THE STORY
豊田喜一郎の物語
選んだ道。その先で、起きたこと。
01注文が来る前に社長を辞めた
6月5日と6月25日
1950年6月5日、豊田喜一郎はトヨタ自動車工業の社長を辞めた。自分が始めた自動車の会社だった。車をつくる設備も、技術を持つ人も残っている。だが、その仕事へ払う現金が足りない。従業員を減らす再建案をめぐる争議の責任を取り、創業者が席を離れた。[1]
20日後の6月25日、朝鮮戦争が始まった。日本の自動車会社には軍用トラックの引き合いが来る。トヨタが米軍から最初の引き合いを受けたのは7月10日、1000台の契約を結んだのは7月31日だった。喜一郎を追い詰めた資金難の後へ、大きな注文が届いた。[2]
会社が立ち直る頃、彼はもう社長ではなかった。そして、戻る予定が決まったときには、その日を迎えられなかった。
彼が生きていた間のトヨタには、発表会へ行く途中で折れるトラックがあり、削ると穴が出るエンジンがあり、売ったのに入ってこない代金があった。そこへ人を送り、自分でも出向き、金を集めて続けた仕事だった。まず覚えたのは、車のつくり方ではなく、布を織る機械を何百台も動かす難しさである。[3][4][5]
02祖父母の家から父の工場へ
湖西に生まれた発明家の子
喜一郎は1894年6月11日、浜名湖西岸の、現在の静岡県湖西市に生まれた。父は豊田佐吉。布を織る仕事を機械で変えようと、各地で研究を続けていた。幼い喜一郎は、祖父母のもとで育った。父と一緒に名古屋で暮らすようになるのは、3歳頃だった。[6]
地理データ:Natural Earth(パブリックドメイン)。 湖の補助データ:© OpenStreetMap contributors(ODbL)。使用データ。現代の行政区分と都市の代表位置を表示。編集部作図。
生母のたみは、喜一郎が赤ん坊のときに家を離れ、父と別れた。後に佐吉は浅子と再婚し、妹の愛子が生まれる。祖父母に育てられた子どもが、父のいる街へ移り、機械の動く場所を身近にしていった。[7]
家のそばに機械がある
名古屋の住まいは、父の織機工場や織布工場の敷地内にあった。外へ出れば、機械が働き、人がそれを扱う場所がある。後に喜一郎は、海外で機械を組み立てた際、子どもの頃から機械へ接していたことが役立ったと振り返っている。[6]
1908年に明倫中学校、1914年に東北地方の学都、仙台の第二高等学校へ進み、1917年には東京帝国大学で機械を学び始めた。父の工場を見ていた少年は、今度は学校で、設計や材料を扱う専門の知識を身につけていく。[6]
03法律の勉強を切り上げる
名古屋から呼び戻される
1920年に工学部を卒業した喜一郎は、すぐに父の会社を全面的に任されたのではなかった。豊田紡織の経営は、妹の夫で10歳年上の利三郎が取り仕切っていた。喜一郎は大学へ戻り、法律や社会制度を学んだ。[8]
だが、翌1921年春、その時間は途切れた。父たちが上海の工場建設にかかりきりになり、国内で技術の仕事を担う人が必要になった。名古屋へ呼び戻された喜一郎は、4月、荷物を工場へ運んで寝泊まりを始める。機械を動かし、調整し、商品をつくる順序を、実際の職場で覚えていった。[8]
仕事の相談相手もできていた
大学で知り合った人々との関係は、その後の仕事にも残った。学友の隈部一雄は、後にトヨタの副社長になる。技術で詰まったとき、大学の研究者へ相談し、人を送って学ぶ経路もできた。図面を持つだけで進めない仕事に、学校で得たつながりが使われるようになる。[6][9]
喜一郎の前には、父の工場で覚える仕事と、外の専門家へ尋ねる仕事の両方があった。さらに、その年の夏には、海の向こうの工場へ出る機会が来る。
04最初の海外実習は織機だった
オールダムで半月学ぶ
1921年7月、喜一郎は利三郎・愛子夫妻と横浜から船に乗った。行き先は米国と英国。中心となるのは、繊維産業と、糸や布をつくる機械の視察だった。自動車会社の創業者として知られる彼が、最初に長く見て回ったのは繊維の工場である。[10]
英国では、北西部の繊維工業都市オールダムにあるPlattへ向かった。世界的な繊維機械メーカーだった。1922年1月、一行と別れた喜一郎は、半月ほど製造の現場を学んだ。見学して帰るだけでなく、機械をどうつくっているかに入っていく時間を持った。[10]
飯田家の二十子と結婚する
1922年には、百貨店・高島屋の4代飯田新七の娘、二十子と結婚した。後に残る嫁入りの着物にも、商家同士の結びつきが伝わる。学校で工学を学び、家業の資金で海外へ行き、大きな商家と家族になる。喜一郎の周囲には、仕事を始めるための足場が重なっていた。[11]
帰国後、その足場を使って完成させなければならなかったのは、まだ自動車ではない。父と進めていた自動織機だった。
0520台の成功を200台へ増やすと
止めずに糸を補う
目指したのは、糸を補うためにいちいち機械を止める手間を減らす自動織機だった。1923年夏には30台ほどが動くようになった。数台の機械が動けば、その仕組みは使えるように見える。だが、試験の規模を上げると、別の問題が出た。[12]
20台では大きな支障が出なくても、200台にすると故障が増える。長く使い、台数をそろえて動かしたときに、同じ精度を保てない。発明した仕組みを、客が工場で毎日使える商品へ変えるには、まだ調整が必要だった。[12]
発明と量産の間
部品を頼んでも、製作を断られることがあった。父が以前に売った特許の問題もあり、同じ方法をそのまま使えない。外部へ部品を頼み、修繕工場で組み立て、設計を改める。新しい糸の交換装置などは、喜一郎自身の名でも特許が出願されていった。[12]
改良は、仕組みを速くするだけではなかった。糸を通す「杼」という部品を補う時、作業者が向きを間違えると機械が壊れる。そこで、正しい向きでなければ入らない容器を考えた。注意するよう呼びかける代わりに、入れ間違えられない形へ変える。1925年に考案したこの工夫も、何台もの機械を人が日々動かす中から生まれたものだった。[12]
G型自動織機を量産するため、名古屋中心部の堀川に近い日置町で工場を借り、鋳造の設備と工作機械をそろえた。1925年11月に最初の機械ができ、翌年には豊田紡織の工場で500台を超える織機が動く。少数を動かすところから、何百台をそろえて使うところまで、喜一郎は進める仕事を担った。[13]
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06父の500台と息子の250台
工場をどこまで大きくするか
1926年、G型を大量に製造する豊田自動織機製作所が生まれた。社長は利三郎、喜一郎は常務取締役だった。父の佐吉は月500台の工場を求める。喜一郎は社内の慎重な意見も踏まえ、500台と250台の2案を検討した。[14]
いい機械ができても、そのためにどこまで設備を買うかは別の判断になる。小さな修繕工場から借りた工場へ、さらに新工場へ。喜一郎は、設計を完成させるだけでなく、人と機械を増やし、生産を継続させる段階も経験した。[14]
合併へ進む案もあった
1930年には、三井物産が、豊田自動織機製作所、豊田式織機、英国Plattを合併する案を示した。交渉はまとまらず翌年に白紙へ戻ったが、豊田の事業には、その道も検討されていた。染色や人造繊維へ広げる動きもあった。[15]
