NOBRILO起業家たちの原点と、その物語。

松下幸之助

Konosuke Matsushita

9歳で学校を離れ、奉公へ。会社を辞めて作ったソケットも売れなかった。妻と義弟に支えられた小さな工場から家電の帝国を築き、戦争と倒産の危機を越える。松下電器を継ぐパナソニックの年間売上は8兆487億2200万円に達した。

1894–1989年 / 日本出身 / 家電・電機

物語を読む
松下幸之助(1929年)。
松下幸之助(1929年)。
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産業人の使命は貧乏の克服である。

The mission of an industrialist is to overcome poverty.

1932年5月5日、第1回創業記念式で示した使命。 原文 · 英語は編集部訳

資産と事業

WEALTH & BUSINESS

個人資産

—

現在の個人資産は対象外

生前の資産・持分

  • 松下電器産業株

パナソニック ホールディングス

松下電器産業の創業者。後継企業の現在の規模

家電、住設、車載電池、企業向けの設備やサービスを展開する。

年間売上

8兆487億円

出典・詳しい補足

故人の現在資産と、後継企業の売上は別の指標。2026年の規模には死後の経営を含む。

1918年の創業から1961年の社長退任、1973年の会長退任を経て1989年に死去。松下政経塾設立へ投じた70億円は歴史上の寄付額で、現在の個人資産ではない。

円換算は2026年11月2日確認のWise表示値()を使用。取引当時の為替や物価・購買力を再現するものではありません。 元通貨の端数処理前の値から計算し、1億円未満を切り捨て。

金額の対象時点・集計範囲

  • パナソニック ホールディングス — 年間売上 / 2026年3月期・通期売上高 / 会社公表(決算表)

主な保有資産・持分の出典

  • 松下電器産業株:Koji Matsumoto, The Rise of the Japanese Corporate System — publisher preview, p2 ↗ — 1989年の死去以前 / 1989年4月27日の死去以前(文献は基準日を特定していない) / 出版社公開プレビューPDF12ページ(誌面p2)の記述を実見。学術文献の記述であり、一次開示の現物ではない。後継会社の企業価値全体を個人資産と同一視しない。

掲載する割合は、会社の株式に対する各開示基準での保有比率です。本人の資産全体に占める割合ではなく、議決権比率とも異なります。家族・信託・報酬株・オプションなどの算入範囲は各出典に記載しています。生前の持分は当時の時点を示し、現在の遺族・財団の財産とは区別します。

関連事業の確認日:2026-10-31。財務数値の確認日:2026-10-31。金額表示は1億通貨単位未満を切り捨てています。円換算には切り捨て前の元数値を使います。個人資産は保有株式などを含む推計値です。会社の売上は本人の収入や現金残高ではありません。円換算は金額感をつかむための参考で、現在・当時の為替や物価の比較ではありません。投資先・親子会社の売上を合算せず、売却済みの企業は現在の本人保有とは区別します。

THE STARTING CONDITIONS

2つのガチャから見る出発点

高いほど、選べる道や支えが多い。人生の価値ではなく、環境の有利さを表す編集評価です。

時代・場所ガチャなぜこの点数? +50 / 100

明治期の和歌山と大阪には学校、商店、電灯会社や電車など、新しい仕事へ移る基盤があった。一方で児童の奉公が一般的で、病気や失職から生活を守る制度、医療へのアクセスは現在より弱い。家族の病死を家庭だけの問題にせず、その時代の医療条件にも照らす。

成人後は地震、恐慌、戦時統制、空襲、占領下の制限を受けた。その後には電化と高度成長、大きな消費市場の追い風もあった。後半の繁栄だけで前半の制約を消さず、人生前半80%・その後20%で評価した。

詳しい評価方法はこちら →
親・環境ガチャなぜこの点数? +40 / 100

生まれた家は地主で、最初から極貧だったわけではない。しかし4歳時の父の相場失敗で資産の足場を失い、小学校を離れ9歳で奉公、父母やきょうだいも若いうちに失った。裕福な出生の短い期間より、その後に教育と庇護が途切れた実害を重く見る。父や義兄の接点によって仕事を得た実益は残す。

妻むめのと義弟の井植歳男は、創業工場の仕事、経理、住み込み社員の生活を継続的に支えた。後年に近しい人からの支えがあったことは正当に加えるが、幼少期の中退や家計崩壊を相殺しきらない。巨額の事業継承と同列には置かず、同時代の世界80%・共通尺度20%で比較した。

詳しい評価方法はこちら →

THE STORY

松下幸之助の物語

選んだ道。その先で、起きたこと。

01売れるはずのソケットが売れない

着物を質へ入れる

上司に見せたソケットは、評価されなかった。それでも松下幸之助は会社を辞めた。電球を取り付ける器具を、自分ならもっと使いやすく作れる。毎月給料を受け取る検査員の仕事を手放し、1917年6月、借家で製造販売を始めた。[1]

幸之助が改良したアタッチメントプラグ。歴史資料を2010年に撮影。
幸之助が改良したアタッチメントプラグ。歴史資料を2010年に撮影。
写真:Ohgi (talk)/出典/Public domain。表示サイズ調整・圧縮。肖像は表示枠で切り抜き。

ところが売れない。作業を手伝った大阪電灯時代の同僚は去り、残ったのは幸之助と妻のむめの、まだ10代の義弟・井植歳男だった。歳男は後に三洋電機を興すが、その時は、目の前の小さな商売を続けられるかさえわからない。[1][2]

むめのは着物を質に入れた。家賃を払えず、大家へ待ってもらいに行くこともあった。夫へ銭湯の風呂代2銭すら渡せない時期があったと、後に振り返っている。大会社になってからも苦境は訪れる。それでも彼女にとって、とりわけ困ったのは、まだ商売の足場さえ定まらなかった頃だった。[2]

幸之助は商品を作り続ける。むめのは部品を組み立て、帳簿を付け、暮らしの支払いをつなぐ。いつか売れるはずの器具を前に、今日使える金が尽きていった。

その年の暮れ、注文が来た。しかし、求められたのは彼が売りたかったソケットではなかった。[3]

02田畑のある家から奉公へ

4歳で家の財産を失う

1894年11月27日、幸之助は紀伊半島西部・和歌山県の田畑が広がる和佐村に生まれた。8人きょうだいの末っ子。父の政楠は村で上位に入る小地主で、家には土地と財産があった。[4]

和歌山から、大阪の商家へ。全体図と、海・湖・主な河川・市街地を示す拡大図
和歌山から、大阪の商家へ。
地理データ:Natural Earth(パブリックドメイン)。 湖の補助データ:© OpenStreetMap contributors(ODbL)。使用データ。現代の行政区分と都市の代表位置を表示。編集部作図。

その暮らしが崩れたのは4歳の頃だった。父が米相場に失敗し、一家は和歌山市内へ移った。新しく始めた下駄の商売もうまくいかず、父は大阪へ働きに出る。幼い幸之助の周りでは、兄や姉も相次いで病気で亡くなった。住む場所が変わり、家族が減り、頼りにしていた家の形が変わっていった。[4][5]

