NOBRILO起業家たちの原点と、その物語。

稲盛和夫

Kazuo Inamori

給料さえ遅れる会社の研究室から、京セラと第二電電の創業へ。半導体の部品で世界へ出て、巨大な電話会社に挑み、78歳で経営破綻したJALの再建を引き受けた。支えた家族と恩人、社員との衝突、賭けた巨額の資金。その選択を追う。

1932–2022年 / 日本出身 / 電子部品・通信・経営再建

物語を読む
稲盛和夫。2011年4月8日、Heritage Day。
稲盛和夫。2011年4月8日、Heritage Day。
写真の出典写真:Conrad Erb / Science History Institute/出典/CC BY-SA 3.0。表示用に縮小・カードでは切り抜き。

動機善なりや、私心なかりしか。

Is my motive good, and is my heart free of selfishness?

通信事業への参入を決める際、自分に問い続けた言葉。 原文 · 英語は編集部訳

資産と事業

WEALTH & BUSINESS

生前の個人資産

10億ドル

約1,576億円

生前からの持分

  • 京セラ株式

京セラ

創業者。1959年京都セラミック創業、1966年社長、1997年名誉会長へ。2022年没。

半導体用セラミック部品や電子部品、複写機・プリンター、通信機器など。

年間売上

2兆702億円

KDDI

源流の一社・第二電電の創業者。2000年にKDD・IDOとの統合でKDDIにつながる。

au、UQ mobile、povoなどの通信サービスと法人向け通信・IT、金融・流通の関連事業。

年間売上

6兆719億円

日本航空(JAL)

創業者ではなく、2010年からの再建会長。2013年取締役退任、2015年名誉顧問。

国内・国際線の旅客・貨物航空輸送と、マイル・金融など。

年間売上

2兆125億円

出典・詳しい補足

個人資産は2011年報道、持分は2022年名簿、企業売上は本人没後2026年実績。年度と主体を合算しない。 3社の売上は合計しない。

原数値は京セラ2,070,203百万円、KDDI6,071,915百万円、JAL2,012,515百万円。1億円未満切り捨て。

円換算は2026年11月2日確認のWise表示値(1米ドル=157.6円)を使用。取引当時の為替や物価・購買力を再現するものではありません。 元通貨の端数処理前の値から計算し、1億円未満を切り捨て。

金額の対象時点・集計範囲

  • 京セラ — 年間売上 / 2026年3月期・通期連結売上高 / 会社公表のIFRS実績
  • KDDI — 年間売上 / 2026年3月期・通期連結売上高 / 会社公表のIFRS実績
  • 日本航空(JAL) — 年間売上 / 2026年3月期・通期連結売上収益 / 会社公表のIFRS実績

主な保有資産・持分の出典

自己株控除後の会社比率。稲盛財団9,360,000株2.61%とは別。2024年の株式分割前の株数。財団・家族合算を本人額にしない。

関連事業の確認日:2026-10-31。財務数値の確認日:2026-10-31。金額表示は1億通貨単位未満を切り捨てています。円換算には切り捨て前の元数値を使います。個人資産は保有株式などを含む推計値です。会社の売上は本人の収入や現金残高ではありません。円換算は金額感をつかむための参考で、取引当時の為替や物価を再現したものではありません。投資先・親子会社の売上を合算せず、売却済みの企業は現在の本人保有とは区別します。

THE STARTING CONDITIONS

2つのガチャから見る出発点

高いほど、選べる道や支えが多い。人生の価値ではなく、環境の有利さを表す編集評価です。

時代・場所ガチャなぜこの点数? +55 / 100

1932年の鹿児島は、学校、印刷や商取引、国内移動、大学教育へ接する制度があり、教育や市場から切り離された同時代の境遇より有利だった。一方、出生から24歳までの間に戦争と空襲、住居・家業の焼失、戦後の困窮が重なる。市の戦災記録は1945年に市街地の大半が焼失したことを示し、本人も家を失った。医療面では結核が当時の主要な死因で、現代の治療環境とは違う。戦時下の行動・言論の制約も反映し、現在の日本の安全や富を子ども時代へ遡らせない。

25歳以降の主な拠点は京都と日本各地で、戦後の教育・医療・交通・輸出産業が発展し、テレビ・半導体・通信という成長市場へ接近できた。通信自由化という制度変更も事業の機会になった。地震や景気変動を考慮して全て100点にはせず、本人が成功した結果や資金力は社会環境側へ加点しない。出生から24歳80%、25歳以降20%で統一する。

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親・環境ガチャなぜこの点数? +70 / 100

両親は印刷・紙袋の商売を営み、本人もその技能と商流を使って行商を始められた。戦災と家計難で早く就職することを求められたが、兄利則が家と両親を支え、父へ大学進学を働きかけた。学校の先生や大学教授の推薦も具体的な支えだった。同時代の世界で高等教育も家業の技能も得られなかった境遇より、進路はかなり広い。一方、余裕ある学費・大きな相続・親の経営企業を引き継いだ資料はなく、大富豪や権力家の家庭と同じ経済支援帯には置かない。

成人後は、大学までに得た技能・兄の支援の持続効果、同僚から妻になった朝子の食生活・生活基盤・3人の娘の養育の支えを含めた。青山らの個人的な推薦と恩人の協力は、確認できる継続的な接点として助言軸に限定して扱う。京セラへ外部投資家が出した全資金を家族贈与へ置換せず、本人が後に得た株式や売上も親の支援にしない。同時代世界80%と時代を超えた共通尺度20%、前半80%と成人後20%で集計する。

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THE STORY

稲盛和夫の物語

選んだ道。その先で、起きたこと。

01航空会社を知らない会長

78歳で破綻企業へ入る

2010年2月1日、日本航空の新会長は記者たちの前で、航空事業については素人だと明言した。会社の全体像も、まだ勉強しているところだった。稲盛和夫、78歳。京セラを興し、電話会社の第二電電を立ち上げた経営者が、今度は飛行機を飛ばす会社を引き受けた。[1]

日本航空、JALは、すでに会社更生法の適用を申し立てていた。借金を減らし、機材と路線を減らし、人も減らす。その間も乗客は乗り、整備士は機体を調べ、空港では毎日の便を送り出す。会長の交代を待って、運航を休むわけにはいかない。[1][2]

隣に立つ新社長の大西賢は、航空の技術畑を歩んだ人だった。稲盛が持ってきたのは、航空機の設計図ではない。人が働く理由と、仕事が生む数字を、会社の中で結び直してきた経験だった。だが、その経験にも解けない痛みは残る。再建の後には、利益と再上場だけでなく、職場を去った人々の争いも待っていた。[1][3]

その会長も、最初は小さな印刷屋の子どもだった。

02母の後ろを追う少年

鹿児島の印刷屋

1932年1月30日、和夫は、九州南部・鹿児島市の薬師町、現在の城西付近に生まれた。7人きょうだいの次男。家では印刷や紙袋を作る商売をしていた。父は慎重な職人で、母は人と交わることに長けていた。[4]

鹿児島で育ち、のちに京都で会社を興す。全体図と拡大図。
鹿児島で育ち、のちに京都で会社を興す。鹿児島市薬師町(現在の城西付近)に生まれ育ちました。ピンは市の代表位置で、未確認の出生宅・病院の位置は示しません。京都は成人後の創業地です。
地理データ:Natural Earth(パブリックドメイン)。 湖の補助データ:© OpenStreetMap contributors(ODbL)。使用データ。現代の地理と都市の代表位置。出生宅・移動経路ではありません。編集部作図。

幼い和夫は母の後ろについて回った。忙しい母に相手をしてもらえないと、長く泣く。学校へ入って周囲に慣れると、今度は遊び仲間を引っ張るようになった。泣き虫だった子が、次第にがき大将になる。後年の厳しい経営者には似つかわしくない幼さも、本人の出発点にあった。[4]