次を何で稼ぐか。織機を売る会社をどう変えるか。自動車へ向かう前に、家業の側にも複数の選択肢があった。喜一郎の自動車研究は、その中で小さなエンジンから始まっていく。[16][17]
0710万ポンド(約2110万円)を1度にもらったのか
英国Plattとの契約
1929年、喜一郎は再び欧米へ向かった。今回は、G型自動織機の特許に関わる交渉がある。英国Plattは、自社の市場へ入ってくる豊田の技術に関心を持っていた。契約の対象には、喜一郎が発明した糸の交換方式に関する特許も含まれた。[18]

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契約総額は10万ポンド(約2110万円)。だが、全額を1度に受け取るものではない。2万5000ポンド(約527万5000円)ずつ、4回に分ける契約だった。実際には未払い分の減額を経て、最終決済額は合計8万3500ポンド(約1761万8500円)となった。[18]
父の特許料10万ポンド(約2110万円)を、そのまま自動車の創業資金へ回したという話はよく知られる。契約や社内資料を調べた和田一夫の研究が示すのは、違う資金の流れだった。自動車へ必要になった金は、その1回の契約では賄えない。織機や紡織の事業から、さらに大きな資金を集めることになる。[19]
特許の旅で車の工場を調べる
この渡航で喜一郎が力を入れたのは、自動車工業と工作機械の調査でもあった。米国での特許の売り込みは同行者へ任せ、自分は工場を見る。織機の仕事で海を渡った先で、次の産業を、現物の設備として調べていた。[18]
その後に入った特許料の一部は、自動車工場とは違うところへ向かった。父を亡くし、不況と人員整理を経験した家業の、人々の手元へ渡ったのである。
08時計と物差しと風呂敷へ変えた25万円
不況で織機が売れなくなる
1929年の世界恐慌の後、織機の販売は急に落ちた。1930年の販売台数は前年のおよそ半分、国内向けは3分の1ほどになった。関連工場では人員整理が行われ、労働争議が起きていた。1930年10月には父の佐吉も亡くなった。[20]
翌1931年2月、佐吉の百か日供養にあたり、喜一郎は25万円相当の金品を出した。元になったのは、Plattから入る特許料のうち2万5000ポンド(約527万5000円)に相当する金だった。[20]
全員へ同じ現金を配ったのではない
当時の新聞記事を紹介した和田の説明では、25万円のうち10万円は、佐吉の発明を苦楽ともに支えた縁故者へ分けた。残る15万円は、関連9工場の社員や役持ち職工、男女の工員たちへ渡った。[21]
勤続などに応じた時計と金一封。男子工員には物差しと金一封、女子工員には風呂敷と金一封。大きな特許契約の金は、そのような物へ変わって人々へ届いた。和田がその記事を長男の章一郎へ見せると、父を褒めすぎる美談のようで嫌だと受け止めたという。家族の側にも、単純に飾り立てたくない仕事として残っていた。[21]
喜一郎は本業も立て直した。糸をつくる工程を効率化する精紡機を開発し、1931年に発売する。合理化のための設備需要をつかみ、業績は戻り始めた。その工場の一角では、自動車へ使う小型エンジンの試作も続いていた。[22]
09自転車にエンジンを載せて走る
震災の街で見た輸送の力
自動車への関心には、1923年の関東大震災での経験も重なった。学友を訪ねて東京にいた喜一郎は、鉄道の傷んだ街で、車が人と物を動かす力を見た。震災後、東京市はFordのトラック用車台を800台発注し、幌をかけたバスとして使った。[23]
その供給力を持っていたのは海外企業だった。Fordは横浜、General Motors(GM)は大阪に組立工場を置く。車本体だけでなく、部品と販売と修理まで整えた会社が、日本の市場へ入っていた。[24]
小さな研究から始める
喜一郎たちはオートバイや、ドイツの小型車をつくるHanomagの車を調べた。小さなエンジンを試作し、自転車へ取り付けて走らせる。織機をつくる会社の一角で、別の動力を試していた。[16]
1933年8月には岩岡次郎と白井武明が、前年の秋から手掛けたオートバイ用エンジン10台を完成させた。本業の設備の一部を使っていた研究が、同じものを複数つくる段階まで来た。その翌月、喜一郎は自動車製作部門を設ける。小さな動力を試してきた仲間が、今度は車全体を相手にする。[25]
10Chevroletをばらして図面を描く
自動車製作部門ができる
1933年9月1日、豊田自動織機製作所に自動車製作部門が置かれた。喜一郎は39歳。まだ正式な職制上の部署ではなく、これまで車を調べていた仲間が、本格的な試作へ進むための集まりだった。その3カ月前には、大島理三郎をアメリカとヨーロッパへ送り、加工用の工作機械を買い付けさせていた。車を分解する前から、部品をつくる道具を海の向こうで集め始めていた。[26]
10月、1933年型Chevroletを分解した。千種治郎吉が部品を外し、白井武明が実物を測って図面に起こし、岩岡次郎が材料を比べる。1台の完成品が、形と寸法と材質に分けられていった。エンジンにはChevrolet、丈夫なトラックの骨格にはFord。乗用車の外形には、Chrysler系のDeSotoを参考にする方針だった。[27][26]
11月には菅隆俊が加わる。地元でつくられた国産乗用車「アツタ号」のエンジン鋳造に携わった経験者だ。翌1934年3月には、国産小型車「オートモ号」を手掛けた白楊社から池永羆が来た。先に車へ挑んだ人々の仕事を、織機の会社の中へ集める。菅は製造工程や試作工場の設計も引き受けた。喜一郎がそろえていたのは、外国車の見本だけではなかった。[26][27]
八事に建てた別荘
同じ1933年、名古屋東部の丘陵地、八事に別荘を建てた。地上2階、地下1階。後に移築された旧豊田喜一郎邸である。車の研究へ踏み出していた彼には、会社の設備に加え、こうした暮らしの場所もあった。[28]

写真:BsBsBs/出典/CC BY-SA 3.0。表示サイズ調整・圧縮。肖像は表示枠で切り抜き。
一方、試作工場にはさらに金を入れる。1934年1月、織機会社の資本金を100万円から300万円へ増やし、自動車と製鋼の事業へ進むことを正式に決めた。春には輸入した工作機械が入り、車を形にする現場が動き出す。[29]
11唐傘屋の油でエンジンをつくる
図面を写しても鉄ができない
自動車用の部品へ使える鋼材を、必要な品質でそろえるのが難しかった。新事業の少ない注文のために、材料から開発してくれる会社も見つかりにくい。喜一郎は学者へ相談し、製鋼所まで自前で用意する方へ進んだ。車を組み立てる前に、その車へ使える鉄をつくる仕事が始まった。[30]
エンジン本体を鋳造するにも、内部の空洞を形にする砂の型が要る。1934年、技術者たちは、米国から持ち帰られた小さな実物を手本に、その型をつくろうとした。砂へ混ぜる油には、提灯や唐傘の防水に使う桐油を選んだ。買いに行く先は岐阜の唐傘屋。混ぜた砂は、知多半島の内海海岸のものだった。[4]