9歳の少年が店へ入る

1904年、9歳の幸之助少年は小学校を辞め、大阪の火鉢店へ奉公に出た。炭を入れて暖を取る道具を売る店で、掃除や子守も仕事になる。だが、その店もほどなく閉じた。次に入ったのは五代自転車商会だった。[1][5]

五代自転車店の店主夫人と少年時代の幸之助(1904〜06年頃)。
五代自転車店の店主夫人と少年時代の幸之助(1904〜06年頃)。
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店で初めてもらった給料は5銭だった。母を恋しがっていた少年にも、自分で働いて受け取る金ができた。五代自転車商会では、朝晩の掃除、商品の手入れ、修理の手伝いが待っていた。買い物をする側だった子どもは、品物を売る店の1日へ入っていく。[6][4]

父を失ったのは11歳の時。母は貯金局で給仕として働く道を勧めたが、父は生前、商売で身を立てるよう求めていた。幸之助は店に残った。財産は受け継げなくても、父の知人や奉公先の主人夫妻との関係は残り、次の働き口をつないでいた。[4]

1割引きを認められず泣く

ある日、近くの問屋から、自転車を見せてほしいと頼まれた。普段の番頭の代わりに、幸之助が持っていく。熱心に説明すると、1割引きなら買うと言われ、承知して店へ戻った。ところが親方は、初めは5%引きから交渉するものだと叱り、もう1度行くよう命じた。[7]

売れたと思った自転車を前に、少年は泣き出した。返事が遅いと様子を見に来た問屋の番頭が、その姿を見つける。事情を聞いた先方が5%引きでよいと譲り、商売はまとまった。値引きの幅を計算するだけでは終わらない、相手と主人の間での最初の交渉だった。[7]

たばこのおまけを商売にする

使い走りの中でも、稼ぐ方法を見つけた。客からたばこを買って来るよう頼まれることが多かった。20箱買えば1箱余分にもらえる。それなら、まとめて買って用意しておけばよい。毎回走らずにすみ、おまけの分は自分の利益にもなった。[8]

月に50〜60箱ほど頼まれ、利益は20〜30銭になった。当時の給料が1円ほどだった少年には、無視できない上乗せだ。だが、周りの者から不満が出るため、主人に止められた。後に幸之助は、皆にも分ければよかったと振り返ったという。独り占めすれば、自分が得をする仕組みでも、その場では続けられなかった。[8]

路面電車の先へ進む

大阪の街を電車が走っていた。馬が引くのでも、人が押すのでもない。電気で、大勢の客を乗せた車体が動く。15歳の幸之助は、慣れた自転車店を出て、その電気の仕事へ進もうとした。[1][4]

1910年、義兄の協力を得て大阪電灯へ入った。だが、店を辞めてすぐに採用されたわけではない。欠員がなく、待つ間は桜セメントで荷物を運んだ。大阪電灯へ入れたのは10月だった。配線工事の見習いとして働き、学び直そうと18歳で夜学にも入ったが、予科を終えた後は続けられなかった。仕事で認められても、学校を取り戻す道まで同時に開けたわけではない。[1][4][9]

大阪電灯の社員たち(1916年)。幸之助は後列中央。
大阪電灯の社員たち(1916年)。幸之助は後列中央。
写真:Ōsaka Electric Light Company/出典/Public domain。表示サイズ調整・圧縮。肖像は表示枠で切り抜き。
大阪電灯へ入社した1910年の幸之助。
大阪電灯へ入社した1910年の幸之助。
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体も強くなかった。19歳の頃には血の混じった痰が出て、医師から肺尖カタルと告げられた。母も亡くなり、若くして多くの肉親を失っていた。収入を得ることも、家族を持つことも、先延ばしにしてよい話ではなかった。[4][10]

昇進しても書類が書けない

22歳で検査員へ昇進するほど工事の現場では認められたが、机に向かうと別の壁があった。幸之助は後の回想で、事務へ抜擢されたのに文字が十分に書けず、職工の仕事へ戻った経験を話している。本人にとっては強い恥ずかしさの残る出来事だった。[9]

独立を振り返る時にも、器具を作りたい思いと、その恥ずかしさのどちらが大きかったかは簡単に言えないと語った。上司に試作品を認められなかった発明家、というだけでは収まらない。病気で休めば収入が揺らぎ、昇進した仕事にも物足りなさがあった。会社を出る理由は、1つずつ重なっていた。[9]

03顔を見ないまま結婚を決める

芝居小屋の前で見合いをする

1915年、20歳の幸之助は19歳の井植むめのと見合いをした。場所は大阪の芝居小屋の前。周囲の人が気になり、相手の顔さえ十分に見られなかった。姉の勧めで出会った2人は、その年に結婚する。[10][2]

むめのには、もっと条件のよい縁談もあった。それでも、守らなければならない田畑や家屋敷のない相手なら、かえって気楽に挑戦できると考えた。まだ何者でもない若い工事員と、これから暮らしを作る方を選んだ。[2]

結婚から2年ほどで、幸之助は会社を辞める。昇進を重ねた勤め先へ残れば得られる給料を、売れるかわからない器具へ換えた。家計と商売の財布が近い独立だった。試作品が売れない日々は、そのまま夫婦の暮らしを削っていった。[1][2]

扇風機の底で息をつく

1917年12月、扇風機の絶縁部品を作れないかという話が持ち込まれた。碍盤という部品で、従来の陶器製は壊れやすかった。メーカーは、練り物で加工できる相手を探していた。幸之助がソケットのために身に付けた技術に、別の買い手が現れたのだ。[3]

試作が認められ、年内に1000枚を納めることになった。10日間で作り切り、手にした利益は80円。年が明けると、さらに2000枚の注文が来た。売れない器具を抱えた商売に、ようやく次の材料を買い、仕事を続ける金が入った。[3]

04借家の1階が工場になる

夫婦と義弟の3人で始める

1918年3月7日、23歳の幸之助は大阪市西部・住宅と工場が混在する大開町に松下電気器具製作所を設けた。2階建ての借家の1階へ小さなプレス機を2台置く。むめのと15歳の歳男を合わせ、働くのは3人だった。[11]

創業期の一同(1918〜19年頃)。後列左から幸之助、井植歳男、むめの。
創業期の一同(1918〜19年頃)。後列左から幸之助、井植歳男、むめの。
写真:Matsushita Electric Housewares Manufacturing Works/出典/Public domain。表示サイズ調整・圧縮。肖像は表示枠で切り抜き。

碍盤の受注を続けながら、アタッチメントプラグや2灯用の器具を売り出した。品質を保ち、値段を抑えた品が売れ、年末には従業員が20人になる。家族だけの作業では追いつかないほど注文が増えた。[11]

翌年、販売を任せた総代理店の側で値下げ競争が起き、売上が落ちた。よい品を作って渡した後も、誰がいくらで売るかによって工場の明日が変わる。幸之助は総代理店だけに任せる方法をやめ、問屋と直接取引する方へ切り替えた。[11]

秘密の調合法を渡す

忙しくなると、今度は人が足りなくなった。よその工場も働き手を求めている。幸之助は工場の前で従業員を迎え、来てくれる人を大事にした。一方、仕事を増やすには、自分だけができる作業を減らさなければならない。[12]