母キミは、1人でいるときも神仏は見ていると教えた。人前で立派に見せることより、誰も見ていないところで正直にすること。その教えは、後に巨額の投資を決めるとき、自分の動機を問い直す言葉として戻ってくる。[5]

03病気と空襲

家を失う

1944年、和夫は鹿児島第1中等学校の受験に失敗し、国民学校高等科へ進んだ。冬には肺浸潤で寝込む。周りには結核で苦しむ人がいて、病気は身近だった。療養中に読んだ『生命の実相』が、心の持ち方について考えるきっかけになった。[6]

1945年、私立鹿児島中学へ入った年、空襲で実家が焼けた。家族が暮らし、商売をしていた場所がなくなる。学校へ進めたという1つの前進の後で、生活の土台そのものが崩れた。[7]

空襲後の鹿児島市街。1945年11月1日。
空襲後の鹿児島市街。1945年11月1日。
写真:撮影者不詳/毎日新聞社刊資料より/出典/Public domain – PD-Japan-oldphoto / PD-1996。サイズ調整。

鹿児島の市街地は大きな被害を受けた。戦争が終わっても、家族を養う仕事はすぐには戻らない。和夫も、学校へ行くことと、家の暮らしを支えることを一緒に引き受けるようになった。[8][9]

04放課後は紙袋を売る

曜日ごとに地区を回る

高校時代、和夫は父へ紙袋の商売を再開しようと働きかけた。作る技術は家にある。自分が外へ売りに行けば、家計を助けられる。父が作った袋を、自転車へ積んで商店を回った。[9]

手当たり次第に歩けば、同じ店の近くへ戻ったり、無駄に遠回りしたりする。そこで市内を7つの地区へ分け、曜日を決めて回ることにした。放課後だけでは足りない分は、日曜日にも売り歩く。[10]

菓子問屋を通じて、その先の小売店へ卸す方法も知った。店を1軒ずつ探すのとは、入る注文の単位が違う。家族の暮らしを助ける仕事の中で、作る側だけでなく、売る経路を工夫する側も経験した。[10]

1948年、鹿児島市高等学校第3部、現在の鹿児島玉龍高校へ進む。やがて大学へ行きたいと望んだが、父は早く働いてほしかった。家計に余裕のある進学ではなかった。[7][11]

兄が開いた大学への道

兄の利則が父を説得した。せめて和夫だけでも大学へ行かせてやってほしい。兄は家に残って両親や実家を支え、弟が外へ進む余地を作った。稲盛は後に、その働きに何度も感謝を向ける。[11]

1951年、和夫は鹿児島大学工学部へ入った。応用化学を学び、1955年に卒業する。家の紙袋から大学の材料へ、扱うものは変わった。だが、学位を取れば望む会社へ入れるという就職ではなかった。[12][13]

05給料の遅れる会社へ

京都で残った仕事

1955年、稲盛は教授の紹介で、京都の松風工業へ就職した。電気を絶縁する碍子などを作る会社だった。ようやく決まった職場は、経営が苦しい。給料の支払いが遅れ、寮も傷んでいた。同期が集まれば不満が出た。[13]

次々に辞める人がいた。稲盛も退職を考えたが、兄に押しとどめられた。行き先を確保して移るわけでもないまま、勤め始めた会社をすぐにやめる。その判断を兄は認めなかった。[13][11]

稲盛は職場へ残り、研究へ向き直った。実験の結果が出ると、さらに試す。材料が自分の手で変わり、思ったように働く。その仕事へ時間をつぎ込み、鍋釜を会社へ持ち込んで研究するほどになった。[13][14]

任されたのは、急速に普及し始めるテレビの内部で使う材料だった。画面の向こうで暮らしが変わる時代、その小さな部品が、若い技術者の道も変えた。[15]

06靴についたロウ

U字の部品を固める

稲盛が開発したフォルステライト磁器は、テレビのブラウン管に使う絶縁部品、U字ケルシマの原料だった。輸入に頼る部品を国内で作れれば、松下電子工業からの大きな注文が見込める。[15]

難所は、粉を狙った形へ固める工程だった。粘土と水を混ぜればまとまるが、不純物が残る。粉だけを押しても、ぱさぱさで固まりにくい。形を作りたい。そのために加えるものが、材料の性能を妨げる。[15]

ある日、実験台の下にあったパラフィンワックスの塊につまずいた。足で動かそうとすると、ロウが靴へくっつく。その粘りを、粉のつなぎに使えないか。混ぜて加熱すると成形でき、焼くとロウが抜けた。水を使わない分、乾燥で変形する問題も減った。[15]

1956年には、国内で初めてフォルステライトの合成に成功した。材料を作るだけでなく、その材料で量産できる形を作る。学校の実験を越え、自分の仕事が注文の付く製品へ変わった。[7]

07売れる部門を去る

上司との衝突

1957年には、松下電子工業から月2万~3万本の注文が入る。研究課は特磁課として独立し、人も増えた。稲盛の周囲には、後に京セラを一緒に作る若い仲間が集まり始めた。[16]

次に取り組んだのは、セラミックを使った真空管だった。だが、新しい技術部長と方針がぶつかり、開発から外されることになる。稲盛は退職を決めた。売れる仕事を作った職場を、自分から離れる。[16]

部下たちも、辞めてついていくと言い始めた。会社を作れば好きな技術を続けられる。しかし、稲盛には、その会社を動かす金がない。技術と仲間だけでは、機械は買えず、工場も借りられない。[17]

08他人の家を担保にする

青山と西枝の支援

元上司の青山政次が、稲盛を連れて出資の依頼に回った。頼ったのは、青山の友人で宮木電機の幹部だった西枝一江と交川有らだった。[17]

最初から賛成された話ではない。20代の人間が、情熱だけで事業を続けられるのか。稲盛と青山は何度も足を運び、技術の将来性を説明した。最終的に西枝、交川、社長の宮木男也が出資を引き受けた。[17]

西枝はさらに、自宅を担保に銀行から1000万円を借りた。設備と運転資金を用意するためだった。若い技術者の失敗を、自分の財産で引き受ける。稲盛が親から工場を受け継ぐ代わりに頼ったのは、働く中で出会った人の信用だった。[17]

1958年12月、稲盛を含む8人が誓詞へ署名し、血判を押した。多くは20代。将来が決まっている会社へ入るのではなく、自分たちで働く場所を作る側へ回った。[18]

09退職の翌日に結婚する

机の弁当からケーキの披露宴へ

研究に打ち込む頃、稲盛の机へ弁当が置かれていることがあった。食べると、翌日も、その次もある。同じ特磁課の須永朝子が、食生活を気遣って持ってきたものだった。[14]

稲盛は朝子へ結婚を申し込み、1958年12月14日、松風工業を退社した翌日に結婚した。結納はせず、ささやかな贈り物を交換する。京都・東山の蹴上での披露宴は、ケーキとコーヒー。新会社がどうなるかも分からない時期に、2人の暮らしが始まった。[14]

後に娘が3人生まれた。稲盛は仕事を続け、子育てや家庭を朝子へ任せた。晩年の著書では、自分には育児をした記憶がなく、妻がすべてしてくれたと書く。若い会社を率いて長い時間を働けた背後には、家へ残って別の仕事を続けた人がいた。[14]

10社長ではなかった創業者

28人の京都セラミック

1959年4月1日、京都セラミックが始まった。資本金300万円、社員28人。27歳の稲盛の役職は、社長ではなく取締役技術部長だった。出資と経営を支える人たちと組み、自分は技術を率いた。[19][20]

血判を交わした仲間のほかにも、移ってきた人、新しく採用した人がいた。名前の先頭へ置いたのは、世界に知られる京都。小さい会社に合わせて、売る相手まで小さく絞るつもりはなかった。[20]

初年度の売上は2600万円、営業利益は320万円だったと、米国の大学の顕彰記録は伝えている。まだ大きな数字ではない。それでも、前職を辞めた人々が新しい工場で製品を出し、給料を払う会社を1年間動かした数字だった。[21]