新しい鋳造法を試すと、注いだ鉄が勢いよく噴き上がることさえあった。中に空洞をつくる砂型には、油を混ぜる方法を採った。だがその配合が決まらない。大きな織機の部品をつくった経験があっても、薄く入り組んだエンジンの内部は別の難物だった。型をつくり、鉄を流し、またやり直す。[31]
削ると穴が現れる
油をどれだけ混ぜるか。型を何度で、どのくらい焼くか。条件を変えて試した。鋳物ができるようになっても、機械で削ると内部の穴が現れる。10個鋳込んでも、加工を終えて合格するのは1〜2個。1935年にトラックを発表する頃にも、似た状態が続いていた。[4]
さらに深く削ると、穴がなくなる部分があった。技術者たちは材料試験で確かめ、削る余裕を多くした鋳型へ変えた。ようやく不良が大きく減る。完成した外国車を分解すれば寸法は測れる。だが、同じ部品を何個も使える品質でつくる答えは、こうして油と砂と加工の条件を変えながら探すしかなかった。[4]
12歯車を大学へ持ち込む
どんな刃物を頼めばよいのか
変速機をつくる段階では、歯車で止まった。手元には外国車の歯車がある。だが、その歯の正確な形がわからず、削る刃物も何を使えばよいかわからない。喜一郎は、友人で東北帝国大学教授の抜山四郎へ相談した。紹介されたのは、歯車を研究する成瀬政男だった。[9]
1934年11月、岩岡次郎と若松辰治を大学へ送った。2人は理論を学び、持参したChevroletの歯車を顕微鏡で測った。測定は100分の1ミリ単位。形を10倍へ拡大して描き、理論と照らし合わせ、ようやく加工する刃物を発注できた。[9]
測った形が図面になり、図面が刃物の発注につながる。学校時代の友人をたどった相談は、工場で歯車を削る道具にまで変わった。[9]
ゴムと液体も調べる
車には金属以外も要る。1934年に迎えた化学技術者の木村冨士信は、ブレーキ液やゴムなどの研究を担った。車が走っても、液とゴムが合わなければ油圧ブレーキは安定して働かない。粘度を調べ、小規模な自家生産も進めた。[32]
タイヤやベルト、振動を和らげる部品へ、仕事は広がる。喜一郎の会社には、設計図を描く人の隣に、成分を調べ、材料をつくる人も必要になった。車の形が決まるほど、その内側へ満たすべき条件が増えていた。[32]
1360馬力の手本に追いつけない
A型エンジンを走らせる
1934年9月、試作したA型エンジンをChevroletのトラックへ載せた。車は走った。しかし測定すると48〜49馬力。手本のChevroletは60馬力を出す。外側の寸法を合わせ、部品を組み上げても、それだけでは同じ力が出なかった。[33]
燃料を燃やす燃焼室の形を変え、試験を重ねた。やがて65馬力まで引き上げる。動いたところを完成にせず、足りない力がどこで失われるのかを調べ、作り直す。鋳物の穴を減らす仕事と並行して、ようやくエンジンそのものの性能も上がり始めた。[33]
乗用車の車体は、また別の難所だった。喜一郎がDeSotoの流線型を選んだのは、見た目の好みだけではない。大量生産のための金型を仕上げるまでに、車の流行が変わってしまう。先を行く形を選ばなければ、設備が完成した時には古びた車になる。走行性能を追いかけながら、まだできていない工場で売る車の姿も決めなければならなかった。[33]
だが、金型の製作を待つと試作が進まない。車体は鉄板を手で打ち出して形にした。1935年5月、A1型試作乗用車が完成した。自製の鋳物や鍛造部品と、Chevroletの純正部品を組み合わせた車だった。喜一郎らが刈谷から東京へ試走した際には、箱根を越えたことを伝える電報が会社へ届いた。難路を抜けた知らせが、試作を続けていた仲間のもとへ返ってきた。[33][34]
すべてを一斉に自製品へ置き換えると、故障した時に、どの新しい部品が悪かったのかわからなくなる。実績のある購入部品を使い、その間で自分たちの製品を試す。電装品などの国産化には、さらに研究を積むことにした。完成車を任せてもらうためには、まず走り、使い続けられる車にしなければならなかった。[35]
14発表会へ向かう車まで壊れる
夢の乗用車と売るためのトラック
喜一郎が乗用車を試作する一方、商工省と陸軍省からはトラックとバスを求める声が来た。自動車部は1935年3月、Fordの車台を参考にトラックの設計へ着手する。エンジンには開発中のA型を使い、既存の外国車から学んだ車軸や骨格を組み合わせた。乗用車と並行して、商売にする車も急いでつくることになった。[3]
6月、喜一郎はG1を年内に売る方針を示した。試作がようやく進み出した段階で、すぐ量産へ移ることには反対が出た。だが製造を許可する法律の準備が進んでいる。豊田が許可を得るには、トラックを生産できることを示す必要があった。乗用車の試作は3台でいったん止め、月200台を目指すトラックの準備を急いだ。[36]
8月、G1型トラックの試作車が完成した。9月には長距離試験へ出す。1260キロを走る間に、後輪を支える部品の接合部分が折れた。荷物を載せて働くはずの車が、道路の途中で仕事を止めてしまう。修理して持ち帰り、原因を探し、次の車へ直しを入れる。その最中にも、発表会の日程が迫っていた。[3]

写真:Mytho88/出典/CC BY-SA 3.0。表示サイズ調整・圧縮。肖像は表示枠で切り抜き。
11月20日午前5時、G1は愛知県中部の工業都市・刈谷から東京へ向かった。ところが途中で、方向を変える操舵装置の腕にあたる部品が折れる。修理を経て東京・芝浦の会場へ着いた時には、21日の午前4時になっていた。出発から23時間。客へ見せる車を、会場へ運ぶだけでも、その場の修理が必要だった。[3]
外から見えなかった溶接
G1の完成車価格は3200円だった。だが納車しても故障が続く。車が売れたという知らせの後に、止まったという知らせが来る。最初の1935年に販売された台数は14台にとどまった。[37]
接合部を調べると、手本にしたFordとの違いが見つかった。Fordでは接合面全体が溶着している。豊田側は、外側から見える部分を溶接しただけだった。形は似ている。それでも荷重を受けた時の強度が違う。分解して寸法を測るだけでは、接合面の内側で何が行われたかまで写せなかった。[37]
12月、名古屋の販売店で開く発表会へ車を運ぶ途中にも故障した。電柱へわずかに触れた際、後輪を支える部分が折れ、代わりの車を急いで用意する。車を見に来る人々が増えても、売る側は品質に不安を抱えていた。[38]
接合の方法を改め、壊れた箇所を設計へ戻した。工場の試験で合格することと、悪路を荷物とともに走り続けることの間には、まだ埋まっていない差があった。売った車の故障は、その差を1つずつ突きつけた。[37]
15故障した車へ喜一郎も駆けつける
浜松で立ち往生したG1
1936年4月、静岡県西部の工業都市・浜松でG1が故障した。喜一郎は技術者たちと現地へ向かい、修理に加わった。この出来事は、後にトヨタ鞍ケ池記念館の展示にもなった。設計を任せる幹部が、壊れた車のところまで出ていった。[39]
工場へ返せば調べられるというだけでは、使っている人の仕事は再開しない。その場所で車を動かさなければならない。初期の豊田の開発には、工場の中で新しい部品をつくる日と、売った部品が壊れた場所へ駆けつける日が続いていた。[39][37]