材料の調合法は、商売の秘密だった。それを任せられる社員へ教えた。覚えた人が辞めれば、技術まで外へ出る。それでも社長だけが作れるままでは、生産は社長の手が動く範囲で止まってしまう。幸之助は技術を渡し、工場を人に動かしてもらう方へ進んだ。[12]

朝5時から銭湯まで一緒に暮らす

住み込みの従業員は、仕事を終えても松下家の規律の中にいた。朝5時に起き、朝会と掃除をする。夜、銭湯へ往復する時間は、自由に外へ出られる貴重な時間だった。無断外出は禁止。寝る前には松下夫妻へ挨拶をした。[13]

月2回の休みにはすき焼きが出た。むめのは食事を用意し、身の回りの世話をし、礼儀も教える。社員を家族として迎える工場は、妻の手による膨大な暮らしの仕事でも支えられていた。[13][10]

1920年には全従業員28人で歩一会を作り、遠足や運動会を共にした。同じ仕事場へ集まる人を、同じ会社の仲間にしていく。その一方、仕事と私生活の境目は薄く、店の決まりは若者の1日全体に及んでいた。[12][2]

05明かりを信じてもらえない

30時間つくランプを信じてもらえない

1923年、幸之助は自転車用の電池ランプを開発した。従来品は2〜3時間しかもたず、故障も多い。ろうそくや石油に代わる明かりを求め、半年ほど試作を重ねた結果、砲弾型のランプは30〜40時間つくようになった。[14]

性能を伝えても、問屋は扱おうとしなかった。相手が覚えているのは、以前の電池式ランプで困った経験である。新製品の説明より、売れ残った品や苦情の記憶の方が強かった。[14]

幸之助は小売店へ持っていき、無償で置いて点灯させた。先に買ってもらうのではなく、光り続ける実物を見てもらう。配るほどこちらの金は出ていくが、相手は仕入れ代を失う危険を冒さず確かめられる。注文が入り始めた。[14]

同年の関東大震災で東京方面の販売網が被災すると、翌年に出張所を再開した。長もちする明かりを作れても、それを届ける道は一夜で途切れる。工場を動かすことに加え、遠くの店へ届く関係も作り直さなければならなかった。[14]

1万円で販売権を取り戻す

砲弾型ランプを売る山本商店とは、商売の進め方が合わなくなった。山本武信は契約中に流行品として売り切ろうとし、幸之助は長く使う実用品へ育てようとした。新しく作った角型ランプを自分で売るにも、契約が壁になる。[15]

1926年10月、幸之助は1万円を払い、販売権を買い戻した。かつて80円の利益で仕事をつないだ男が、今度は売る自由を得るために金を出した。[3][15]

翌年、角型ランプをNationalの名で発売した。国民のものへ育てたいという名前だった。販売店へ無償で配った見本は1万個。今度の売り方も、まず明かりを目の前で確かめてもらうところから始まった。[15]

明かりが売れれば、中へ入れる電池も要る。1931年には小森電池工場を取得し、供給と品質を自前で整える。ランプを売る仕事は、ランプの中身を作る仕事へも広がっていった。[16]

新聞の上で文字を並べる

Nationalの名を知らせるため、幸之助は新聞広告にも金を使った。見本1万個を渡しても、まだ知らない客がいる。広告代を払う以上、狭い紙面で何を伝えるかを自分で詰めた。[17]

寝床へ入ってからも文案を考え、書いた物を新聞に重ねて見た。目に入る文字の大きさや、その間隔まで確かめる。約3日かけて練った広告は、1927年4月9日の大阪朝日新聞に載った。工場では長くつく明かりを作り、新聞では、その明かりを知らない人へ立ち止まってもらう。売り物の名前が、初めて広い紙面へ出た。[17]

預金する前に2万円を約束させる

同じ1927年、住友銀行の新しい西野田支店から、取引を始めてほしいと誘いが来た。幸之助が出した条件は、必要になったら2万円まで無条件で貸すと、先に約束することだった。口座を開いた後で相談する、という順番を逆にした。[18]

銀行側は、まず取引を始めてほしいと答えた。だが幸之助は応じない。信用してほしいと口で言われても、いざ金が必要な時に借りられなければ、今ある関係へ新しい銀行を加える理由がない。急いで口座を開くより、会社を十分に調べ、いくら信用できるかを示してほしいと求めた。[18]

やがて支店長とも話し、調査を経て2万円の貸付けの約束を取り付けた。売る権利には1万円を払った。その一方、銀行からは、まだ借りていない金を必要な時に使える約束を得る。手元にある現金だけでなく、次に困った時に動かせる金まで、商売の外側で整えていた。[18][15]

06先に1万台を作ると決める

3円20銭のアイロン

1927年、幸之助は電気アイロンへも進んだ。一般的な品が4〜5円だった時代に、売値は3円20銭。技術者の中尾哲二郎へ求めたのは、品質を落とすことなく、3割以上安くすることだった。[19]

そこで月1万台の生産を計画した。当時の国内市場に対しても大きな数である。少しずつ作って高く売れば、買える家は増えない。大量に作って1台の費用を下げ、その価格なら欲しいという家庭まで呼び込もうとした。品物が売れる前に、生産の規模を決める賭けだった。[19]

スーパーアイロンは好評を得た。会社には、たくさん作ることで安く売り、買う人を増やした経験が残った。ところが2年後、同じ生産力が、今度は売れない在庫を積み上げる。[19][20]

07病床で解雇を止める

生産は半分で給料は全額

1929年、世界恐慌が広がった。新しい工場を建てたばかりの松下でも、11月と12月の売上が半減するほど落ち込んだ。製品はできる。買い手がいない。倉庫に売れない品がたまっていった。[20]

幸之助は病床にいた。井植歳男と武久逸郎が相談へ来る。生産を半分にし、人員も減らす。工場長の後藤清一も、解雇する人の名簿をひそかに考えていた。[20]

幸之助が出した方針は、生産を半分にし、工場を半日勤務にする一方、給与は全額支払うというものだった。その代わり、販売を担う店員は休日も使って在庫を売りに出る。工場に人を集めて同じ品を作り続けるより、できている品を金に戻す仕事へ力を振り向けた。[21]

約2か月で余剰在庫がなくなり、生産を戻せた。会社は雇用を守り、社員は売れない商品を抱えて外へ出た。病床の決断が形になったのは、その仕事を現場で引き受ける人がいたからだった。[21]

08安さだけでは売れないラジオ

45円の受信機へ進む

ラジオへ入ると、今度は品質が壁になった。1930年、他社と組んで国道電機を設けたが、故障と返品が続く。売場の人が調整しなければ使えない品では、扱える店も限られてしまう。[22]

1931年に直営へ改め、中尾哲二郎へ開発を託した。数か月でできた3球式ラジオは、放送局のコンクールで1等を取る。価格は45円。25〜30円の受信機もある市場で、今度は最安値を選ばなかった。故障しにくく、買った後も使えることへ値段を付けた。[22][21]