11管の中へロウを流す

切ると割れる製品

創業して間もない1959年5月、松下電子工業からカソードチューブを受注した。細い中空の管だった。まだ柔らかい状態で切るとつぶれ、焼いてから切ると割れる。作れても、必要な長さへ切り分けられない。[22]

稲盛たちは、焼いた管へ溶けたロウを入れ、固めてから切る方法を考えた。内側を支えてやれば、薄い壁が刃に負けにくい。切った後でロウを抜く。靴へついたロウから粉末の成形へ、今度は管の切断へ。同じ性質が、別の問題の答えになった。[22]

1つの製品がうまくいっても、次の注文は別の難しさを持ってくる。経験のないものを引き受け、途中で加工法を作る。創業初期の工場では、その繰り返しで扱える技術が増えていった。[22][23]

磁器を抱えた夜

1960年には、放送用の送信管を冷やす磁器を引き受けた。水冷複巻蛇管。外径30センチ、高さ60センチの筒に、二重らせん状の水路が通っている。設計図もなく、経験のあるメーカーも断った注文だった。[23]

形を作っても、内側と外側の乾き方が違えば割れる。急いで乾かしてもひびが入る。柔らかいうちは自分の重さで崩れる。布で巻いて湿らせ、窯のそばで温度を使いながら、ゆっくり回して乾かす必要があった。[23]

稲盛も夜中、製品を抱えた。倒したり、ゆがませたりせず、全体を少しずつ乾かす。注文分を完成させるまで、およそ4カ月かかった。小さな会社に無理だと見られた品物が、工場から出せるものになった。[23]

12主力製品が消える危機

ガラスを夜に持ち帰る

U字ケルシマは月50万本を作る主力製品になった。ところが、顧客が別の絶縁材料へ切り替えるという話が来た。マルチフォームガラス。成功している製品ほど、その代替品が広がったときに失う仕事も大きい。[24]

京都セラミックにはガラスを作る設備も技術もなかった。稲盛は取引先の炉を借り、相手の仕事が終わった夜に使わせてもらう。溶かしたガラスを自社へ持ち帰り、加工した。設備が全部そろうまで待てば、注文は他社へ移ってしまう。[24]

8カ月で製品化した。セラミックを作れるという自信だけでは、会社を守れない。使う相手が材料を替えるなら、こちらも新しい材料を覚える。稲盛は自分の得意な技術の外へ、すでに押し出されていた。[24]

13社員11人の要求書

3日間の交渉

1961年4月29日、前年に入社した高卒社員11人が要求書を出した。定期昇給やボーナスを、将来にわたって約束してほしい。認められなければ全員で辞めるという。[25]

工場では残業が続き、日曜日まで仕事になることがあった。新しい製品を完成させる側の熱意と、そこで働く若者の不安は、同じ工場の中にあった。稲盛にとっては技術を世に出す会社でも、社員にとっては、自分たちの将来を預ける場所だった。[25]

できたばかりの会社で、先の待遇まで確約することはできない。それでも信じて一緒に働いてほしい。交渉は稲盛の自宅へ移り、3日間続いた。稲盛は、自分がいい加減な経営をして裏切ったなら、刺し殺してもいいとまで言い切った。最後まで残った青年も、稲盛の手を取って泣いた。[25]

この衝突を経て、経営の目的を社員と家族の生活へ向け直した。後に定める「全従業員の物心両面の幸福」という理念は、創業者を問い詰める働き手の声から生まれた。作りたいもののために人を集めた技術者が、その人々の生活を背負う経営者へ変わっていった。[25]

14日本を出て売り込む

30歳のアメリカ出張

1962年7月、稲盛は初めてアメリカへ出張した。国内の大企業は、実績のない小さなメーカーを簡単には採用しない。技術の進んだアメリカで認めてもらえれば、その信用を日本へ持ち帰れるのではないか。国内で閉じている扉を、海外から開けようとした。[26]

販売代理店の担当者と製品を持って回った。仲間は高い渡航費を負担し、羽田から送り出した。期待が大きくても、会ったばかりの顧客にとっては、目の前の品物が使えるかどうかが問題だった。[26]

注文を次々に取れた旅ではなかった。それでも、技術を導入したいという企業が現れた。日本の小さな工場で作ったものに、外の企業も価値を認める。後のIBMからの注文へ至る前に、稲盛は自分たちの技術を持って、この市場を歩いていた。[26]

15工場を作り会社を分ける

滋賀へ広がる

受注が伸びると、京都の工場は手狭になった。隣の会社の講堂兼食堂まで使わせてもらっても足りない。1962年、滋賀県南東部・田畑の広がる蒲生町で土地を買い、自社工場を建てた。[27]

1963年、滋賀工場が完成した。電気と工場用水を整え、独身寮も建てる。製品を作る機械だけでなく、人が働き、暮らす場所を作る段階へ進んだ。[27]

拠点が広がるほど、稲盛1人が技術も営業も製造も見て回るやり方は限界に近づく。製品や工程ごとの小集団へ分け、それぞれで採算を把握する仕組みを育てた。必要に応じて形を変える小さな組織が、アメーバと呼ばれるようになる。[28]

時間当たりの数字

仕事から得た付加価値を、使った労働時間と一緒に見る。各集団の人が、自分たちが何を受け取り、何を使い、どれだけ残したかを考える。会社全体の売上が大きくなるのを眺めるだけでなく、自分の仕事の数字へ近づく仕組みだった。[28]

ただし、隣の集団へ負担を押し付ければ、自分たちの数字だけはよくなる。集団へ分けたことによって、調整する問題も生まれる。部門の採算と会社全体の利益をどう合わせるか。稲盛は数字と共に、何のために働くかという共通の考え方も教えた。[29]

16IBMの2500万個

測る道具から作る

1966年4月、IBMから2500万個のセラミック基板を受注した。大型コンピュータSystem/360の内部で使う、小さな板である。金額は1億4000万円。当時の年間売上の4分の1に相当した。[30]

京セラが基板を供給したSystem/360シリーズの実機。2008年、米コンピュータ歴史博物館で撮影。
京セラが基板を供給したSystem/360シリーズの実機。2008年、米コンピュータ歴史博物館で撮影。
写真:Erik Pitti/出典/CC BY 2.0。サイズ調整。

大きな注文書には、会社がまだ満たせない条件も付いていた。基板は11.5ミリ角、厚さ1.5ミリ。寸法だけでなく、強さや平らさ、材料の性質が細かく指定されている。その数値を確かめる測定装置さえ、十分には持っていなかった。[30]

作り方と、できたことを示す測り方を、一緒に用意する。試作品の合格まで7カ月かかった。量産へ進めば、今度は月100万個。80人が3交代で取り組み、役員や幹部も生産へ入った。[30]

黄色い板を作り直す

試作中、基板の黄色みが問題になった。性能だけを示して納められるわけではない。原料の配合を見直し、求められた白い板へ近づけた。炉を大きくすれば、今度は大量の製品の寸法がそろわない。1つの壁を越えると、次の工程で別の壁にぶつかった。[31]

IBMへ納める仕事は、製造、測定、量産、品質管理をまとめて引き上げた。その実績で、ほかの半導体・電機メーカーからも注文が来る。日本で信用されるためにアメリカへ出た稲盛は、製品の中で使われたという実績を、会社の名刺に加えた。[26][30]

17社長が自分の方法を変える

若い会社を越える

稲盛は1966年に社長へ就いた。翌1967年の方針では、小企業の頃のやり方を足し続けるだけでは、中堅企業になれないと訴えた。外から専門的人材を迎え、若い社員にも従来の方法を疑い、新しく考えてほしいと求めた。[32]

技術者が自分で製品を抱えていれば済む範囲を、会社は越えていた。工場が増え、顧客が増え、全員が創業時の苦労を知っているわけでもない。稲盛は、自分の経験を共通の方針へ変え、その方針を別の人が使って判断する会社へ進めようとした。[32][28]

次の大きな決断では、その会社の財布を大きく開くことになった。[33]