最初の販売店、日の出モータースの山口支配人は、当初売る台数を6台に絞った。相手を選んで売り、壊れたらすぐ駆けつける。大量に売り出すより前に、その6台を走らせ続ける体制を用意した。それでも故障への対応が続き、喜一郎も車の下へ入り、問題の箇所を確かめて設計や材質の変更を指示した。[40]
変更すれば、工場には使えなくなる旧部品が残る。喜一郎は不具合の出た部品の在庫を、皆の前で壊すよう命じた。せっかくつくった部品を、そのまま次の車へ付けるわけにはいかない。売上を増やしたい工場で、つくった物を捨ててやり直す。販売店から届く故障が、工場の在庫と製造方法まで変えていった。[40]
GMの販売を知る神谷正太郎
この車を売る組織を引き受けたのが、1935年に日本GMから移った神谷正太郎だった。神谷は国産自動車の仕事へ関心を持ち、知人を通じて豊田側へ接触した。喜一郎は販売網づくりを任せる。試作工場だけでは届かない全国の客との間に、販売と修理を担う会社が必要になっていた。[41]
神谷は各府県を基本に、メーカーとは独立した販売会社を配置した。参加したのは、GM系、とりわけChevroletを扱ってきた販売店が中心だった。彼らはすでに車の売り方を知り、修理の仕事も知っている。その経験を、まだ故障の多い国産車へ振り向けてもらう。車の品質が整うより先に、売った後まで付き合う人々を集めなければならなかった。[41]
1936年には、G1を改良したGA型トラックとAA型乗用車が登場した。故障の続いたトラックを直しながら、乗用車の製品化も進める。国産車の看板が出た後も、喜一郎の仕事は、最初の試作品を完成させた時より細かく増えていった。[37]

写真:Mytho88/出典/CC BY-SA 3.0。表示サイズ調整・圧縮。肖像は表示枠で切り抜き。
16家名から濁点を外す
AA型に残るTOYODA
1936年、車のマークを懸賞で募集した。採用されたのは片仮名の「トヨタ」。家名の「トヨダ」と比べて濁音がなく、響きがよい。8画で書けることも選定理由になった。家の名前を掲げる事業から、より広く社会に向ける企業へ進む意図もあった。[42]
初期の車には、漢字の「豊田」に羽根やシャチホコを組み合わせた飾りや、TOYODAの文字が残る。AA型の復元車でも、その時代の名前が見られる。いま世界中の車に付く楕円形のマークは1989年の意匠で、喜一郎が車をつくり始めた時の顔とは違う。[42]

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17国策に押されて会社を大きくする
閉じられる外国車の市場
1936年、自動車製造事業法が施行された。許可会社に選ばれたのは豊田自動織機製作所と日産自動車。国内に自動車産業を育てるとともに、国防に必要な生産力を確保する政策だった。[43]
それまで市場を押さえていた日本Fordと日本GMには、生産制限や部品の輸入関税引き上げがかかった。両社は1939年に国内生産を停止する。豊田は車の完成度で外国勢を追い越す前に、政策によって競争条件が変わる市場へ入った。[43]
許可を得れば負担も増す。国産部品を使い、量産できる設備を整えなければならない。まだ車の不具合を直している段階で、次は大きな工場への投資が必要になった。売れ行きを見ながら少しずつ広げるのでは、国が求める生産能力に間に合わない。[43][44]
喜一郎自身は1934年の政策検討で、補助金が原価を下げる努力を妨げると述べ、参入を1社に絞らないよう求めていた。競争を求めた発言を持つ一方、実際の豊田は許可会社として外国勢の制限を受ける市場で拡大する。その両方が、自動車事業を取り巻く現実だった。[45]
上海の家業から来た300万円
1935年、豊田自動織機製作所は300万円の増資を行った。それを全額引き受けたのは、中国東部の商業都市・上海で操業する豊田紡織廠だった。父の佐吉が広げた紡織事業が、自動車へ向かう会社の資金を支えた。[46]
英国の特許契約だけで、自動車づくりの資金をすべて説明することはできない。織機の会社が稼ぎ、上海の会社が出資し、親族と幹部が支える。喜一郎はその土台を使って、失敗を重ねる部門を保ち、大量生産へ進もうとしていた。[46][19]
18600万円の会社に3000万円の工場
自動車部を会社へ変える
計画した工場の見積もりは3000万円。豊田自動織機製作所の資本金は600万円だった。月2000台をつくる設備を、その会社の1部門として抱えるには大きすぎた。自動車部を切り離し、新会社で資金を集めることになった。[44]
1937年8月28日、トヨタ自動車工業を設立した。資本金1200万円。初代社長に就いたのは豊田利三郎で、喜一郎は副社長だった。利三郎が会社を取りまとめ、喜一郎が技術と工場を進める。車を生産する前から続いていた役割分担が、新会社でも形になった。[44]
新会社の資本金を集めても、工場の見積額には届かない。借り入れを組み合わせて工事を進めた。1938年11月、挙母工場の第1期工事が完成した時、費用は4500万円に達していた。最初に描いた3000万円より、さらに1500万円高くなっていた。[44][47]
若い技術者が広い工場を設計する
用地を選んだのは愛知県内陸の挙母、現在の豊田市だった。広く安い土地があり、鉄道や電力、地下水の条件もそろう。敷地は約50万平方メートル。鋳造、鍛造、機械加工、塗装、最後の組立までを集め、自動車のために工程を配置した。[48][47]
町の側にも、工場を必要とする事情があった。挙母では繭や生糸などの産業が世界恐慌で衰え、中村寿一町長が新しい仕事を求めていた。そこへ喜一郎が用地の買収を申し入れた。土地を確保する車の会社と、雇用を生む産業を迎えたい町の利害が重なった。[49]
喜一郎は、本格的な量産工場には危険も伴うと認めたうえで、仮に豊田が失敗しても、別の事業家が設備を利用できると説明した。自分の成功だけを根拠に土地を求めず、失敗した後に町へ残る工場まで挙げたのだ。中村の協力を得て進む工事は、喜一郎だけの挑戦ではなくなっていた。[49]
20代の技術者にも各工場の設計を任せた。織機をつくる場所の隙間を借りていた部門が、今度は自分たちの仕事の順番に合わせて工場をつくる。車が増えた時に工程をつなぐ余地も設けた。小さく始めた試作から、まだ売ったことのない数量の量産へ、会社ごと踏み出した。[48][47]
19部品が余るほど改良できなくなる
必要な時に必要なものを
喜一郎は、部品不足とは逆の問題にも苦しんでいた。古い部品が多すぎる。織機と同居していた時代には、機械が使える時に部品をまとめてつくった。ところが後で設計の悪い箇所がわかる。改良品へ切り替えれば、残っている部品を捨てなければならない。[50]
一方で、売った車を直すための部品は十分に届かない。工場に物があることと、客の必要な部品があることは違った。まとめてつくる段取りが、不良を直す仕事も修理する仕事も妨げていた。[50]
挙母工場で喜一郎が提唱したのが「ジャスト・イン・タイム」だった。必要な部品を必要な時にそろえる。前の工程が大量につくって押し込むのではなく、次の工程が必要とする状態に近づける。在庫を抱えすぎなければ、資金を寝かせずに済み、設計を変える時の損失も小さくなる。[51]
