が1週間の合宿を終えて帰ってくる時には、延末たちが食事を用意した。自宅から3升や4升を炊ける大きな飯釜を持ち込み、次々におにぎりを作る。バスで戻ってきた新人を、本社の慰労会で迎えた。矢野の家で夜食を囲んだ商売は、人数が増えても、大鍋や飯釜を持ち寄るやり方を残していた。[28][5]
後に延末が退職を申し出ると、矢野はまだやり残したことがないかと引き留めた。何度かそのやり取りをして、勤めたのは73歳まで。店や倉庫だけでなく、長く勤める人も一緒に年を重ねる会社になった。[28]
091000店から海の向こうへ
ダイソーへ行くために出かける
1999年、国内の店舗数は1000を超えた。かつてスーパーの人通りを頼って場所を借りていた商売が、全国に自分たちの看板を持つ。何か便利な物がありそうだから、店をのぞく。DAISOそのものが客の出かける先になっていった。[15]
2001年には千葉県船橋市にギガ船橋店を開いた。売り場は約1663坪、約5498平方メートル。台所、掃除、収納、文具と、次の棚へ進むたびに別の商品が現れる。酒瓶のケースの上へ並べた品物は、1つの建物を巡って選べる規模になった。[29]
記者が見た質素な本社
同じ2001年、Tokyo Weekenderの記者が訪ねた本社は2階建てで、受付もなかった。打ち合わせの部屋には商品見本が並ぶ。大きな販売網を動かす創業者自身も、小さな古い車を運転していた。会社の大きさを、玄関の豪華さでは測れない場所だった。[17]
取材記事には、記者が富士山で使った乾電池が1時間ほどで切れたという不満も載った。安さへの驚きが、そのまま品質への信頼になるわけではない。矢野は当時、仕入れ価格の上限を70円から80円へ引き上げていた。1点を売って残る金は減るが、商品の質を上げる方へ余地を使った。[17]
後の大学での取材でも、原価30円の物と80円の物を例に、客が喜ぶ方を選ぶという話をした。1回の販売で利益を多く残すか、次も来たいと思える買い物を届けるか。100円の値札を変えずに、仕入れる側の基準を変える選択だった。[4]
5億円を託して海を渡る
2001年、台湾へ初出店した。誘ったのは、作家でもある実業家の邱永漢だった。矢野は海外で通用するかを疑い、すぐには応じなかった。何度も広島へ足を運ぶ邱と組み、共同事業として始めることにした。[29][30]
矢野が決めた出資は5億円。国内の催事で1つ100円と答えていた商売が、海の向こうへまとまった資金を出す側になった。最初に開いたのは台北と桃園の2店だった。[29][30]
商品の供給を任された大原貴光も、海外業務は未経験だった。国内で店を増やしてきた社員が、初めての相手と品物を届ける道を作る。開業時は来店客が多く、日本から来た社員も店頭の応援に入り、滞在を延ばした。[30]
机から倉庫へ来ない人々
だが、開業のにぎわいが、そのまま長く続く商売にはならなかった。矢野が後に書いた台湾の失敗談には、現地の経営陣と一緒に倉庫で働こうとして断られた場面が出てくる。自分たちはデスクワークをする人間だという返答だった。[31][32]
矢野が商品を運んでいた時、彼らは机で安い仕入れ先を探していた。利益を増やす計算に合う物が集まり、品質が落ちていく。初めの人気は長続きせず、店は赤字になった。矢野が倉庫で覚えてほしかったのは、箱の数だけではなかった。そこに何が入り、客が使って満足できる物なのかを、自分の手で確かめる仕事だった。[31][32]
日本と同じ方向へ戻す
邱が共同事業から離れた後、日本側が直接管理する形に変わった。扱う商品も日本と同じ品質の方向へ戻し、売上を立て直していった。担当者が仕入れの判断を変え、棚へ置く品物を入れ替える。その後に客の反応も変わった。[31]

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矢野たちが日本で積み上げていたのは、安い商品を何でも並べる売り方ではなかった。ルーペで工具を見て、メーカーへ直してもらう。その細かい判断の蓄積まで客は買っていた。台湾では、それを外した結果と、戻した後の違いが売上に現れた。[31][23]
商品だけでは国境を越えられない