2万5000円で買って翌日には開く

1932年、本格的に売り出そうとしたラジオの前へ、特許の問題が立ちはだかった。高周波回路に関わる権利を他の人が持ち、松下だけでなく、各社の設計を制約していた。よい製品ができても、自由に作り、売ることができない。[21][23]

幸之助は権利者のもとへ行き、売ってほしいと交渉した。まとまった額は2万5000円。銀行との取引で求めた貸付けの上限より大きな金を、今度は権利そのものへ出した。[23][18]

買った翌日には、無償で公開すると新聞で発表する。金を払った会社だけで囲い込まず、同業者も使えるようにした。自社の受信機が売れる範囲だけでなく、家庭へラジオが広がる市場そのものを育てる方を選んだ。秘密の調合法を社員へ渡していた小さな工場は、競争相手へも技術を開く会社になった。[21][23]

0937歳で250年先を語る

水道の水ほど豊富に作る

1932年、知人に誘われて天理教の本部を見学した。そこで働く人々の熱心さに触れ、幸之助は自分の商売の目的を考え直した。人を安心させるのが宗教の仕事なら、生活に必要な物を届ける仕事にも、大きな役割があるのではないか。[24]

5月5日、社員を集めて考えを伝えた。産業人の使命は貧乏を克服すること。水道の水のように、必要な物を豊富に安く手に入るようにする。後に水道哲学と呼ばれる考えだった。アイロンを値下げし、買える家庭を増やした商売を、会社が続ける目的として示した。[25][19]

期限は250年。25年を1つの区切りとして10回重ねる。37歳の本人が最後まで立ち会えるはずもない計画を、社員へ渡した。[25]

社長が見きれない会社を作る

翌1933年、会社は大阪市の北東に位置する門真へ本店と工場を移した。社員は1200人を超え、製品は200種類以上。それまでの工場を増築するだけでは、注文へ追い付けなくなっていた。[26]

選んだのは、れんこん畑が広がる地域の、区画整理を終えた土地だった。敷地は7万平方メートルを超える。恐慌の記憶が残る中で、無理な拡大ではないかという声も出た。さらに、大阪から見ると北東の鬼門に当たるという忠告まで受けた。[26][27]

幸之助も方角を気にした。だが、その理由で土地を諦めれば、将来の工場を広げる場所を失う。南西から北東へ延びる日本で、北東を避け続けられるのか。そう考えて移転を決めた。門真へ入る際、社員には会社の膨張が崩壊につながる場合もあると警告した。広い土地を手に入れた日を、安心できる到達点にはしなかった。[26][27]

3人の借家工場のように、社長が全部を見ることはできない。ラジオ、電池とランプ、配線器具や電熱器などへ事業を分け、開発、製造、販売、収支をそれぞれで引き受ける形にした。事業部ごとに、経営を考える人を置いたのだ。[26]

1934年には店員養成所を開き、後に工員の養成も加えた。少年時代に学校を離れた幸之助が、働きながら学ぶ場を、自分の会社の中へ作った。[28]

3日間の旅行へ叱責が来る

会社を人へ任せるといっても、任された側が好きなように休めるわけではなかった。1939〜1940年ごろ、九州の若い営業所長は、月の目標を早く達成したら、余った日を遊びに使おうと所員へ呼び掛けた。全員で昼夜を問わず働き、月末に3日を空けて旅行へ出た。[29]

戻ると、本社へ来るよう求める電報が届いていた。得意先だけへ知らせるつもりの休業の連絡が、本社にも伝わっていたのだ。仕事の数字は達成した。約束どおり休む。それで終わるはずの計画が、社長の前で崩れる。[29]

幸之助は、余った3日を、さらに得意先のためにどう使うかを考えるべきだと叱った。説教は数時間に及んだ。給料を守る社長でも、仕事へ求めるものは厳しい。後に週休2日制を進める人の会社に、この時代は、目標の達成だけでは休みを認めない要求もあった。[29][30]

10暮らしの工場が兵器を作る

木の船と木の飛行機

1937年に日中戦争が始まり、翌年には国家総動員法ができた。原料を自由に買い、家庭用品を思うように作る条件が狭まる。松下も軍用部品を受注し、1943年には松下造船と松下飛行機を設立した。[31]

電気器具の工場が、木造船や木製飛行機の製造へ進んだ。終戦までに完成したのは船56隻と飛行機3機。物を豊富に届けるために増やした人と設備が、戦争を支える生産にも使われた。[31][32]

敗戦の翌日に仕事の向きを変える

1945年、工場や出張所など32か所が被災し、海外拠点も失った。本社と主力工場は残る。幸之助は終戦の翌日、民需へ戻る方針を示した。家の電気器具を作る仕事へ、人と設備を向け直す。[33]

造船会社では、手元にある木材から大八車や簡易住宅を作った。昨日まで船へ使っていた物を、今日必要とされる物へ変える。しかし軍需代金の補償は打ち切られ、広げた子会社の整理も残った。工場の向きを変えても、戦争で生じた支払いまで消えるわけではなかった。[33]

11従業員が社長を残そうとする

財産が動かせない

1946年3月、占領当局の指定で会社資産が凍結された。財閥家族、賠償工場などの指定も重なり、松下は会社を解体されかねない立場へ追い込まれる。幸之助は、自分の代で築いた会社は財閥ではないと抗議を続けた。[34]

さらに、旧軍需会社の役員として公職追放の対象になった。これは本人も退任を覚悟した。工場が残り、作る品を考えられても、自分が経営へ戻れなくなる。[34]

そこで動いたのは、結成されたばかりの労働組合や販売の関係者だった。この時期に再建を進める社長を失えば、会社まで崩れる。追放解除を求める署名と嘆願が集まり、1947年に指定は解除された。会社を握る社長が、会社で働く人々に、残してほしいと求められた。[34][35]

給料を分けてしか払えない

本人の追放が解けても、会社の制限は残った。諸制限がほぼ解除されるのは1950年後半。その前に金融引き締めが来て、借金と手形を抱える会社は資金難に陥った。給与さえ分割で払わざるを得なくなる。[34]

1949年末には物品税の滞納で幸之助の名前が報じられた。1950年、従業員4438人のうち567人を待命休職へ回した。恐慌の時には解雇を止められた。しかし、今度は仕事も給料も同じように守り切る余裕がなかった。[34]

辞めた社員を解雇へ変える

人員を減らす対策が進んでいた1949年、戦前から勤めたデザイナーの1人が、画家として独立するため依願退職した。幸之助は、東京で生活が立つまで、支店へ嘱託として通えるようにした。だが、その後の面会では、さらに退職の扱いまで変えた。[36]

本人の意思で辞めたと聞くと、人事部長を呼び、社内の手続きを解雇へ直すよう求めた。当時はその方が退職金が多くなる。画家を目指す社員は、既にもらった金との差額を受け取れた。[36]

経営の立て直しで職場を縮める時にも、社長の前にいるのは、次の生活を始めなければならない人だった。全員の仕事を守れない会社で、個別に処遇を変えられる人には手を伸ばす。その元社員は後に、思いがけない餞別としてこの出来事を回想した。[36]