187億円を2年続ける

半導体を守る容器

1969年、アメリカの半導体企業Fairchildから、50個の試作依頼が来た。半導体を湿気や汚れから守り、接続も支えるセラミックのパッケージ。稲盛は3カ月で作ると約束した。[33]

1969年の夏。日本海に面し、福井県から京都府にかけて広がる若狭湾で家族と海水浴をしていると、国際電話がかかってきた。アメリカ企業から、電卓用ICの多層パッケージを100万個、8億円分頼みたいという話だった。年商が20億円に届かない会社へ来た、大量注文である。量産技術もまだ固まり切っていない。稲盛は、その場で受注を決めた。家族と過ごす海まで、新しい半導体産業からの仕事が追ってきた。[34]

1970年の大きな判断は、専用の生産ラインを整える投資だった。当時の売上は70億円。年7億円の設備投資を、2年間続ける。普段は既存の機械を使い切るまで新しいものを買わない稲盛が、この仕事には先に金を入れた。[33]

半導体が広がるなら、保護する容器も難しく、大量に必要になる。完成した市場へ後から入るのではなく、量産する能力を先に用意する。小さな注文で未知の技術を覚えてきた会社が、その賭けを工場単位へ広げた。[33]

1969年には鹿児島県北西部・川内川沿いの川内工場が始まり、1972年には鹿児島湾の北側にある国分にも工場ができた。京都へ就職した青年の事業が、故郷へ製造の仕事を持ち帰る。1971年には大阪と京都の証券取引所へ上場した。[35]

19注文が10分の1になる

1974年の工場

オイルショックが成長を止めた。稲盛が後に示した数字では、1974年1月に月27億円ほどあった受注が、7月には3億円弱へ落ちた。半年で約10分の1。技術も機械もあるのに、工場へ入ってくる仕事がない。[36]

そこで支えになったのは、好調な年に残していた利益だった。稲盛は不況を心配し、内部に資金を積み上げていた。資金が尽きなければ、急な借入れや雇用削減へすぐに追い込まれずに済む。京セラはこの不況でも雇用を守り、年間の黒字を保った。[36]

最後列で聞いた松下の答え

若い頃、稲盛は京都で松下幸之助の講演を聞いた。座ったのは会場の後ろだった。経営に余裕を持てという話に、中小企業の経営者から、余裕がないから困っているのだという質問が出る。松下は、まずそういう経営をしようと思わなければならないと答え、会場は笑った。稲盛には、笑って終われない言葉だった。[37]

1979年4月、松下と対談した稲盛は、その場面を本人へ話した。手軽な方法を聞くのでなく、自分の会社をどうしたいかを強く持って進む。その意味を受け取ったと説明する。資金を厚く持つ会社へ育てても、本人の心までのんびりしたわけではなかった。同じ対談で、友人には働きすぎを注意されるが、仕事へぎりぎりまで打ち込んでいるときに安心するのだとも打ち明けている。[37]

会社には余力を残し、自分は仕事から簡単に離れない。注文が減ったとき、社員の生活を支えた蓄えは、その毎日の経営から作ってきたものだった。[36]

20左手の緑の石

エメラルドを育てる

稲盛は海外で宝石店をのぞき、エメラルドの緑に引かれていた。電子機器の奥に入って見えなくなる材料だけでなく、人が身に着ける結晶も作れないか。1970年代、京セラは再結晶エメラルドの開発へ進んだ。[38]

天然の石と同じ組成や構造を持つ結晶を育てても、望んだ透明さや大きさに簡単にはならない。完成まで4年を費やした。最初にできた石の1つを、稲盛は指輪にして左手へ着けた。[38]

その指輪は、成功した宝石というだけでなく、失敗を重ねた研究の記念でもあった。顧客の注文で始める仕事とは違う、自分が美しいと思ったものへ技術を使う一面が、手元に残った。[38]

21石油が戻り客が遠のく

太陽電池を続ける

1975年、他社と合弁でジャパン・ソーラー・エナジーを作り、太陽電池の開発を始めた。石油だけに頼らず、太陽から電気を得る。結晶を扱う技術を、別のエネルギーへ使おうとした。[35][39]

ところが、導入した方式ではコストを下げにくかった。石油の供給が落ち着くと、社会の関心も薄れる。他社が撤退する中、京セラは株式を買い取り、開発を続けた。[39]

さらに、すでに金をかけた方式から、多結晶シリコンへ転換した。投資した設備を守ることより、次に量産できる方法を選ぶ。市場も自動的には育たず、街灯や道路標識など、使う場所を1つずつ探した。[39]

太陽光パネルを備える京都・伏見の京セラ本社。2010年11月、開発が続いた後年の実装例。
太陽光パネルを備える京都・伏見の京セラ本社。2010年11月、開発が続いた後年の実装例。
写真:J o/出典/CC BY-SA 3.0。サイズ調整。

電子部品でも、入った分野すべてが高収益になったわけではない。水晶振動子などでは、原価を下げても競合がさらに安くしてくる。後から参入した現場へ、稲盛は、同じ改善を続けるのでなく製造の方法を大きく変えるよう求めた。要求する側の言葉の裏で、作る側は価格競争を引き受けていた。[40]

22救う会社にも人がいる

ヤシカの工場

1979年、通信機器のサイバネット工業がグループへ入った。1982年、社名は京都セラミックから京セラへ変わり、1983年にはカメラメーカーのヤシカを合併した。材料を供給する会社から、完成品も持つ企業へ広がった。[35][41]

ヤシカは救済を求めていた。稲盛は工場で、1人で複数の機械を受け持つ社員を見た。経営が行き詰まったことと、その中で懸命に働く人の仕事は同じではない。引き受けた後は、勤続年数を引き継ぎ、ヤシカの方がよかった労働条件は残す方針を取った。[42]

後に、その人材の一部は第二電電の立ち上げを支える。会社を取り込むと、設備だけでなく、そこで育った技能と経験も加わった。[42]

ただし、カメラの生産は2005年に終わる。ヤシカやCONTAXのブランドを持ち続けても、変わる市場で製品を残せるとは限らなかった。稲盛が現役のトップを離れた後にも、会社は続けるものと終えるものを選び直した。[43]

追わなかったパソコン

京セラは1983年の携帯型パソコンTRS-80 Model 100も製造した。アメリカのRadioShackで売られた、画面とキーボードが1つになった機械。持ち運んで文章を打てる道具として、スマートフォンのはるか前に使われた。[44]

京セラが製造した1983年の携帯型パソコン、TRS-80 Model 100。実機を2008年に撮影した写真。
京セラが製造した1983年の携帯型パソコン、TRS-80 Model 100。実機を2008年に撮影した写真。
写真:NapoliRoma/出典/Public domain。サイズ調整。

そこから完成品のパソコン事業を巨大化する道もあったが、京セラはその市場を最後まで追い続ける会社にはならなかった。部品の技術で入れる仕事が増えるほど、その先の競争をどこまで引き受けるかを決める必要があった。[41]

そして1980年代、製造業からさらに離れた、大きな参入を考え始めた。電話だった。[45]

23他人の会社の相談も聞く

25人から始まる塾

1983年、京都の若い経営者たちとの集まりが始まった。後の盛和塾である。1980年の講演を聞いた人たちが学ぶ場所を求め、繰り返し稲盛へ頼んだ。最初は25人だった。[46][47]

自分の会社へ帰れば、教わった言葉だけでは解けない問題がある。塾生は実践を報告し、悩みをぶつけた。稲盛は、資金を支えてもらい、社員の要求書に困り、顧客に鍛えられた自分の経験を、別の会社の問題へ渡していく。[47]

自社だけを見ていればよい時間へ、他社の経営者が入る。後に国内外へ広がるこの活動も、始まりは何度も頼みに来る若い人たちとの関係だった。[46]

24200億円を財団へ渡す

京都賞の創設

1984年4月、稲盛は京セラ株式や現金、当時およそ200億円相当の私財を投じ、稲盛財団を設立した。事業の成長で得た資産を、社会から預かったものとして返そうとした。[48]