だが実行へ移し始めた時代に、材料統制が強くなった。欲しい物を欲しい時に買えず、割り当てられた材料で生産する。1939年の部品会社との会合で、喜一郎の用意した原稿は、統制によって構想の実行が難しくなったと説明している。仕組みが完成したまま戦後へ渡ったのではなかった。[51][52]
車10台と部品10個を同じ番号で追う
理想どおりに流れない工場で採用されたのは、「号口管理」という仕組みだった。たとえば組み立てる車を10台ずつに分け、第1、第2と番号を付ける。そこに必要な部品も、同じ10個単位と同じ番号で追う。以前は工場ごとにばらばらだった生産の管理を、最後の組立へ合わせてそろえようとした。[53]
建物を工程の順に並べても、部品が別々の速さで届けば、車は最後まで進まない。号口管理は、その食い違いを工場全体で見えるようにする試みだった。資材の入荷が乱れる戦時下では、この方法も円滑には動かなかった。それでも、各工場が自分の分だけをつくる状態から、同じ車の完成に向けて仕事を合わせる方向へ進んだ。[53]
副社長が品質改善の課長になる
巨大な挙母工場が動いても、不具合は消えなかった。エンジンが過熱し、歯車が傷み、ハンドルは重い。新型GBトラックにも問題が残った。喜一郎は、建物を移せば車までよくなるという期待を裏切られた。部品の製造法を変え、材料と設計を直す作業は、新工場でも続いた。[50]
彼は監査改良課を復活させ、自分が課長となって改善を担当する方針を掲げた。サービス部門に届く欠点を1品ずつ調べ、工場の責任者を立ち会わせる。不良品を見本として展示し、原因を調べ、月ごとの統計で対策を追う。副社長の席から品質を命じるだけでなく、不具合を扱う部署の責任まで自分で引き受けようとした。だが戦争が進むと、生産数量が優先され、この構想も十分には実現できなくなる。[54]
20研究所で電池と空飛ぶ機械を調べる
英二へ研究所を任せる
1936年、東京湾に面した工業地区・芝浦に研究所を置いた。担当にしたのは入社したばかりの従弟、豊田英二だった。ラジエーターや材料、部品を調べる場所であり、軽飛行機やヘリコプター、ロケットに関係する調査も進めた。喜一郎の研究は、自動車の車体から外へ伸びていた。[55]
1939年には電気自動車用の蓄電池も研究する。父の佐吉は早くから蓄電装置へ関心を寄せ、発明を促す懸賞へ寄付していた。喜一郎たちは芝浦で電池を製作し、性能を高めようとした。ガソリンで動く車を量産する会社の中に、違う動力の研究が並んでいた。[56]
1940年には建物と設備を提供し、豊田理化学研究所が設立された。材料や部品の難問を、自分たちの工場だけで解き切ることはできない。大学で学んだ知識や研究者との関係を使い、基礎研究を続ける組織を残した。量産のための工場へ巨額を投じた後も、研究はすぐ売れる車だけに限らなかった。[56]
21車の工場が軍需工場になる
乗用車をつくれない社長
1941年、喜一郎はトヨタ自動車工業の第2代社長に就いた。すでに1939年から民間向け乗用車の生産は禁止されていた。大衆が自分の車を買う市場を広げるより、軍が使うトラックを生産する比重が増していく。[57][58]
鋼材は足りず、品質もそろわない。1943年には、従来より鉄の使用量を約3割減らした戦時規格のKC型トラックへ切り替えた。車を丈夫にしていく仕事の横で、材料を節約するために構造を簡略化する仕事が進む。1944年、会社は軍需会社に指定され、喜一郎は法令上の生産責任者になった。[59][58]
海外での事業も戦争と結びついていた。1936年の最初の輸出先は、日本が中国東北部に建てた「満州国」。その後、上海や中国北部の港湾都市・天津でトラックを組み立てた。日本の侵略と占領が進む場所へ、生産の拠点も広がった。[60]
航空機分野では1943年、川崎航空機と共同出資した会社を設立し、東海飛行機の社名へ改めた。陸軍から航空機用エンジン量産の会社を設けるよう求められ、トヨタ側が60%を出資した会社で、喜一郎は社長に就いた。だが工作機械がそろわず、工場の転用も重なり、本格生産へ入れないまま終戦を迎える。自動車の大量生産技術を軍用航空機へ使う計画は、会社をつくれば動くものではなかった。[61]
22終戦の前日に工場が壊れる
ドジョウまで研究する会社
1945年8月14日、挙母工場は空襲を受けた。破壊されたのは約4分の1。翌15日、工場では復旧作業が行われていた。その日に終戦を迎えた。勤労動員された人々が去り、残った会社にも、次に何をつくることが許されるのかわからない。[62]
自動車を続けられない場合に備えて、新しい仕事を探した。甘味料、石鹸、薬草、食器、玩具。研究項目には、ドジョウの人工養殖まで入った。材料を加工し、機械を設計してきた会社が、従業員の生活をつなぐため、食べ物や日用品へ手を広げる。[63]
空襲で住宅も失われていた。喜一郎はコンクリートの部材を工場でつくり、現場で組み立てる住宅を研究した。木材が足りない時代に、家を工業製品として供給する。後のプレコン事業へつながる発案だった。車を出せるかどうか決まらない間にも、工場の技術でつくれるものを探し続けた。[64]
1946年3月には平山のガラス工場を住宅用部材の研究へ転用した。空いた机で図面を描くだけでなく、実際の工場を別の製品へ使い直していた。実用化した事業は、1950年6月7日、資本金2400万円のユタカプレコンとして独立する。喜一郎が自動車会社の社長を辞めた2日後だ。車の会社が縮む最中にも、戦後に試した別の仕事は会社という形で残り始めていた。[64]
再出発の幹部を事故で失う
1945年12月、民需への転換が認められた直後、副社長の赤井久義が交通事故で亡くなった。軍の監督下で会社運営を担ってきた幹部だった。工場を修復し、新しい体制を組む時期に、喜一郎は経営を支える人を失った。[65]
乗用車の生産禁止や、賠償に備えて設備を保全する指定も残った。自分の工場に機械があっても、自分の判断だけでは使えない。戦時補償の打ち切りや企業再建への対応を迫られ、会社を分ける再編も進めた。1949年末には電装部門が日本電装、現在のDENSOとして独立する。紡織部門なども別会社になった。[66][67]
23他人の車を直しながら次の車をつくる
Plymouthから学ぶ再出発
戦後の工場へ入った仕事の1つが、米軍車両の修理だった。エンジンを分解し、車体を直し、塗装して組み直す。1950年までに扱った乗用車はおよそ300台で、多くはChryslerのPlymouthだった。完成した外国車の中身を、再び実物で確かめる仕事になった。[68]
自社の乗用車を自由に生産できなくても、研究開発は禁止されていなかった。1945年秋には小型エンジンの設計へ入り、1946年に試作機を完成させる。戦前の大きな車をそのまま戻すのではなく、使える資材と設備でつくる次の車を考えていた。[68][16]
1947年、SA型乗用車が登場した。丸みのある小さな車体で、前輪には左右を独立して動かす懸架装置を採り入れた。生産が一部認められた当初の条件は1500cc以下、年間300台まで。車を買える人も限られていた。1947年10月から1952年までにつくられたSA型は215台だった。[69]
新車の外でも仕事をつなぐ