苦境の中で研究所を始める

会社の再建を続けながら、1946年11月にはPHP研究所を設けていた。Prosperity、Peace、Happiness。繁栄と平和と幸福を考える名前だった。食糧も物資も足りず、暮らしが荒れた社会で、家電を増やす以外にも自分の仕事を持とうとした。[37]

工場では支払いと仕事をつなぎ、研究所では社会のあり方を考える。幸之助は、同じ時期にその両方へ手を伸ばしていた。[37][34]

1950年、朝鮮戦争に伴う需要と世界経済の回復が、日本の産業を押し上げた。松下も苦境を抜け、翌1951年、幸之助は欧米へ旅立った。3か月の米国視察に続き、その年のうちに再び米国から欧州へ回り、具体的な提携相手を探した。[38]

12経営にも値段を付ける

本体より大きな合弁会社

相手に選んだのは、オランダのPhilipsだった。電球から世界へ事業を広げた会社で、日本側が学びたい電子技術を持っている。問題は、その技術を得る値段だった。[39]

松下本体の資本金は5億円。設けようとする合弁会社は6億6000万円。新しく作る会社の方が、本体の資本金を上回る。さらにPhilipsは、当初、売上の7%を技術指導料として求めた。製品が売れるたび、相手へ支払う条件である。[39]

幸之助は、技術を無料でくれとは言わなかった。その代わり、日本で会社を運営し、商品を売る自分たちの力にも値段を付けるよう求めた。教わる技術だけが価値を持つなら、売る方の仕事が計算から抜けてしまう。[39]

交渉を詰めたのは専務の高橋荒太郎だった。技術援助料4.5%、松下側が受け取る経営指導料3%へまとめ、1952年、松下電子工業が発足した。幸之助の主張を、高橋が契約の数字へ変えた。[40]

その1952年には、自転車の製造にも乗り出した。少年時代に商品を運んだ業界へ、今度は作る側として戻る。初期の「輪栄号」には、Nationalのロゴが101か所も入っていた。電子技術を学ぶ大きな投資と並んで、かつて自分を育てた自転車への事業も始まっていた。[7]

他社の看板を残して買う

1954年には、経営が苦しくなっていた日本ビクターへ資本参加した。蓄音機へ耳を傾ける犬のマークで知られる音響機器の会社である。松下は看板を消さず、独立性を保つ別会社として再建を進めた。[41][42]

資本を出す側でも、教えるばかりではなかった。松下のステレオ事業が苦戦すれば、担当者をビクターへ送って学ばせた。グループに入った会社には、自分たちとは違う強みが残っていた。[43]

後にビクターが開発する家庭用ビデオのVHS方式は、松下の量産と販売の力も使って世界へ広がる。別の会社の人と技術を、そのまま生かす選択が、新しい製品を持つ道にもなった。[41]

1329万円のテレビを売る

工場の外に買える家庭を増やす

松下の初期のテレビは1952年に29万円。翌年の冷蔵庫は12万9000円、1951年の洗濯機は4万6000円だった。家事を変える道具ができても、簡単に財布から出せる金額ではない。[44]

洗濯機は生産を増やして価格を下げ、1955年には月産5000台を超えた。工場で作り終わった後も、店が届け、設置し、故障に応じる。買える価格と、買った後も使える仕組みをそろえて、家庭の中へ入っていった。[44]

1956年、幸之助は年商220億円を800億円へ、従業員1万1000人を1万8000人へ増やす5か年計画を示した。白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫を求める家庭が急増し、計画は4年目にほぼ達成する。かつて半日だけ動かした工場は、今度は増える需要へ追いつくために広がった。[44]

洗濯機の会議で差し出す手

家庭電化が広がる中でも、松下がどの分野でも先頭を走ったわけではない。洗濯機では他社に後れを取り、製造と販売の責任者を集めた会議で、営業側から製品をよくしてほしいという要求が噴き出した。売り方の努力では、もう埋められない差があるという。[45]

幸之助は販売側にも責任を求めながら、製品にそれほど差があれば売れないと認めた。そして製造側を激しく責めた。責任者は3か月待ってほしい、その間に期待へ応える物を作ると答えた。[45]

そこで終わらなかった。幸之助は、できなければ首をもらう、しかも血の出る首だと迫り、手まで差し出した。人を育てるという穏やかな言葉からは見えにくい、相手を追い込む強さだった。会社が掲げる豊かな暮らしは、開発を担う人へ、これほどの圧力を伴うこともあった。[45]

ラジオの音を聞くまでの30分

戦後のラジオにも不満が来た。東京の代理店から音質を指摘されると、幸之助は大阪へ電話し、翌朝10時に他社製品とも聞き比べられるようにしておくよう命じた。帰る時刻まで決めて、確かめる物をそろえさせた。[46]

翌朝、約束の時間に着いても、準備はできていなかった。待ったのは30分。担当者へ、自分は1時間で何十万円も稼がなければならない立場だから、その半分を出してもらうという趣旨の言葉を投げた。待たせた時間を、金額として相手へ突き付けたのだった。[46]

別の折、技術者が持って来たのは、厚さ1cmにも満たない薄型ラジオだった。幸之助も初めは喜んだ。ところがスイッチを入れると、音がよくない。薄いスピーカーを使うから仕方ないという説明に、態度が変わった。[47]

薄くしたのはメーカー側の事情で、客が買う目的は音を楽しむことだと退ける。小ささに目を奪われた製品を、使う時の役割へ引き戻した。手に取るまでは評価していた品でも、音を聞けば判断を変える。技術者が達成した寸法と、幸之助が求める完成品は、同じではなかった。[47]

日本の名前がそのまま使えない

1955年、輸出用スピーカーへPanasonicの名を付けた。音を世界へ広げる意味を込めた商標だった。国内で浸透したNationalも、外国では同じ文字を含む商標があり、そのまま全ての市場へ持ち込めるわけではない。売る場所に合わせ、名札も増やした。[48][49]

National・Panasonicの看板を掲げる西門真事業場(2005年撮影)。
National・Panasonicの看板を掲げる西門真事業場(2005年撮影)。
写真:MASA/出典/CC BY-SA 3.0。表示サイズ調整・圧縮。肖像は表示枠で切り抜き。

1959年には、米国東部の商業都市ニューヨークに販売会社を設けた。輸出額は1954年の5億円から1958年に32億円、1961年には130億円を超える。現地の担当者は売るだけでなく、そこの客が必要とする品を日本へ求める役割も持った。[50]

1961年、タイで乾電池の現地生産へ進み、翌年には台湾にも会社を設けた。外国で働く人を採り、その土地で作る会社へ変わっていく。その1961年、幸之助は社長を退き、娘婿の松下正治へ席を渡した。自分は会長として、会社を見守る側へ回った。[51][52]

14雷門へ個人の金を出す

95年ぶりに門を建て直す

東京・浅草の雷門に、松下の名が残っている。1960年、幸之助個人の寄進で、焼失から95年を経た門が再建された。会社の売場とは違う場所で、その金が街の風景になった。[53]

浅草寺は、本人の関節痛が快復したことへの感謝を込めた寄進だったと説明している。技術料の比率を詰め、工場へ投資する男は、寺や信仰にも自分の金を使った。現在の観光客が門をくぐる場所にも、電器会社の創業者の仕事が残った。[53]