翌1985年に始まった京都賞は、先端技術、基礎科学、思想・芸術の3分野を対象にした。すぐに売上へ変わる仕事だけでなく、長い研究や表現によって社会へ貢献した人を顕彰する。技術で成功した経営者が、技術の外へも金を向けた。[48]

受賞者を本人の気分で決めるのではなく、専門家の推薦と委員会の選考、財団の理事会を通じて選ぶ制度を作った。現在の賞金は1部門1億円。資産を寄付して終えるのでなく、それを使って選び続ける仕組みにした。[49]

251000億円まで賭ける

高い電話料金の壁

1980年代前半、日本の通信が自由化へ向かう。長距離電話には高い料金がかかり、全国の通信網を持つ電電公社、後のNTTが巨大な地盤を築いていた。競争する相手が入れば、利用者の料金を下げられる。稲盛は参入を考えた。[45]

京セラには金があった。本人が後に示した当時の現預金は1500億円。稲盛は、失敗すれば1000億円まで使って撤退する覚悟で、役員会へ認めてほしいと諮った。守りのために残していた資金が、今度は未知の仕事へ出る余地になる。[50]

だが、会社の金を使う前に、自分の理由を疑った。電話料金を下げたいのか。それとも成功した自分が、次は東京でも名を上げたいだけなのか。半年にわたって動機を問い直したと本人は語る。[50]

「動機善なりや、私心なかりしか」。後に知られるその問いは、巨額の参入を前に自分へ向けたものだった。[51]

26道がないなら山をつなぐ

第二電電の回線

1984年6月、第二電電企画が設立された。通信自由化が始まる1985年4月、第二電電として発足する。技術者を集め、回線を用意し、営業する。セラミックの成功を、そのまま電話へ移せるわけではなかった。[52]

鉄道や高速道路に沿って設備を通せる競合に対し、第二電電には既存の道がない。山へ中継設備を作り、パラボラアンテナから次のアンテナへ電波を渡す方式で、東京と大阪を結んだ。[45]

企業向けの専用サービスは苦戦した。そこで、一般の家庭が使う市外電話へ重点を移す。1986年に専用サービス、1987年9月には東京・名古屋・大阪を結ぶ市外電話サービスを始めた。[53][52]

加入者は、かける番号の前へ電話会社を選ぶ番号を付ける。いつも通りNTTへ流れていた通話を、新しい会社へ切り替えてもらう。ライブラリーの記録では、開始時に第二電電が得たのは45万回線で、競合2社の27万回線、15万回線を上回った。[53]

27東京を譲る

携帯電話の地域分け

当時、動きながら使う電話の中心は自動車電話だった。稲盛たちは、端末が小さくなり、人が持ち歩くようになる将来を見ていた。1987年に関西セルラーが設立され、各地のセルラー会社へ進む。[41][52]

ただし、新規の2陣営は、使える電波の都合で地域を分ける必要があった。どちらも人口の多い首都圏がほしい。稲盛は抽選を提案したが、郵政省から、重大な事業をくじで決めるのかとたしなめられた。[54]

最終的に、首都圏と中部圏を相手へ譲り、自分たちはそれ以外で始めると決めた。役員会には、果実の中身を渡して皮だけ取るようなものだという反対が出た。それでも、地域分けが決まらないまま設備も営業も進まない状態を終わらせた。[54]

望んだ条件を全部取るより、取れた地域で始める。その先で得る利用者と設備が、後に全国の事業へつながっていった。[52]

28契約で勝てても譲る

技術を売った相手の不満

通信網を広げる一方、電子部品の商売では、アメリカ企業との古い契約を見直すことになった。発端は1972年、Aerovoxから取り入れた積層コンデンサの製造技術だった。小さな板を何層も重ね、電気を蓄える部品を作る。契約により京セラは日本で独占的に販売でき、国外へも売れた。技術を買った側に有利な、事業の足場だった。[55]

その後、同社のコンデンサ部門から生まれたAVXのバトラー会長が、その条件の変更を求めた。技術を渡した自分たちが、日本で製造も販売もできないのは不公平だという。京セラは対価を払って契約しており、そのまま守るよう求めることもできた。それでも稲盛は、相手の主張にも道理があるとして、該当する制限を外した。自分たちを守る条文を、交渉の席で手放した。[55]

現金で買わない買収

1990年、AVXは京セラグループへ入る。手段は株式交換だった。現金を支払って終える代わりに、相手の株主へ京セラの株式を渡し、同じ企業群の持ち主になってもらう。日本とアメリカの会社の間で、その方法を実行するには制度上の壁があった。稲盛らは法律を調べ、行政当局との交渉を進めた。[56]

1995年には、AVXはニューヨーク証券取引所へ再上場した。グループに入ったアメリカの会社も、再び市場で自らの株を持つ。技術を買い、販売条件を巡って相手と折り合い、最後には会社ごと組む。稲盛の海外事業は、注文を取りに歩く頃から、別の経営者や株主と長く付き合う仕事へ広がっていた。[57]

29第二電電の株を持たない

2つ目の上場

1993年9月3日、第二電電が東京証券取引所第2部へ上場した。新電電3社で最初だった。1000億円の損失も覚悟して入った仕事が、資本市場で取引される会社になった。[52]

社員が株を買えるようにする一方、稲盛自身は第二電電株を持たなかった。電話料金を下げるために始めたという動機を、個人の利益と切り離しておきたかった。KDDIの小野寺正も、後の取材でその選択を語っている。[58]

京セラの株から資産を得た経営者が、別の創業では持たない道を選ぶ。会社を大きくする仕事と、その株で自分の財産を増やす仕事を、ここでは分けた。[58]

30サッカー場では簡単に勝てない

京都にクラブをつくる

1994年、稲盛は京都パープルサンガを支える側に立った。京都にもプロサッカーチームがほしい。25万人の署名を集めた市民の思いに応え、京セラがメインスポンサーになる。サッカー好きが高じて始めた仕事ではなかったが、やがて試合だけでなく、選手が練習する場所へも通うようになった。[59][60]

クラブ経営へ送り込まれた杉江栄治は、もともと進出に反対していた。ホームの試合数も観客数も限られ、入場料や広告だけでは選手を雇う金を賄いにくい。本人の回想では、京セラは胸の社名広告に毎年5億円を負担した。それでも経営は楽にならず、稲盛の指示で選手年俸の見直しを進める。部品工場で徹底した採算管理を、ピッチの外でも求めることになった。[61]

1億円選手の看板

交渉相手には、元日本代表のラモス瑠偉もいた。提示した減額に事務所は応じず、キャンプが始まっても契約が決まらない。杉江は、本人が1億円選手という評価にこだわっていることを知る。報道では推定年俸1億円としてもらうことで折り合い、実際の減額契約へ署名を得たという。公表される額と、実際にクラブが払う額が違う。そこまで調整しなければ、有名選手の誇りとクラブの財布を両立できなかった。[61]

チームは1996年にJリーグへ入ったが、その年は16位だった。会社を育てた資金と経営手法があっても、順位までは買えない。それでも稲盛は支援を続けた。雪の日、予定に空きができると秘書と城陽の練習場へ行き、選手たちの練習を見守った。京都の市民から頼まれて引き受けた仕事は、勝つ日だけ顔を出す活動ではなくなった。[62][60]

2002シーズン、チームはリーグ5位へ進み、続く元日の天皇杯決勝でも勝った。試合の後、選手たちはピッチで稲盛を胴上げした。工場にも株式市場にもない勝利を、一緒に喜ぶ日が来た。[59]

3165歳の手術と得度

寺へ入る前に病気が来る

1997年、稲盛は京セラと第二電電の会長を退き、取締役名誉会長となった。京都府南部・木津川と宇治川の合流域に近い八幡市の円福寺で得度し、大和という名を授かる。[63]