2004年には、アラブ首長国連邦の都市ドバイへ進出した。日本の商品をそのまま運べば済むわけではなかった。会社の当時の記録には、みりんに含まれる酒精や、サポーターの包装に写る肌の露出を巡る対応も残る。国内の棚へ置ける品物でも、そのまま現地で扱えるとは限らなかった。中身と外箱を一緒に確かめ、売れる形へ直す必要があった。[29]

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日本の100円を、そのまま現地通貨の値札にすることもできない。輸送や販売の費用があり、生活習慣も違う。海の向こうへ進むたび、同じ店を続けるための修正が加わった。[29]
広島から世界へ送る
2005年には、アメリカ北西部・ワシントン州の港町シアトルへ入った。2007年にはタイで工場と倉庫が動き始め、2010年には国内外の店舗数が3000を超えた。[15][29]

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本社は広島に残った。遠くの店で商品が売れるほど、次の品を送らなければならない。海外出店は看板を掲げる日だけの仕事ではなく、開いた後の毎日へつながっていた。[15][29]

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矢野は、小さかった頃には会社がこれほど長く続くと思わず、昔の写真をあまり残していないと語った。過去を記録しておく余裕より、次の売り場を回す仕事が先に来ていた。[18]
10安さを支える仕組み
まとめて発注できる倉庫
それまでは、プラスチック、文具、化粧品などで倉庫が分かれていた。店舗側はそれぞれへ注文を出す。商品が増えるほど、1店が商品をそろえるために相手をする場所も増えた。物流担当の新広たちは、本社の隣に購入した4500坪の倉庫へ、約4000種類を集められるようにした。[33]
台所用品と文具を別々に頼んでいた店でも、ある程度まとめて発注できる。2003年には同じ規模の高屋倉庫も加わった。単に広い箱を増やす仕事から、品物の分け方や注文の受け方そのものを組み替える仕事へ進んだ。[29][33]
全国8カ所へ分ける
次は、各地の倉庫から全国へ長い距離を運ぶ方法を変えた。2012年、埼玉と大阪へ地域配送センターを設ける。翌年には新潟、九州、名古屋、広島、2014年には北海道と千葉が加わり、全国8拠点から近くのエリアへ送る網を作った。[29]
商品を集めるだけでなく、客のいる店の近くまで先に回す。どの店へも広島から長く運ぶ負担を減らし、必要になってから届くまでの時間と費用を抑えた。300メートルの列を前に、何が入って来るかも分からなかった新広は、今度は全国で荷物が流れる経路を作る側になっていた。[7][33]
売れない箱も金を食う
仕入れた商品が倉庫へ入れば、それはもう会社が金を出した在庫だ。売れないまま増えれば場所を取り、次の仕入れに使う金も縛られる。店が必要とする品を、必要な場所へ届ける。その仕組みが追い付かないと、店舗の数だけ増やしても回らなくなる。[7][33]
一方、安い商品を大きな販売網へ納める仕入れ先との取引には、会社の力が強く表れるようになっていた。客の前では見えない代金の扱いが、公に問題となる。[34]
178業者への減額
2012年3月27日、公正取引委員会は大創産業へ下請法に基づく勧告を出した。発注済みの商品などの代金を、一方的に減らしていた。対象は178業者、総額は2億7946万2435円。2009年10月と2010年5月に支払う代金から、歩引きという名目で一定率を差し引いていた。会社は勧告までに減額分を返還した。[34]
客へ安く売るため、仕入れや輸送を工夫してきた会社で、取引先へ支払うべき代金が減らされていた。店頭の値札からは見えない負担だった。[34]
2度目の勧告
2014年7月15日、再び勧告を受けた。62業者に不当に返品した商品の額は、1億3915万7024円。さらに2業者へは、事前に合意した予定単価を約59〜67%も引き下げて発注していた。売れ行きが悪いという理由で、取引先が受け取るはずだった代金が小さくなった。この差額は657万8897円。会社は、勧告までに対象の額を支払った。[35]