15販売店から3日間責められる

倉庫の被害が多すぎた

1964年、販売の先で異変が起きていた。需要は鈍り、金融引き締めも重なり、各地の販売会社や代理店で赤字が増える。メーカーから出荷できても、店から家庭へ売れていなければ、品物は途中の倉庫に残る。[54]

新潟地震の被害報告には、営業所の規模に比べて壊れた商品が多い場所があった。幸之助が在庫を調べると、適正量を大きく超える営業所が見つかった。数字の上で売上になった品が、流通の途中へ押し出されていた。[55]

7月、静岡県東部の温泉地・熱海へ、全国170社の販売会社と代理店の社長を集めた。松下の看板で商売してきた人々が、経営の苦しさや製品、売り方への不満を訴える。松下側は相手の努力不足を問う。長く付き合ってきた人々が、同じ部屋で責任を押し返し合った。[56][54]

メーカーの方から変える

会談は3日目へ入った。幸之助は、自分たちも好況に慣れ、安易になっていたと認めた。販売会社を責める前に、松下自身が直すべき点を直す。目先の売上を落としてでも、危機を抜ける方を選ぶと伝えた。[54]

幸之助の目には涙が浮かんだ。会場で責任を押し返し合っていた人々が、協力を誓う。しかし、会合が終わっても、在庫は消えない。会長は病気療養中の営業本部長の職務を代行し、自ら販売改革へ入った。[54][30]

1965年から、事業部が営業所を経由せず販売会社へ売る新制度などを実施した。商品が中間で止まり、責任が重なる流れを変える。地域の販売網にも手を入れ、正治らと反対する人の説得へ回った。熱海で認めた責任を、日々の取引へ落とし込む仕事が続いた。[30]

20日間引き取り手を待つ

販売改革は、大きな組織図だけの仕事ではなかった。熱海会談の後、幸之助は、本社が各地から集める報告書と、定期的に送る通達を、まとめて机へ持って来させた。大量の紙が積まれたが、本人は読もうとしない。[57]

3日目に経理課長が、返してもらわなければ仕事ができないと取りに来た。幸之助は返した。その後も何人かが引き取りに来る。だが、20日たっても残っている書類があった。作る人も送る人もいるのに、それだけの期間、なくても仕事が続いていた。[57]

残った物は、その日で廃止した。必要かどうかの説明を各部署から聞く前に、いったん手元から外して、実際に困る人が出るかを待ったのだ。倉庫に積まれた商品を減らす仕事と並んで、机の上に積もる仕事も取り除いていた。[57]

不況でも週に2日休む

同じ1965年、完全週5日制を始めた。不況だからと計画を引っ込めず、休養と教養へ使える時間を増やそうとした。会社は、その分だけ高い生産性を求めた。[30]

工場を半日へ減らした1929年には、売れない製品をこれ以上作らないことが急務だった。今度は、仕事以外の時間を持ちながら、限られた時間で作れる会社へ変える。販売の仕組みと、働く1週間の仕組みを、同じ年に動かした。[21][30]

16コンピューターへの夢を止める

作れることと儲かること

1964年、幸之助は大型コンピューター事業から手を引いた。官庁や企業が情報処理に使う装置で、Philipsとの関係も生かし、研究開発を進めていた仕事だった。家電の先に電子化が広がるほど、そこへ入りたい理由は増えていた。[58]

判断を動かしたきっかけの1つは、米国のChase Manhattan Bank幹部との会話だった。米国でもIBM以外は厳しい。その市場へ日本のメーカーが何社も入って、採算を取れるのか。幸之助は競争と費用を考え直し、計画を止めた。[59]

作ってきた技術者の仕事も、予定した未来も、そこで方向を変えなければならない。批判を受けても撤退は覆さなかった。後年、本人は、経営資源を他へ回せた判断として振り返っている。同じ年、販売店には商売の仕組みを変えると約束し、コンピューターでは商売そのものを続けないと決めた。[59][54]

17安く売る男と30年間争う

ダイエーへの出荷を止める

商品を安く届けたい。その点では、幸之助も、大型スーパーDaieiを率いる中内功も同じだった。ところが、誰が値段を決めるかとなると、2人は激しくぶつかった。[60]

1964年、Daieiが松下製品を2割引きで売ると、松下は出荷を止めた。メーカーは、安売りが広がれば従来の小売店の経営が成り立たなくなると考える。中内は、メーカーの都合で客が高く買う仕組みを変えようとした。店を守る判断が、別の店の値下げを止める判断になった。[60]

全国の販売店と共に栄えるという考えには、そこから外れて安く売る相手と、どこまで共に栄えるのかという難問が残った。両社の正式な和解は1994年。対立を始めた幸之助は、その5年前に亡くなっていた。[60]

壇上から妻へ頭を下げる

1968年、創業50周年の式典に、幸之助はむめのと出席した。社員へ話す中で、家と工場が同じだった約16年間を振り返った。彼女は器具を組み立てるだけでなく、住み込みの人を世話し、一緒に商売をしてきた。[61]

そこでは、妻がただ黙って夫の決定を受け入れていた、という話はしなかった。働けば意見も生まれ、夫婦で言い合いもした。そのやり取りの中で店が大きくなったと語る。幸之助は、長く支えてくれた妻へ礼を言い、壇上から頭を下げた。[61]

家賃を待ってもらうため大家へ行った人が、今は会社の記念式典に座っている。工場と別に残る家の仕事にも、創業者自身が公の場で言葉を向けた。[61][2]

消費者にも値段を疑われる

1970年には、カラーテレビなどの表示価格と実売価格の開きが消費者運動の対象になった。何割も値引きするなら、最初の値札は何なのか。買い控えは松下製品のボイコットへも広がった。[62]

会社は価格体系を見直し、翌年の新製品で家電の価格を大幅に下げた。公正取引委員会で続いていた再販売価格の問題も、1971年に同意審決で区切られた。安く豊富に作ることを掲げた企業が、今度は、その値段を誰のために守るのかと問われた。[62]

185000年先へ道具を埋める

大阪城の地下に2098点を残す

1970年の大阪万博で、松下は毎日新聞社と共にタイム・カプセル事業へ取り組んだ。選んだ品と記録は2098点。大阪城公園の地下へ収め、5000年後の人々へ残した。[62]

日々の仕事では、1か月に何台作るか、今年いくら売るかを追ってきた。今度は、当時の人々が何を使い、どう暮らしたかを、自分の会社も国の姿もわからない先へ届ける。250年計画を語った男の事業に、さらに長い時間が加わった。[25][62]

1973年、78歳で会長を退き、相談役へ移った。次の会長は高橋荒太郎。Philipsとの交渉や経理を担ってきた人だった。創業55周年と退任の節目には、会社が都道府県へ総額50億円の社会福祉対策資金を贈ると発表した。その後に石油ショックが来て、会社は再び利益と売上の減少に向き合う。社長が育てた企業も、景気の外には出られなかった。[63]