だが、その前には胃がんが見つかっていた。寺へ入る予定は手術と療養へ変わり、胃の一部を切除した。退院後に得度し、修行や托鉢をする。事業の先を決めてきた人も、自分の身体の予定は思い通りにならなかった。[64]

そのまま会社や社会を離れたわけではない。財団、盛和塾、支援活動へ関わり、経営の外側でも人と仕事を続けた。退任は、残りの時間を何もしないという選択ではなかった。[65]

32昨日の競合と1つになる

KDDIへつながる

2000年10月、第二電電、KDD、IDOが合併した。当初の正式社名はディーディーアイ、通称KDDI。2001年4月に社名もKDDIへ変わった。長距離通信、国際通信、携帯電話を別々に築いた会社が、全国の事業を組み合わせた。[52]

携帯電話の地域を巡って争った相手も、今度は同じ側へ入る。稲盛は名誉会長となり、2001年6月には最高顧問へ移った。すべての現場の先頭に自分が立つ役割から、さらに離れていった。[19]

川下りで隣にいた若い設計者

会長を退いた後も、会社を引き受ける相談は来た。1998年、経営破綻した複写機メーカー三田工業が救済を求めた。デジタル化への対応の遅れや経営上の問題を抱えた会社だった。京セラにはプリンタ事業がある。会社を残すなら、機械だけでなく、社員、販売代理店、すでに機械を使っている顧客にも応えなければならない。[56]

その年の8月、京セラへ入って3年目の設計者が、後に妻となる同僚と保津川下りの船へ乗った。京都府中部・亀岡から嵐山へ下る観光の船で、隣の席にいたのが稲盛夫妻だった。自分も社員だと伝えると、稲盛は後ろに乗る幹部たちを紹介した。若手設計者の休日が、突然、名誉会長と一緒に川を下る時間になった。[66]

稲盛はプリンタの設計をしていると知り、これから忙しくなるから頑張ってほしいと励ました。若手はその意味をまだ知らなかったが、後で三田工業との統合へつながる話だと気づく。写真を添えて礼状を送ると、稲盛からも返事が来た。客に喜ばれる製品を設計してほしいという言葉だった。その社員は後に、主力カラー複合機のプロジェクトを率いた。[66]

2000年、京セラミタが発足した。更生手続きは、当初計画より7年前倒しの2002年3月末に終えた。後の京セラドキュメントソリューションズへ続く事業である。引退した会長の言葉は、工場で働く若い社員にも、別の会社の再建にも届いていた。[65][56]

33教材だけでは伝えない

工場で働く人の時間

2002年頃、社員が稲盛の講話を解説付きの教材にして、パソコンで学べるよう提案した。稲盛は、自ら学びに来る経営者と、工場で毎日働く社員へ、同じ教え方をしてよいのかと立ち止まらせた。[67]

仕事を離れて顔を合わせ、食事もしながら話す。その時間が必要だという考えだった。教材を作った社員は後に、情報を配ることと、人に学んでもらうことの違いを、そこで教えられたと振り返っている。[67]

本や講話を大量に残しても、稲盛は、人へ直接向き合う仕事を減らして終わろうとはしなかった。やがてJALへ入ったときも、会長室から文書を出すだけでは済ませなかった。[68]

34子どもが暮らす家を作る

京都大和の家

2004年、稲盛は『生き方』を出版した。同じ年、京都府南部・奈良県境に近い精華町で、児童養護施設と乳児院の京都大和の家が開いた。稲盛が私財を投じ、家庭と離れて暮らす子どもを支える施設を作った。[65][69]

建物を建てるだけでなく、小さい生活単位で家庭に近い暮らしを目指し、心のケアと自立支援を備えた。2005年からは公文式による学習支援も取り入れ、職員が学びを支えた。[69][70]

長い研究や芸術の仕事を賞する財団と、これから基礎的な学力を身に付ける子どもの生活。稲盛が金を向けた相手は、成功した人だけではなかった。[48][69]

35破綻した航空会社へ

2010年の引き受け

2010年1月19日、日本航空が会社更生法の適用を申請した。企業再生支援機構の支援を受け、事業と財務を組み替える。稲盛は会長就任を求められ、2月1日、大西賢社長と共に再建へ入った。[71][1]

鳩山由紀夫首相と稲盛和夫。2010年2月25日、首相官邸。JAL会長就任後。
鳩山由紀夫首相と稲盛和夫。2010年2月25日、首相官邸。JAL会長就任後。
写真:内閣官房内閣広報室/出典/CC BY 4.0。サイズ調整。

本人は、依頼が来たときから引き受けるつもりだったわけではない。2009年末、政府や企業再生支援機構から要請されても、航空の経験がないとして断った。繰り返す依頼を受け、週3日ほど、無報酬で手伝う条件で受諾した。後年のインタビューでも、成功の確信があったから行ったのではないと話している。[72]

会長を支えるため、京セラで秘書室長などを務めた大田嘉仁も同行した。大田も、失敗すれば稲盛や京セラの評価まで傷つくと考え、家族と話した上で引き受けた。2010年1月19日の発表会見には、稲盛に以前から約束していた盛和塾の予定があり、大田が代理で出席した。日本中が注目する再建でも、先に交わした約束を変えなかった。[73]

会見で挙げたのは、日本経済への影響、航空という社会基盤、残る雇用、競争と利用者の利便だった。自分の会社ではないから関係ないとするのでなく、社会に必要な会社を再び動かす役割を引き受けた。[1]

再建には、会社が支払いを続けられる条件が要った。飛行機を飛ばしながら、再出発できる貸借対照表と、収益を生む事業規模を作る必要があった。[2][74]

36借金を減らし会社を縮める

3500億円と5215億円

企業再生支援機構が3500億円を出資し、金融機関などは5215億円の債権を放棄した。融資や債務保証も行われ、旧株主は100%減資で持分を失った。再建は、誰かが受け取るはずだった金や財産を手放すことによっても支えられた。[74][75]

大型機を退役させ、中小型機へ移す。路線を減らし、事業を縮める。2010年5月の会見で、管財人の瀬戸英雄は、そのために人員も減らす必要を説明した。稲盛が社員の働き方を変える間、機構、裁判所、銀行、経営陣も、別々の条件を組み替えていた。[2]

財務が軽くなり、費用も下がった会社で、次の赤字を作らないためにどう働くか。稲盛が向かったのは、その毎日の判断だった。[76]

371カ月で17回の研修

航空の専門家へ語る

2010年6月、幹部約50人への集中研修が始まった。1カ月ほどで17回。稲盛が話したのは、リーダーはどう考え、人として何を基準に判断するかだった。[68]

相手は、長く航空の仕事をしてきた人々である。外から来た会長の、基本的な話へ反発する人もいた。後の社員座談会で大田嘉仁は、心構えを示す言葉を掲げようとしても、精神論では再生できない、ポスターを作る金もないと反対されたことを話している。最後はA4の紙を貼り合わせ、職場へ掲示した。方針を1枚貼ることから、ぶつかっていた。[77]

稲盛は幹部だけでなく、空港、運航、客室、整備の現場へ出た。社内のパソコンへ送るだけでは、自分の端末を持たない接客部門の社員へは届かない。本人のメッセージが社員1人ひとりへ伝わったか、そこまで確かめるよう求めた。再建計画を説明する相手は、役員会にいる人だけではなかった。[1][77]

38社員が自分の言葉にする

JALフィロソフィ

2011年1月19日、JALフィロソフィが社内へ公開された。大西社長の下で、運航、客室、整備、空港、本社のメンバーがまとめた共通の判断基準だった。[78]

手帳は上司から社員へ直接渡す。朝礼で読み、異なる部署や役職の社員が集まって話し合う。進行する側にも、パイロット、客室乗務員、整備士らが入る。外から来た会長の言葉を暗記するだけでなく、自分の仕事ではどうなるかを話す場を作った。[78]

理念の先頭へ社員の幸福を置くことには、反対もあった。人々へ迷惑をかけ、公的支援を受ける会社が、まず自分たちの幸福を言ってよいのか。大西は、社員が生き生き働いてこそ、利用者へよいサービスを届けられると考えた。[78]