公表資料が示すのは会社の取引行為で、矢野が個別に指示したという認定ではない。それでも、彼が社長を務める会社で起きた問題だ。100円の品物を喜んで買う客を増やす一方、その商品を納める相手への公正さを守る仕組みが問われた。[34][35]
11怖がりの社長はふざける
玩具の短剣を持って登場
会社が大きくなってからの取材に、矢野は玩具の短剣を持って現れたことがある。相手をからかい、冗談を言う。倒産が怖いと話す男は、客の前で重々しい成功者を演じ続ける人でもなかった。[18]
倉庫で体を動かすことを好み、現場へ出た。大きくなった会社の数字だけを離れた場所から眺めるより、自分でも働く。その一方で、商売が続かなくなる不安を繰り返し口にした。[11][12][18]
生地を切る商談
2018年、テレビ東京が取材した広島の本社には、1日に約20社のメーカーがやって来た。買い付ける側は約30人。別の相手が持って来た品を次々に見て、値段を交渉し、店へ置けるかを決める。あの車へ積める数だけを探していた会社が、世界の工場の売り先になった。[24]
バングラデシュの工場との商談では、バイヤーが見本の生地へハサミを入れた。表から見えている部分だけでなく、切った中まで確認する。矢野本人も商談へ加わり、細部へ注文を出した。相手の示す値段を受け入れて、箱を運べば終わる仕入れではなかった。[24]
番組当時、扱う商品は約7万種類、新商品は月に最大700種類以上だった。新しい品を選び続ける理由を、矢野は客に飽きられるのが怖いからだと説明した。売れている商品をずっと同じように並べていても、次に店をのぞく楽しさは減ってしまう。社長の不安が、毎月違う品を棚へ加える仕事になっていた。[24]
古い名刺を見て涙ぐむ
1995年に本社へ来た記者、樽谷哲也が後にもう1度取材した時、待ち合わせ先は東京湾に面したタワーマンションだった。かつてプレハブの本社をサンダルで駆け回った男が、今度は大きな窓の向こうに海が広がる場所にいる。[11]
記者は昔もらった名刺を持って来た。そこに刷られた売上高は115億円。新しい名刺へ差し替えるより速く、商売が膨らんでいた頃の紙だった。矢野はそれを見て涙を拭い、会社が潰れる怖さから逃げるように働いてきた年月を振り返った。成功を示す数字を見せられて、最初に出てきたのは、その時期の恐ろしさだった。[11]
目標を置かずに働く
矢野は、会社で長く目標やノルマ、予算を設けなかったと語る。売上を決めるのは買ってくれる客だ、という考えだった。自分たちで決めた数字より、客が買う商品を用意する仕事へ向かった。[12]
社員の提案には、その場で試せる余地があった。バケツに詰めた小物が苦情になり、催事では商品が間に合わない。その混乱も含め、動いてから直す会社だった。矢野自身、すべての答えを先に用意して商売を始めたわけではなかった。[6][22]
12倉庫で働く体にも限界
息子へ渡す社長の席
2018年3月1日、矢野は社長を次男の靖二へ引き継ぎ、会長になった。創業から46年。自分の強みを聞かれても、ひたすら働くことくらいしかないと答えてきた男が、その働き方を続けられなくなっていた。[36][21]
資金繰りが苦しい時には、自分で倉庫へ行って商品を出荷した。これが売上になると思えば、体を動かす作業も苦ではなかった。ところが晩年は、午前10時ごろに来て夕方には帰る。それだけで社員へ申し訳なく感じるようになった。会社の業績は伸びていても、自分の体を以前と同じようには使えなかった。[36]
小売りの現場はコンピューターを中心に変わり、自分には新しい技術の知識が足りないとも感じた。100円という値段を即答した時のように、その場へ出て自分で解決するだけでは追い付かない。引退を考え始めたのは交代の数年前だったという。[36]
もともと息子へ継がせるつもりではなく、子どもの頃から継げとも言っていなかった。最後には次男へ任せる。自分が動く量で会社を引っ張ってきた創業者は、働き続けたいという思いだけでは決められない席を、次の人へ渡した。[36]
50の名前を1つにする
靖二は、大学を出てすぐ父の会社へ来たわけではなかった。1995年に、広島を本拠とするスーパーのイズミへ入る。博丈が催事を置いてもらうために通った相手先で、息子は約20年、小売りを経験した。大創産業へ入ったのは2015年で、社長を継ぐ3年前だった。[37]