25番目の取締役を社長へ選ぶ

1977年2月、高橋荒太郎が会長を退き、正治が会長、山下俊彦が社長になる。相談役となっていた幸之助の会社は、取締役の序列で25番目だった人へ、経営の先頭を任せた。年齢も順番も、従来のまま次へ進める人事ではなかった。[64][65]

山下は、人事や施策で幸之助と意見が合わないこともあったと、後に書いている。創業者が残る会社で、新しい社長が自分の判断を通す。周囲では2人の葛藤も取り沙汰された。[65]

ある日、幸之助は社長室へ「大忍」と書いた額を持って来た。同じ物を自分の部屋にも掛けると伝えた。山下だけへ辛抱を求めず、創業者も同じ文字を見ているという形だった。方針が合わない時もある相手へ、今度は仕事を任せ続けるための物を渡した。[65]

19税金のいらない国を考える

国の財布へ経営を持ち込む

会長を退いても、幸之助の構想は小さくならなかった。1976年、『新国土創成論』を刊行し、100年、200年がかりで日本の使える土地を増やす案を示した。専門的に詰めなければならない問題は認めつつ、まず国の形を変えるほどの提案を出した。[66]

1978年には、国費の一部を蓄え、運用益で将来の支出を賄う無税国家論を掲げた。毎年入った金を全て使うのではなく、残して育てれば、いつか税を取らなくてもよくなるのではないか。会社で余裕を持つことを求めた考えが、国の財布へ向かった。[67]

計算すると足りなかった

発案した時の録音が残っている。幸之助は、明治の初めから国費の1割を貯めていたなら、すでに大きな資金になったはずだと話した。研究員へ新しいテーマを示し、無税国家への道を調べようとした。[67]

その後、実際に計算すると、大幅に足りなかった。過去にそうしていれば達成できたという説明は取り下げ、未来の構想として提案することになった。大企業を育てた人の見立ても、計算にかければ直す必要があった。研究所には、その案を調べ、本人の発想を修正する仕事もあった。[67]

2084歳で中国へ渡る

今度は技術を求められる

1978年、来日した中国の鄧小平が松下のテレビ工場を訪れ、近代化へ協力してほしいと求めた。かつて欧米で技術を持つ相手を探した幸之助が、今度は技術を頼まれる側にいた。[68]

翌1979年、84歳で中国へ渡った。白黒テレビ用ブラウン管を生産する設備の輸出や、現地企業との技術協力が進む。完成品を届けるだけでなく、そこで作るための機械と技術を渡す仕事だった。翌年にも訪中し、関係を続けた。[69]

当初考えた、日本の複数の電機メーカーも入る合弁構想は実現しなかった。松下は別の道で交渉を進め、1987年、北京に日中折半出資のカラーブラウン管製造会社を設けた。本人が返事をしたところから、実際の会社ができるまで、次の経営者たちも仕事を引き継いだ。[70][68]

21最後の大きな投資は若者だった

私財70億円を学校へ出す

1979年、幸之助は私財70億円を投じ、神奈川県南部・相模湾に面した茅ヶ崎に松下政経塾を設立した。翌1980年に最初の塾生を迎えた本人は85歳。作るのは、電器会社の幹部だけを育てる学校ではなかった。[71][72]

自分が40年若ければ先頭に立ちたい。しかし、その時間は残っていない。だから若い人へ託す。開塾の講話で、本人はそう説明した。政治や社会を担う人々が、自分で課題を探し、現場へ出て、判断する場を設けようとした。[72]

9歳で学校を辞めた少年は、晩年に自分の金で学ぶ場所を作った。自分が知る答えだけを覚えさせても、本人の生きていない時代の問題には間に合わない。塾生には、そこへ自分で向き合う仕事を渡した。[72]

女性記者のひと言で募集を変える

設立準備中、女性記者から、女性は入れないのかと尋ねられた。当初は男性だけを募集する方針だった。社会の指導者を育てる構想の中で、女性をどう迎えるかは抜けていた。[73]

記者が女性の政治家も大切になると話すと、幸之助は女性の為政者や、妻がしっかりしている中小企業の例を挙げ、その場で女性も対象へ加える方へ変えた。第1期の試験に女性合格者は出なかったが、応募は30人あり、翌年に女性塾生2人が生まれた。[73]

夫婦の工場を、むめのの仕事に支えられて育てた男も、最初の募集ではそこへ考えが及んでいなかった。問われれば、規則を変えた。自分の寿命を超える仕事の器も、作りながら直していた。[2][73]

2290歳で世界の研究者を迎える

松下賞にはしない

1981年、当時の総理府総務長官、中山太郎が幸之助へ相談を持ち掛けた。世界の科学技術へ貢献する人をたたえる、日本発の大きな賞を作りたい。その基金を出せないかという話だった。幸之助が応じ、翌年に準備財団ができた。自分は会長に就いたが、賞へ自分の姓は付けなかった。[74][75]

資金は、個人と会社の両方から出した。会社は1983年、創業65周年の節目に自社株1000万株を拠出する。前日の終値で153億円に相当した。個人の名をたたえる1回の行事へ使うのではなく、基金を持ち、毎年の賞を続ける足場にする。[74]

最初の2人へ賞を手渡す

1985年4月20日、東京の国立劇場で最初の授賞式を開いた。90歳の幸之助も登壇した。受賞したのは、情報通信の研究で成果を残した米国のジョン・R・ピアースと、バイオテクノロジーのエフライム・カチャルスキー・カツィールだった。当時の賞金は各5000万円。電器会社で使う技術だけでなく、世界で生まれた仕事へ、その資金が渡った。[74][76]

翌1986年にも、本人から20億円の追加寄付があったことを財団は公表した。幸之助自身が順次出した寄付の総計は50億円。会社が拠出した株式の当時評価額153億円と合わせ、支援は総額203億円になった。1回の式典へ金を出して終えるのでなく、賞を続ける基金を厚くしていた。[76][74]

幼い頃、手にした5銭がうれしかった男は、晩年には会社と私財を合わせ、世界の人へ贈る賞を支えた。学校の長い課程を修めることはできなかったが、別の誰かの研究が認められ、次の仕事を続ける場所へ、金を使う側になっていた。[6][75]

232銭の家計から世界へ

工場の困り事が言葉になる

幸之助の言葉は、本や雑誌、講話を通して広がった。人に任せること、好況のうちに余裕を持つこと、会社を社会との関係で考えること。借家の仕事場や在庫の積もる倉庫で苦しんだ経験が、別の経営者にも使える言葉になった。[77]

Kyoceraを育てた稲盛和夫も、資金や設備、人に余裕を持つダム経営の話から影響を受けた。若い経営者にとって、日々の資金繰りが厳しい中で余裕を持つという話は、簡単に実行できるものではなかった。それでも、その考えは次の会社へ渡っていった。[78][79]

むめのがつないだ暮らしの先

1989年4月27日、幸之助は94歳で亡くなった。学校を離れて商家へ入り、電車を見て電気の仕事へ移り、安定した給料を捨てた男は、家庭の道具を世界で作り、世界で売る会社を残した。[80]