若い社員11人に生活を問われた創業者の考え方は、今度は破綻した巨大企業の中で、別の人々の言葉になっていった。[25][78]

391便の数字を見えるようにする

現場へ返す採算

稲盛が就任して月々の決算を見たいと求めると、出てきたのは3〜4カ月前の数字だった。世界中の支店や空港から集めるには時間がかかるという説明に、本人は納得しなかった。いま会社がどうなっているかを知りたいのに、手元で見ているのは何カ月も前の姿なのだ。[72]

2011年4月、JALは部門別採算制度を導入した。売上と費用を現場へ近づけ、自分の行動がどの数字へつながるかを考えられるようにする。仕事の結果を知るまでの時間も、再建で変えなければならないものだった。[76][79]

ただし、飛行機は、各部門が勝手に安くしてよいものではない。運航、整備、客室、空港が受け渡し、安全を守って初めて1便になる。部門の数字と、全体の仕事を壊さない共通の基準を、両方動かす必要があった。[80]

制度の正式導入前に終えた再建1年目でも、営業利益は1884億円に達していた。債務の整理、機材と路線の変更、費用削減、意識改革などが並行して進む中での数字だった。[81][74][79]

しかし、この数字と同じ時期に、会社を去らされる人もいた。[3]

40大みそかの165人

解雇を争う社員

2010年12月31日、パイロット81人と客室乗務員84人、合計165人が整理解雇された。解雇された人々は、翌年1月に地位の確認を求めて提訴する。多くの雇用を残した再建の中で、自分の職を失った人たちだった。[3]

労働者側の弁護士の報告では、稲盛は会見や証言で、その時点の収益状況なら雇用を続けることも不可能ではなかった、という趣旨を述べたとされる。原告側は、それを解雇の必要性を疑う重要な言葉とした。[82]

解雇の有効性を争う裁判では会社側が勝ち、2015年に最高裁の決定を経て確定した。一方、機構の担当者らが、労組が争議権を確立すれば予定の出資はできないという趣旨を伝えた別事件では、支配介入の不当労働行為と認定された。こちらは2016年に確定した。解雇が有効であることと、その過程の労使関係がすべて適切だったことは、同じ結論ではなかった。[3][83]

社員の幸福を掲げる経営者の下で、会社は人を解雇した。法的な争いの結論が出ても、その人々の人生が元へ戻るわけではない。再上場を目指す会社の外で、元社員たちは裁判を続けた。[3][82]

41会社が再び市場へ戻る

2年8カ月後の上場

2012年9月19日、日本航空は東京証券取引所へ再上場した。会社更生法の申請から2年8カ月。旧株主、債権者、社員、利用者、支援した機関。多くの人が負担を引き受けた会社が、再び市場へ出た。[75]

機構は株式を売り、支援を終えた。会計検査院の記録では、出資に対する株式処分益や利息などを合わせ、JAL支援に係る損益は黒字となった。投入した資金を回収する形まで作ったことは、大きな成果だった。[74]

ただし、その回収が、債権放棄や旧株主の損失、離職者の暮らしまで取り戻したわけではない。会社が続くことと、関わった全員が元に戻ることの間には、なお距離が残った。[75][74]

自分が退ける体制

稲盛は、再上場より前から引き継ぎを進めた。2012年の会見では、自分がいるうちに、生え抜きの役員が執行する体制を作りたいと説明した。大西が会長へ、パイロット出身の植木義晴が社長へ移り、稲盛は取締役名誉会長となった。[79]

自分が来たことで変わった会社を、自分が去っても動く会社にする。京セラで仕事を小集団へ任せた頃とは規模も業種も違うが、最後に残る課題は、別の人が数字を見て判断できるようにすることだった。[79][28]

42知らない創業者に会う

80代で工場へ戻る

2015年から2016年、稲盛は京セラグループの工場や事業所を訪ねるセミナーを続けた。本人と会ったことのない若い社員が増えていた。会社に言葉は残っていても、なぜその言葉が生まれたのかを、直接は知らない。[84]

見学し、話し、食事の席でも社員と会う。国分工場では、自分から多くのテーブルを回った。不採算の事業所では、予定を越えて厳しく話すこともあった。感謝を伝える訪問は、変えるべきものを変えろと求める訪問でもあった。[84]

社員が毎日使う時間の先に会社がある。自分を知る人が少なくなっても、稲盛は本や記念展示だけへ仕事を預けず、もう1度顔を合わせようとした。[84]

43株の配当を次の学生へ

母校へ100万株

2017年、稲盛は鹿児島大学へ京セラ株100万株を寄付した。配当を将来性のある学生へ役立ててほしい。大学は基金を作り、教育と研究の支援へつなげた。[12]

現金を1度使って終えるのでなく、会社が生む配当を大学へ流す。兄に父を説得してもらい、教授の紹介で職を得た青年が、その後に得た資産を次の人の進路へ渡した。[12][11]

1994年に寄贈した稲盛会館には、両親の名を取るキミ&ケサ メモリアルホールがある。さらに2008年には、別の建物である稲盛アカデミー棟が開いた。経営や人の生き方を学ぶ場所も、母校へつくってきた。自分だけの名を残すのでなく、最初の暮らしを支えた人々の名も、学ぶ場所へ置いた。[12]

鹿児島大学の稲盛アカデミー棟。2008年9月撮影。
鹿児島大学の稲盛アカデミー棟。2008年9月撮影。
写真:ja:User:Sanjo/出典/Public domain。サイズ調整。

44最後の塾

自分で答えを出す

2019年末、盛和塾は閉じた。25人から始まった集まりは、国内56塾、海外48塾、約1万5000人の塾生へ広がっていた。稲盛が出席した勉強会は400回以上だった。[47]

最後の世界大会で求めたのは、これからも本人へ答えを聞きに来ることではなかった。経営者自身が自問し、学んだことを実践し、社員や家族へ広げてほしいと伝えた。教わった人が、自分の会社の出来事へ当てはめ、自分で決める時間が来た。[47]

45紙袋から航空会社まで

90歳の生涯

2022年8月24日、稲盛和夫は京都市内の自宅で亡くなった。90歳だった。京セラと第二電電の創業、日本航空の再建、財団と塾の活動。異なる役割を重ねた本人の生涯は、そこで終わった。[85]

紙袋を売る少年には、家で作ったものを買ってもらう必要があった。若い技術者には、粉を固め、管を割らずに切り、大きな磁器を乾かす方法が必要だった。創業者になると、社員の昇給と家族の暮らしを問われる。作るものが大きくなるほど、答えを出す相手も増えた。[9][15][22][23][25]

自分の家を担保にした恩人、大学への道を開いた兄、家庭を担った妻、製造を支えた社員、合格まで突き返した顧客。その仕事が積み重なって、稲盛は次の分野へ進めた。JALではさらに、資金を入れる機構、債権を放棄する側、毎日の便を動かす人々がいた。[17][11][14][30][74]

金を残し、人へ任せ、自分が関わる理由を問い直す。稲盛は、その考え方を違う会社の現実へ何度も当てはめた。うまくいったものの隣には、終えた事業も、解雇された人々も残る。製品や会社が残った後にも、そこで働いた人々の生活は続いていった。[43][3][75]