軍需から民需へ転じる工場を、部品の専門メーカーとして育てる仕事も始まった。1946年には東京、翌年には関西で協力企業の会をつくる。自動車の仕事を、自分の工場の中だけへ戻すのではなく、各地の工場へ分けてつないでいった。[70]
新しいトラックを出せば、前の型に乗っている人への部品も要る。戦後のBM型は戦時中のKB型を基礎に改良した車だった。旧型の部品供給には、航空機事業から転じた愛知工業もあたった。新車を売るための生産と、すでに売った車を止めないための生産を、同時に続けなければならなかった。[71]
243億5000万円の出荷が2億円しか戻らない
売れても金が入らない
1949年、インフレを抑えるドッジ・ラインが進められた。通貨や予算を締める政策によって、企業から資金が急速に引いた。材料の統制価格が上がっても、車の販売価格は長く据え置かれた。さらに販売店から、納車を引き取れないという連絡が来る。つくった車が残り、工場の支払いだけが迫った。[72]
売れた分も、すぐ現金にはならない。1949年9月末、出荷額3億5000万円に対し、回収できた代金は2億円だった。入った金は出荷額の6割にも届かない。残る代金は帳簿にあっても、その日の材料費や給与に回せなかった。[5]
1949年10月に割当配給から自由販売へ移っても、現金一括で買える客は増えない。普通トラックの月賦販売比率は11月に85%、12月には87%に上がった。販売店に不渡り手形が出れば、トヨタ自工が穴を埋める。車を出すほど代金の回収が先へ延び、その間に払う金を用意しなければならなくなった。[5]
年末の決済を越すために必要な資金は2億円。日本銀行の斡旋で24行の融資団が組まれ、1億8820万円を借りた。会社を残す資金を受け取る代わりに、経営の再建計画を求められた。研究も工場も、自分たちで決めて広げられる段階を過ぎていた。[5]
25守ると約束した仕事を減らす
前年末の覚書
1949年12月23日、労使は覚書を交わした。組合は1割の賃下げを受け入れる。会社は人員整理を行わない。給与を下げても職場は守るという取り決めで、従業員たちは年を越した。[5]
1950年4月3日、販売部門がトヨタ自動車販売として分離され、神谷正太郎が社長に就いた。製造資金と、月賦で売った代金を回収するまでの販売資金を分ける。銀行は、技術へ先に資金を使う会社の経営にも不信を持っていた。車ができるという見通しだけでは、融資を続けてもらえない。[73]
それでも赤字は止まらなかった。4月22日、会社は1600人の希望退職、残留者の1割賃下げ、芝浦・蒲田の2工場閉鎖を含む再建案を出す。仕事を守るために給与を下げた後で、今度は仕事そのものを手放してほしいという提案だった。[74][75]
同じ工場を残すために対立する
組合は4月24日、対案を示した。人を減らして生産量を落とせば、1台あたりの費用は高くなる。生産を増やして会社を建て直すべきだと主張した。前年の覚書を根拠に、人員整理の無効を裁判所へも訴えた。会社案に反対する側にも、工場をどう残すかという計算があった。[74]
裁判所は覚書の効力を認めなかった。争議は続き、出荷が拒まれ、家族も加わる。一方、会社は残留対象の従業員へ、身分を保障する手紙を送った。同じ職場でも、会社に残る人と去る対象になる人の立場が割れていった。[74]
交渉が長引くほど生産は停滞し、資金繰りも悪くなる。経営側は人員を減らさなければ会社が持たないと考え、従業員側は約束を信じて下げた給与に耐えた後だった。喜一郎が車づくりを続けたいことでは、もう対立を解けなかった。[75][74]
26創業者が席を空ける
6月5日の退任
1950年5月25日、喜一郎は販売店側の集会で、辞任する意向を表明した。6月5日、隈部副社長、西村常務とともに経営を退く。自分がつくった会社を、これから自分抜きで立て直してもらうことになった。[1]
6月8日から徹夜の交渉が行われ、9日に組合側が条件を受け入れた。10日、争議が終わる。会社を去ったのは2146人。そこには閉鎖された東京の2工場の378人も含まれた。創業者の辞任だけで従業員全員が残れたわけではない。大勢が職場を失った後で、会社は操業を続けることになった。[1]
芝浦の工場は、喜一郎が研究所を置いた拠点でもあった。空襲から修理の仕事で再出発していたが、閉鎖を迎えた。従業員の一部は旧設備を借りる新会社へ移り、車の再生や車体づくりを続ける。しかしその会社も事業不振で解散し、さらに別の会社へ人と設備が移った。[76]
蒲田でも、設備を返した後に次の仕事をつくり直した。後に車体生産を担うセントラル自動車へつながる人々も、そこから出る。再建計画の書類では工場を閉じれば1つの項目が終わる。その場所で働いていた人々は、閉鎖の後も何度も新しい職場を探し、つくらなければならなかった。[76]
27去った後にトラックの注文が来る
朝鮮戦争で変わった工場
6月25日、朝鮮戦争が始まった。7月10日、トヨタへ軍用トラックの引き合いが入る。7月31日にBM型1000台の契約を結んだ。8月29日には2329台、翌1951年3月1日には1350台の契約が続く。合わせて4679台、金額は36億600万円だった。[2]
車が売れず、代金が戻らず、職場を減らした工場へ、まとまった注文が一気に来た。月650台だった生産計画を1000台へ上げ、残った従業員の2時間残業で対応する。予定していた新型BXへの切り替えも先へ延ばし、求められたBMを生産した。[2]
喜一郎はすでに社長ではない。去った従業員も、そのまま全員戻ったわけではない。工場を保った設備と技術に、隣国の戦争による需要が重なった。退任から2カ月足らずで最初の大量契約が結ばれ、会社の仕事は急速に増えた。[2][1]
28戻るはずだった社長席
退任しても止まらない研究
喜一郎は高血圧を療養しながら、研究を続けていた。小型乗用車、自動変速機、住宅、食品。東京と名古屋を行き来し、ヘリコプターと、それに載せる新方式のエンジンにも取り組む。経営の席から離れても、まだ完成させたい機械が残った。[77][78]
会社では乗用車の開発が進み、喜一郎が1952年7月の株主総会で社長に復帰する予定も内定していた。だがその日を迎える前、3月27日、脳出血で急死した。57歳だった。会社が持ち直した後も、創業者が社長席へ戻る日は来なかった。[78]
6月3日には、初代社長の利三郎も68歳で亡くなる。利三郎は病床で英二へ、乗用車を進めるよう促していた。巨額の投資を支えた人も、車の開発を押し進めた人も、完成する乗用車を見ることができなかった。[78]
29クラウンが走るまでの3年
残された人々が完成させた車
1952年初め、喜一郎の指示に基づく本格的な乗用車開発が始まっていた。他社には、外国メーカーと提携して技術を導入する道もあった。三菱はKaiser-FrazerのHenry J、日野はRenault、日産はAustinと組む。すでに完成している車を国内でつくる動きが広がるなか、トヨタは自分たちで設計する方針を進めた。[79]
喜一郎の死後の1952年7月、社長の石田退三は参議院の運輸委員会で、その方針を説明した。自社で車体をつくっていない従来の乗用車では、小売価格を責任を持って示せない問題もあった。車台を渡した先で車体が架装される仕組みから、価格と品質を自分たちが引き受ける完成車へ進む。中村健也らの開発には、設計の独立だけでなく、その商売の組み直しもかかっていた。[79]