パナソニックミュージアム(2022年撮影)。
パナソニックミュージアム(2022年撮影)。
写真:Mio0222mio/出典/CC BY-SA 4.0。表示サイズ調整・圧縮。肖像は表示枠で切り抜き。

売れなかったソケットの後には、扇風機の部品が来た。秘密の調合法は社員へ渡し、売る権利は金を払って取り戻した。会社を残してほしいと従業員から求められた後も、給料を分割し、休職を出す危機があった。販売店には謝り、別の小売業者とは最後まで折り合えなかった。[3][12][15][34][54][60]

どれも、立派な短い言葉だけでは済まなかった仕事である。何を続け、何をやめ、誰へ任せるか。その判断を変えながら、幸之助は次の仕事へ進んだ。

最初の独立が行き詰まった時、むめのは風呂代2銭を渡せず、家賃を待ってもらいに行った。工場を広げる前に、まず明日も働ける暮らしをつなぐ人がいた。その小さな家計の先に、後のPanasonicがあった。[2]

参考文献・出典 80件

本文の番号に対応する資料です。本人・関係者のインタビュー、当時の取材、企業の発表を参照しています。

  1. パナソニック社史:1894年 ↩ 本文
  2. 松下政経塾:むめの夫人・共営者としての仕事 ↩ 本文
  3. 社史物語:碍盤受注の経緯 ↩ 本文
  4. 松下資料館:松下幸之助の歩み ↩ 本文
  5. 川上恒雄:なぜ不遇や逆境に負けなかったのか ↩ 本文
  6. PHPアーカイブ:丁稚奉公(給金と宮田火鉢店・五代自転車商会) ↩ 本文
  7. Panasonic Newsroom:松下幸之助「自転車」(2024-03-22) ↩ 本文
  8. 佐野尚見・元松下電器副社長:学校では学べない船場商人の思想(2016講演公開抜粋) ↩ 本文
  9. 佐藤悌二郎:勤め人時代の松下幸之助(1995研究レポート) ↩ 本文
  10. PHPアーカイブ:むめの夫人との結婚 ↩ 本文
  11. パナソニック社史:1918年 ↩ 本文
  12. パナソニック社史:1920年 ↩ 本文
  13. PHPアーカイブ:1922年以降の住み込み店員制度 ↩ 本文
  14. パナソニック社史:1923年 ↩ 本文
  15. パナソニック社史:1927年 ↩ 本文
  16. Panasonic Energy:電池事業の歴史 ↩ 本文
  17. PHP:初めての新聞広告 ↩ 本文
  18. PHP:信用を形に表わしてほしい ↩ 本文
  19. PHPアーカイブ:スーパーアイロンの価格と量産 ↩ 本文
  20. 川上恒雄:仕事のやりがいを重視した松下幸之助 ↩ 本文
  21. パナソニック社史:1931年 ↩ 本文
  22. 家電Watch:1931年ラジオの開発と返品問題 ↩ 本文
  23. PHP:ラジオの特許を無償で公開 ↩ 本文
  24. 鹿児島大学・吉田健:経営思想の研究、水道哲学 ↩ 本文
  25. パナソニック社史:1932年 ↩ 本文
  26. パナソニック社史:1933年 ↩ 本文
  27. PHP:鬼門、気にせんとこ ↩ 本文
  28. パナソニック社史:1934年 ↩ 本文
  29. PHP:仕事の目的は ↩ 本文
  30. パナソニック社史:1965年 ↩ 本文
  31. パナソニック社史:1941年 ↩ 本文
  32. 安徳勝憲:松下幸之助の観光立国論 ↩ 本文
  33. パナソニック社史:1945年 ↩ 本文
  34. パナソニック社史:1946年 ↩ 本文
  35. 文春アーカイブ:松下幸之助本人が綴った戦後再建 ↩ 本文
  36. PHP:思いがけない餞別 ↩ 本文
  37. PHP研究所創設80周年・研究と出版の歩み ↩ 本文
  38. パナソニック社史:1951年 ↩ 本文
  39. パナソニック社史:1952年 ↩ 本文
  40. 家電Watch:松下のM&Aと提携特別展、フィリップス交渉 ↩ 本文
  41. AV Watch:日本ビクターへの支援・松下大坪社長記者会見 ↩ 本文
  42. 研究・イノベーション学会:VHS開発の組織的背景 ↩ 本文
  43. 論叢松下幸之助4:元ビクター経営者の回想 ↩ 本文
  44. パナソニック社史:1956年 ↩ 本文
  45. PHP:血の出る首をくれ ↩ 本文
  46. PHP:時は金なり ↩ 本文
  47. PHP:いくら薄いラジオでも ↩ 本文
  48. パナソニック:ブランドの歴史 ↩ 本文
  49. 電気学会誌:松下幸之助歴史館・ブランド史 ↩ 本文
  50. パナソニック社史:1959年 ↩ 本文
  51. パナソニック社史:1961年 ↩ 本文
  52. ダイヤモンド:松下正治本人インタビューの再録・略歴 ↩ 本文
  53. 浅草寺:雷門の再建と松下幸之助の寄進 ↩ 本文
  54. パナソニック社史:1964年 ↩ 本文
  55. 前川洋一郎:松下幸之助のイノベーション・熱海会談 ↩ 本文
  56. PHPアーカイブ:熱海会談と販売改革 ↩ 本文
  57. PHP:不要な書類を一気に廃止 ↩ 本文
  58. 情報処理学会:日本のコンピュータ産業史 ↩ 本文
  59. PHP研究所:大型電算機事業撤退と本人の回想 ↩ 本文
  60. 日本総研・竹内祐二:松下幸之助と中内功の信念 ↩ 本文
  61. PHP:奥さん、長いあいだどうもありがとう ↩ 本文
  62. パナソニック社史:1970年 ↩ 本文
  63. パナソニック社史:1973年 ↩ 本文
  64. パナソニック社史:1977年 ↩ 本文
  65. PHP:大忍 ↩ 本文
  66. 松下幸之助『新国土創成論』あとがき ↩ 本文
  67. PHP研究所:無税国家論誕生時の録音と計算の修正 ↩ 本文
  68. パナソニック社史:1987年 ↩ 本文
  69. パナソニック中国:1979・1980年の技術協力 ↩ 本文
  70. パナソニック中国:未実現の共同構想とBMCC ↩ 本文
  71. 松下政経塾:創設者と私財70億円 ↩ 本文
  72. 松下政経塾:1980年開塾時の本人講話 ↩ 本文
  73. PHP研究所:女性の入塾を認めた経緯 ↩ 本文
  74. PHP:203億円を寄付した日本国際賞 ↩ 本文
  75. 日本国際賞:設立の経緯 ↩ 本文
  76. 日本国際賞1986ニュース3号 ↩ 本文
  77. PHP研究所:松下幸之助の経営講話・名言 ↩ 本文
  78. 稲盛ライブラリー:松下幸之助と稲盛和夫 ↩ 本文
  79. 稲盛和夫研究4:ダム経営回想の記録調査 ↩ 本文
  80. パナソニック社史:1989年 ↩ 本文

写真の作者・利用条件・撮影年は各画像の下に記載。取材資料と写真の出典は別々に確認できます。

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本文更新:2026-11-02

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