参考文献・出典 85件

本文の番号に対応する資料です。本人・関係者のインタビュー、当時の取材、企業の発表を参照しています。

  1. JAL会長・大西社長就任会見全文 2010年2月1日 ↩ 本文
  2. JAL瀬戸管財人・会長・社長の2010年5月会見 ↩ 本文
  3. 衆議院2020年質問主意書:165人の解雇と解雇有効判決・別件労働行為 ↩ 本文
  4. 稲盛和夫公式アーカイブ:泣き虫からガキ大将へ ↩ 本文
  5. 稲盛ライブラリー:母が教えた正直さ ↩ 本文
  6. 稲盛公式エピソード:1944年冬の肺浸潤と読書 ↩ 本文
  7. 稲盛公式年譜:出生から1962年 ↩ 本文
  8. 鹿児島市:1945年空襲による市街地被害 ↩ 本文
  9. Science History Institute 2010本人日英口述史:紙袋販売・進学箇所 ↩ 本文
  10. 鹿児島時代の稲盛和夫:大学紀要研究 ↩ 本文
  11. 稲盛ライブラリー:兄・利則のこと ↩ 本文
  12. 鹿児島大学公式:両親名のホール、2017年100万株寄付と基金 ↩ 本文
  13. 稲盛和夫公式アーカイブ:松風工業入社 ↩ 本文
  14. 稲盛ライブラリー:いい夫婦の日:同僚の朝子との結婚と家族への支え ↩ 本文
  15. 稲盛和夫公式アーカイブ:U字ケルシマ量産 ↩ 本文
  16. 稲盛和夫公式アーカイブ:松風工業退社 ↩ 本文
  17. 稲盛和夫公式アーカイブ:恩人たちとの出会い ↩ 本文
  18. 稲盛和夫公式アーカイブ:誓詞血判状 ↩ 本文
  19. 稲盛財団公式:設立者の履歴と役割 ↩ 本文
  20. 稲盛和夫公式アーカイブ:京都セラミック創業 ↩ 本文
  21. California State University本人顕彰記録:初年度売上・利益 ↩ 本文
  22. 稲盛和夫公式アーカイブ:カソードチューブの開発 ↩ 本文
  23. 稲盛和夫公式アーカイブ:水冷複巻蛇管 ↩ 本文
  24. 稲盛和夫公式アーカイブ:マルチフォームガラス ↩ 本文
  25. 稲盛和夫公式アーカイブ:高卒社員の団体交渉 ↩ 本文
  26. 稲盛和夫公式アーカイブ:初のアメリカ出張 ↩ 本文
  27. 稲盛和夫公式アーカイブ:滋賀工場 ↩ 本文
  28. 稲盛和夫公式アーカイブ:時間当り採算とアメーバ経営 ↩ 本文
  29. 経営史の原著研究:アメーバ間利害調整と経営権限の推移 ↩ 本文
  30. 稲盛和夫公式アーカイブ:IBMサブストレート ↩ 本文
  31. 京セラ公式:IBM試作品の色と品質問題 ↩ 本文
  32. 稲盛ライブラリー:1967年経営方針と専門的人材への転換 ↩ 本文
  33. 稲盛公式:1970年半導体パッケージへの設備投資 ↩ 本文
  34. 稲盛ライブラリー・1969年若狭湾での国際電話 ↩ 本文
  35. 稲盛公式年譜:1970年代 ↩ 本文
  36. 稲盛ライブラリー:2009年本人講話:1974年の受注急減と内部留保 ↩ 本文
  37. 稲盛ライブラリー・PHP側の史料研究:ダム経営の会場年代を再検討 ↩ 本文
  38. 稲盛ライブラリー:エメラルドの指輪と4年の開発 ↩ 本文
  39. 稲盛ライブラリー:ソーラー事業への進出と技術方式の転換 ↩ 本文
  40. 稲盛ライブラリー:電子部品の後発参入と水晶の価格競争 ↩ 本文
  41. 稲盛公式年譜:1980年代 ↩ 本文
  42. 稲盛ライブラリー:ヤシカ救済・長野岡谷工場 ↩ 本文
  43. 英国Science Museum Group:Kyoceraのカメラ事業史 ↩ 本文
  44. カナダIngenium博物館:京セラ製1983年TRS-80 Model100の実物記録(写真はNC、非採用) ↩ 本文
  45. 稲盛和夫公式アーカイブ:第二電電創業 ↩ 本文
  46. 稲盛ライブラリー:1980年青年経営塾を見た参加者と発足経緯 ↩ 本文
  47. 稲盛ライブラリー:盛和塾閉塾と2019年最後の講話 ↩ 本文
  48. 稲盛本人1984年創設文と京都賞の沿革 ↩ 本文
  49. 京都賞公式:3部門と選考・賞金 ↩ 本文
  50. 稲盛本人の通信事業参入講話:1500億円の現預金と1000億円のリスク枠 ↩ 本文
  51. 稲盛公式語録:動機善なりや、私心なかりしか ↩ 本文
  52. KDDI公式沿革:1984企画設立、1985自由化、2000合併 ↩ 本文
  53. 稲盛ライブラリー2F:第二電電営業・携帯地域分担・株式 ↩ 本文
  54. 稲盛本人『生き方』公開抜粋:携帯電話の地域分割と役員会の反対 ↩ 本文
  55. 稲盛ライブラリー・Aerovox/AVX契約見直し ↩ 本文
  56. 稲盛ライブラリー公式英語展示・AVX株式交換 ↩ 本文
  57. AVX自身の2018年10-K・Kyoceraとの関係 ↩ 本文
  58. KDDI小野寺正本人インタビュー:稲盛が第二電電株を持たなかったこと ↩ 本文
  59. 京セラ公式・京都サンガとスポンサーの歴史 ↩ 本文
  60. 稲盛ライブラリー・京都サンガへの支援と雪中練習訪問 ↩ 本文
  61. 杉江栄治本人・サンガ取締役管理本部長の回想(2017年5月1日) ↩ 本文
  62. 京都サンガ公式1996年戦績 ↩ 本文
  63. 稲盛公式年譜:1990年代 ↩ 本文
  64. 稲盛公式中国語アーカイブ:1997年得度と胃がん手術 ↩ 本文
  65. 稲盛公式年譜:2000年代 ↩ 本文
  66. 京セラ社員本人・1998年保津川下りの記憶 ↩ 本文
  67. 稲盛ライブラリー:社員本人の回想:動画教材と対面教育 ↩ 本文
  68. 稲盛ライブラリー:2010年6月JAL幹部17回研修 ↩ 本文
  69. 稲盛公式:児童養護施設・乳児院 京都大和の家創設 ↩ 本文
  70. 公文教育研究会・施設職員の実践紹介:京都大和の家の学習支援 ↩ 本文
  71. REVIC JAL支援業務の原公表資料一覧 ↩ 本文
  72. 週刊ダイヤモンド・稲盛和夫本人インタビュー(2013年6月17日) ↩ 本文
  73. 戦略経営者・大田嘉仁本人インタビュー(2019年1月) ↩ 本文
  74. 会計検査院:JAL3500億円出資・5215億円債権放棄・回収 ↩ 本文
  75. JAL会社公式史:更生法・100%減資と2012年9月19日再上場 ↩ 本文
  76. 鹿児島大学 奥健一郎原著論文:JAL部門別採算の導入時期 ↩ 本文
  77. PRESIDENT編集部構成・JAL社員座談会(2013取材/2016配信) ↩ 本文
  78. JAL伊勢田昌樹本人インタビュー:フィロソフィ教育 ↩ 本文
  79. JAL稲盛・大西・植木2012年1月17日会見:自らの退任と生え抜き体制 ↩ 本文
  80. JAL2013CSR 大西賢本人・柳田邦男対談:安全と経営改革(対象箇所) ↩ 本文
  81. 稲盛和夫公式アーカイブ:日本航空再建 ↩ 本文
  82. 日本航空2010年整理解雇をめぐる労組支援側記録と稲盛証言 ↩ 本文
  83. 中央労働委員会・労働委員会関係裁判例データベース:日本航空(東京地裁平成23年行ウ510号と上訴顛末) ↩ 本文
  84. 稲盛ライブラリー:2015–16年工場訪問、本人を知らない社員との接点 ↩ 本文
  85. 京セラ公式訃報:2022年8月24日没 ↩ 本文

写真の作者・利用条件・撮影年は各画像の下に記載。取材資料と写真の出典は別々に確認できます。

※ 円換算は2026年11月2日確認のWise表示値(1米ドル=157.6円)を使用。取引当時の為替や物価・購買力を再現するものではありません。 為替出典:USD

本文更新:2026-11-02

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