1955年、トヨペット・クラウンが登場した。喜一郎の死から3年近く後だった。試作車をつくっても、売った車が故障しても、資金が尽きかけても手放さなかった乗用車の仕事を、別の人々が製品として仕上げた。[80]

写真:Mytho88/出典/CC BY-SA 3.0。表示サイズ調整・圧縮。肖像は表示枠で切り抜き。
ジャスト・イン・タイムも、喜一郎の時代に完成していたわけではない。戦時統制で途切れた構想を、戦後に大野耐一らが具体化していった。彼の死後も、工場では部品を必要な時にそろえるための試行が続いた。[51]
30ロシアの農家に残っていた1台
錆びたAA型が海を渡る
初期のAA型は、実物が残っていないと考えられていた。日本の博物館では資料から復元車がつくられた。ところが2008年前後、ロシア極東の港町・ウラジオストク近郊で、現存するAA型が見つかった。戦争の頃から農家が所有し、長く使って、大きく改造していた車だった。[81]

写真:Rutger van der Maar/出典/CC BY 2.0。表示サイズ調整・圧縮。肖像は表示枠で切り抜き。
車を入手したオランダのLouwman Museumは、所有者の孫から譲り受けた。古い車をロシア国外へ運ぶには、文化省の許可が必要だった。手続きと輸送に7カ月をかけ、ウラジオストクからモスクワまで鉄道で運び、さらにトラックでオランダへ届けた。[81]
博物館は、その車を新車のように磨き上げなかった。展示されるのは、塗装も車体も長い使用の跡を残すAA型だ。鋳物に穴が開き、試験で部品が折れ、売った先へ修理に出向いていた時代の車が、遠い国で実用品として残っていた。喜一郎が初期の車をつくってから70年以上たった後、その1台がもう1度、人々の前へ運ばれた。[81]
参考文献・出典 81件
本文の番号に対応する資料です。本人・関係者のインタビュー、当時の取材、企業の発表を参照しています。
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第6節|第6項 喜一郎社長の辞任 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第7節|第2項 朝鮮戦争による特需の発生 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第2節|第4項 G1型トラックの施策・発表 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第3節|第2項 鋳造技術の研究 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第6節|第6項 経営危機の発生 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第1章 第3節|第1項 大学卒業まで ↩ 本文
- Response 豊田喜一郎特集・和田一夫への原史料調査インタビュー(2002年) ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第1章 第3節|第1項 工場で紡績技術を学ぶ ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第3節|第4項 機械加工法、工作機械の研究・開発 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第1章 第3節|第1項 米欧視察へ ↩ 本文
- 髙島屋史料館・豊田家と飯田家寄贈品展(2017年) ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第1章 第3節|第2項 自動織機の試作 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第1章 第3節|第3項 豊田紡織修繕工場での「G型自動織機」製造 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第1章 第4節|第1項 「G型自動織機」の大量生産 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第1章 第4節|第3項 多角化・合理化の進展 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第1章 第4節|第4項 小型エンジンの試作 ↩ 本文
- 豊田喜一郎が創業翌年に語った自動車造りの難しさ ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第1章 第4節|第2項 プラット社との特許権譲渡契約 ↩ 本文
- Kazuo Wada: The Fable of the Birth of the Japanese Automobile Industry (2006), DOI 10.1080/00076790500204768 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第1章 第4節|第3項 一転して綿業不況へ ↩ 本文
- Response 和田一夫インタビュー 25万円の寄贈と原史料 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第1章 第4節|第4項 ハイドラフト精紡機を発売 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第1節|第1項 関東大震災と米国車輸入の急増 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第1節|第2項 フォード社、ゼネラルモーターズ社の組立生産 ↩ 本文
- トヨタ産業技術記念館|豊田喜一郎のあゆみ 第2話 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第2節|第1項 自動車製作部門の設置 ↩ 本文
- トヨタ産業技術記念館|豊田喜一郎のあゆみ 第3話 ↩ 本文
- トヨタ鞍ケ池記念館・旧豊田喜一郎邸移築公開(1999年6月4日) ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第2節|第2項 試作工場、製鋼所の建設 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第3節|第3項 特殊鋼の研究・開発と鍛造技術の研究 ↩ 本文
- トヨタ産業技術記念館|豊田喜一郎のあゆみ 第4話 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第3節|第6項 ゴム部品の研究に着手 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第2節|第3項 A型エンジンとA1型乗用車の試作 ↩ 本文