2022年の取材で靖二は、全国と海外に何千もの店を抱える段階では、トップがすべて決める方法を続けられないと話している。社長の経験を待つ会社から、多くの人が判断できる会社へ変えたい。2020年には本部機能の一部を東京へ移し、中途採用も含めて人を増やした。[37]
店の名前にも手を付ける。それまでは、ファミリーダイソーや100円館など、50種類近くの屋号があった。売り場を見つけるたび広げてきた商売の中で、看板も増えていた。2019年に設定したDAISOのロゴは、新しい店や改装する店から徐々に導入する。父が育てた巨大な販売網を、息子が同じ名前へまとめ始めた。[37]
100円の外へ広がる
同じ2018年、大創産業は300円を中心とする生活雑貨ブランドTHREEPPYを展開した。2019年にはロゴやブランドの見せ方を新しくした。矢野も、その年に会長を退いた。[38][21]

写真:Mr.ちゅらさん/出典/CC BY-SA 4.0。表示用にサイズと圧縮を調整。内容の改変・合成なし。
2021年には、落ち着いたデザインの生活雑貨を扱うStandard Productsが生まれた。ネット販売も広がった。100円の棚を広げてきた会社は、引き継いだ人たちの下で、別の価格や買い方へ進んでいった。[38]

写真:Mr.ちゅらさん/出典/CC BY-SA 4.0。表示用にサイズと圧縮を調整。内容の改変・合成なし。
13学ばなかった男の教壇
母校で話す失敗
2021年、中央大学は矢野に特別招聘教授の称号を授与した。学生時代に学校へあまり通わなかったと話す男が、母校へ教える立場で戻った。話す材料には、養殖の失敗、借金、売れなかった本、助けてくれた人々があった。[39][40]
2019年の広島大学での対談では、学ぶ時間を大切にしてほしいという思いも伝えた。かつて父から勉強するよう言われていた息子が、若者へ学べる機会を大切にするよう勧める。本人が遠回りしてきた道が、話の中に戻っていた。[4]
80歳になっても語る
2023年11月20日にも中央大学で講演した。題は「生きる~恵まれない幸せ~」。会場は東京・後楽園キャンパスの教室。土木工学科の後輩である樫山教授と、起業家教育を担当する藤井特任教授を交えた対談だった。80歳の創業者へ、学生からも多くの質問が出た。[41]
大学の追悼文には、温かさとユーモアのある人柄が記されている。若い頃には競技に夢を託し、授業へ十分に出なかった人が、自分の失敗を持って同じ大学へ帰って来た。会社を引き継いだ後にも、そこで語れる仕事が残っていた。[40][41]
本人は、恵まれていないから頑張れたと語る。一方で、その話には兄の融資や返済の免除、妻の運転、社員の工夫も出てくる。苦しかった過去と、助けてもらった記憶を、両方とも持ち続けた。自分を大きく見せるより、その失敗を学生の前へ差し出す人になっていた。[4][12][40]
創業者がいなくなった日
2024年2月12日、矢野博丈は広島県東広島市で亡くなった。80歳だった。家族だけで葬儀を営み、会社は後に訃報を公表した。[21]

写真:othree/出典/CC BY 2.0。表示用に最大辺1400pxへサイズ調整。トリミングなし。
訃報の頃、Bloombergの推計として報じられた個人資産は約19億ドル(約2994億円)。100円の商品を選び、運び、並べる商売の先に、それほどの資産が残った。体を動かすことに自信のあった男は、商売では何度も敗れ、そのたびに働き直してきた。[42][3][4]
創業者のいなくなった後も、店では客が買い物を続ける。2026年2月期の連結売上高は7710億円、店舗数は国内外で5891店。DAISOだけでなくStandard ProductsやTHREEPPYも含む会社へ育っていた。[2]
棚に並ぶのは小さな道具
店で小物を手に取っても、それが海の中の魚や、売れなかった百科事典から続く商売だとは分からない。見えるのは、いまの暮らしに使えそうな物と値札だ。客は100円を払い、それを持ち帰る。[1][4]

写真:Qurren/出典/CC BY-SA 4.0。表示用に最大辺1400pxへサイズ調整。トリミングなし。
その1個を棚へ置くまでに、妻がトラックを走らせ、社員が水を足し、商品を直し、倉庫の荷物を分けた。仕事を急いで客を怒らせたことも、運賃を浮かせて店を困らせたこともあった。会社が大きくなると、仕入れ先への不当な扱いも起きた。うまくいった工夫だけで、この商売はできていない。[5][23][25][6][34][35]
矢野は何度も仕事を失い、そのたびに誰かの助けで次へ進んだ。後に彼の会社が増やしたのは、誰かが今日、暮らしの小さな不便を直すために買える品物だった。世界へ広がる看板の下で、いまもその小さな買い物が続いている。[15][1]
参考文献・出典 42件
本文の番号に対応する資料です。本人・関係者のインタビュー、当時の取材、企業の発表を参照しています。
- DAISO 50周年ヒストリー ↩ 本文
- 2025年度・連結売上7,710億円と世界5,891店舗(2026年6月22日) ↩ 本文
- EOY 2018 Japan 日本代表 矢野博丈氏 ↩ 本文
- HU-plus Vol.10 越智光夫学長と矢野博丈氏の対談 ↩ 本文
- 創業期の売り場・工具箱・トラック(石川政史の証言) ↩ 本文
- バケツの詰合せ輸送と失敗(黒田隆司の証言) ↩ 本文
- 歴史を聞く Vol.11 新広等 ↩ 本文
- 恵まれない幸せ、恵まれる不幸せ(矢野博丈インタビュー) ↩ 本文
- ダイソー創業者・矢野博丈氏を振り返る追悼報道 ↩ 本文
- 矢野博丈による特集記事 恵まれない幸せ 恵まれる不幸せ ↩ 本文
- 『将来を怖がる力』が生んだ百均サクセスストーリー 『逆境経営』公開抜粋 ↩ 本文
- 成功したきっかけなんてない がむしゃらに働いただけ 大創産業 矢野博丈 ↩ 本文
- 矢野博丈氏講演記録(異文化経営 第18号95~106頁) ↩ 本文
- 矢野博丈 著者プロフィール ↩ 本文
- 大創産業の会社概要・沿革 ↩ 本文
- 祝50周年!100円ショップ『DAISO』9つのトリビア ↩ 本文
- Daiso: The story behind the ¥100 phenomenon ↩ 本文
- ダイソー矢野会長『自分は不運、こんな会社すぐ潰れる』と疑い続けた弱気人生 ↩ 本文
- 常設店への転換と高松の直営店(黒田隆司の証言) ↩ 本文
- 公衆電話からの発注と共同生活(石川政史の証言) ↩ 本文
- (訃報)創業者 矢野博丈逝去のお知らせ ↩ 本文
- 歴史を聞く Vol.07 青野美恵子 ↩ 本文
- 歴史を聞く Vol.03 栗森健二 ↩ 本文
- カンブリア宮殿 ダイソー・矢野博丈回の番組紹介 ↩ 本文
- 歴史を聞く Vol.04 栗森健二 ↩ 本文
- 歴史を聞く Vol.08 青野美恵子 ↩ 本文
- 歴史を聞く Vol.09 延末露子 ↩ 本文
- 歴史を聞く Vol.10 延末露子 ↩ 本文
- DAISOヒストリー 世界に広がるダイソー ↩ 本文
- 大下英治『大創Daiso』台湾展開の章(出版社許諾書籍抜粋・繁体字訳) ↩ 本文
- 大創百貨創辦人矢野博丈80歲逝世 『100日圓男』設立均一價商業模式 ↩ 本文
- 中央通訊社:矢野博丈訃報と本人台湾回想(TNL転載) ↩ 本文
- 歴史を聞く Vol.12 新広等 ↩ 本文
- 平成23年度における下請法の運用状況(大創産業勧告事例) ↩ 本文
- 平成26年度 中国地区における下請法の運用状況(大創産業勧告事例) ↩ 本文
- ダイソー創業者・矢野博丈が前言撤回して息子を社長にした理由 ↩ 本文
- ダイヤモンド・チェーンストア2022/12/8:矢野靖二社長独占インタビュー(公開範囲) ↩ 本文
- DAISOヒストリー これからのダイソー ↩ 本文
- 中央大学:矢野博丈への特別招聘教授称号授与 ↩ 本文
- 矢野博丈氏のご逝去を悼む ↩ 本文
- 中央大学:2023年度第1回理工学部講演会 実施報告(2023年11月20日) ↩ 本文
- Bloomberg報道:生前の推定資産19億ドル ↩ 本文
写真の作者・利用条件・撮影年は各画像の下に記載。取材資料と写真の出典は別々に確認できます。
※ 円換算は2026年11月2日確認のWise表示値(1米ドル=157.6円)を使用。取引当時の為替や物価・購買力を再現するものではありません。 為替出典:USD
本文更新:2026-11-02