- トヨタ産業技術記念館|豊田喜一郎のあゆみ 第5話 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第3節|第5項 電装品の研究・開発 ↩ 本文
- トヨタ産業技術記念館|豊田喜一郎のあゆみ 第6話 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第2節|第6項 AA型乗用車とGA型トラックの発表 ↩ 本文
- トヨタ産業技術記念館 豊田喜一郎のあゆみ第7話 ↩ 本文
- 75年史・品質:浜松でのG1修理(1936年4月) ↩ 本文
- トヨタ産業技術記念館|豊田喜一郎のあゆみ 第8話 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第2節|第5項 トヨタ販売店の発足 ↩ 本文
- トヨタマーク―「トヨダ」から「トヨタ」へ ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第2節|第7項 「自動車製造事業法」の許可会社に指定 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第4節|第3項 トヨタ自動車工業株式会社の設立と挙母工場の建設 ↩ 本文
- 笠井雅直・藤井隆久「豊田喜一郎小論―創業家と新事業―」2016 ↩ 本文
- 75年史:段階的な自動車生産能力の拡大 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第4節|第4項 挙母工場の概要 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第4節|第2項 挙母工場の用地選定と建設計画 ↩ 本文
- トヨタイムズ|日本人の頭と腕で自動車をつくる ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第4節|第7項 車両品質の改良・改善 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第4節|第5項 「ジャスト・イン・タイム」の起源 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第5節|第10項 部品製造業の統制 ↩ 本文
- トヨタ自動車75年史|号口管理を採用 ↩ 本文
- トヨタ自動車75年史|喜一郎の品質向上に関する考え方 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第3節|第1項 研究所の設立 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第5節|第1項 蓄電池研究所、豊田理化学研究所の設置 ↩ 本文
- トヨタ創業者 豊田喜一郎が米国自動車殿堂入り(2018年7月20日) ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第5節|第10項 自動車製造業の統制 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第5節|第6項 トラック生産と鋼材不足 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第5節|第7項 外地における生産 ↩ 本文
- トヨタ自動車75年史 東海飛行機株式会社の設立 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第6節|第1項 工場生産の再開 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第6節|第1項 トヨタ研究所 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第6節|第1項 住宅事業 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第6節|第2項 会社再建の方策 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第6節|第3項 民需転換と戦後改革への対応 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第6節|第4項 企業再建整備に伴う新会社3社の分離独立 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第6節|第5項 米軍用車修理事業と小型車開発 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第8節|第1項 ボデーメーカーによる小型乗用車のボデー架装 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第6節|第2項 専門部品工場の育成・確立 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第6節|第2項 車両の設計変更と補修用旧部品の供給体制確立 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第6節|第6項 ドッジ不況と自動車生産・販売の自由化 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第6節|第6項 トヨタ自動車販売の設立 ↩ 本文
- 豊田市・とよたの事典「トヨタ自工の労働争議」 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第6節|第6項 人員整理をめぐる労働争議 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第6節|第6項 芝浦・蒲田工場の閉鎖 ↩ 本文
- トヨタ産業技術記念館・豊田喜一郎のあゆみ第14話 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第7節|第3項 創業者豊田喜一郎と豊田利三郎の死 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第8節|第3項 国産技術による独自の開発 ↩ 本文
- トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第1部 第2章 第8節|第3項 日本初の本格的乗用車 ↩ 本文
- Louwman Museum collection: Toyoda AA (1936) ↩ 本文
写真の作者・利用条件・撮影年は各画像の下に記載。取材資料と写真の出典は別々に確認できます。
※ 円換算は2026年11月2日確認のWise表示値(1英ポンド=211.0円)を使用。取引当時の為替や物価・購買力を再現するものではありません。 為替出典:GBP
本文更新:2026-11-02



