THE STORY
正垣泰彦の物語
選んだ道。その先で、起きたこと。
016人しか来ない店
階段の下に八百屋がいた
店の入口に野菜が並んでいた。自分の店の野菜ではない。1階の八百屋の商品が、2階へ続く狭い階段をふさいでいる。隣にはアサリ屋もいた。千葉県市川市の住宅街と商店が集まる本八幡で、正垣泰彦が引き受けた洋食店は、客を迎える前から通りにくかった。1日に来る客が6人しかいない日もある。店を開けているだけで、従業員の給料が生まれるわけではなかった。[1]
17坪に37席。あとに千数百店へ増えるチェーンの原型と呼ぶには、ずいぶん窮屈な出発だった。しかも正垣は、好きな場所を選んで自分の看板を掲げたわけではない。父の知人から回ってきた不振店を、店の名前ごと引き受けた。自分と一緒に働きたいという仲間がいた。彼らが働く場所を用意したら、客の少ない2階の店の責任者になっていた。[1][2]
1967年7月に始めた店だった。正垣は営業時間を延ばした。翌朝4時まで開け、店に泊まった。立地が悪いなら、ほかの店が閉まっている時間まで働く。すると今度は、夜更けまで開いている店ならではの客が集まった。あるとき客同士の喧嘩が起き、石油ストーブが倒れた。火が出た。給料を払うために守ろうとした店が、焼けた。[3][1]
正垣は東京・中野の実家へ帰った。ついてきてくれた仲間に働く場所を用意したはずが、その場所ごと失った。[4][1]
東京の実家へ戻った息子を、母はもう1度店へ送り出した。正垣は大家に頼み、借金をして建て直す。だが再び屋根と厨房を用意しても、あの階段を客が上がってくる理由までは作れない。何を出せば人は来るのか。そこから、数十年にわたる値段と料理の実験が始まる。[4][5]
母がいつも話していたのは、身に起きたことを自分のためになるものとして受け止める考え方だった。再開した店では、料理だけでなく仕入れる相手や値段も変えていく。[6]
02医者の家から皿洗いへ
生野の広い家
1946年1月6日、正垣は兵庫県中部の銀山で知られる生野町、現在の朝来市に生まれた。代々医者の家系で、家にはトイレが5つもあった。グランドピアノもあった。後に小銭で食事のできる店を全国へ広げる男の出発点は、豊かな家庭だった。[2][4]
地理データ:Natural Earth(パブリックドメイン)。 湖の補助データ:© OpenStreetMap contributors(ODbL)。使用データ。現代の地理と都市の代表位置。出生宅・移動経路ではありません。編集部作図。
医師が続く家には、勉強して進める道も、困ったときに相談できる父もいた。のちの店を父が紹介し、会計を教える税理士にも父が引き合わせる。自分の力だけで1軒を手に入れたという始まりではない。その足場に立った若い正垣が選んだのは、家業とは違う、毎日の食事を売る商売だった。[2][6]
小学校2年のころ、父の仕事で東京・杉並区の住宅地、荻窪へ移った。大人になったら父と同じ医者になる。そんなふうに素直に進路が決まった少年ではなかった。誘われれば断れず、友人と遊ぶうちに集団の中心に立つ。高校時代には近所の事件の捜査をきっかけに、以前の問題行動まで学校へ知られた。事件自体には関係していなかったが、退学になりかけた。教師が学校に残る道を守り、大学へ進むよう勧めた。[2][7]
数学と物理は好きだった。一方で国語には苦手意識があった。教師に勧められた進学へ向け、好きな科目を使って勉強へ向き直った。[4]
実験室へ戻るはずだった
正垣は数学と物理を選んだ。東京理科大学へ進み、物理を学ぶ。得意だと思っていた物理の最初の前期試験は30点だった。それでも卒業研究では鉛の単結晶を扱うまでになった。研究室で実験を続けたい。その時間を取るため、働いていた食堂を辞めようとした。[4][2]
その食堂は、しょっちゅう人が辞めて求人を出していた。正垣は皿を洗い、生ごみを4階から下ろした。[2]
皿洗いやごみ出しなら、店の誰かがやらなければならない。正垣が動けば、その人の手が空く。本人が講演で振り返ったのも、自分のしたことで仲間が喜び、それが嬉しかったという経験だった。[5]
辞めると伝えたとき、同僚が意外なことを言い出した。正垣が別の店を始めるなら、自分たちもついていくという。卒業論文を書く時間を作りたい学生に、仲間と働く新しい店の話が持ち込まれた。父へ相談すると、知人の不振店を紹介してくれた。それが本八幡のサイゼリヤだった。自分で考え抜いた事業計画より先に、働く仲間と、父の紹介と、うまくいっていない店がそろった。[2][3]
03行列を作った7割引
図書館でトマトを調べる
火災のあとに店を立て直した正垣は、図書館へ行った。世界では、どんな食材が大量に作られているのか。小麦やトマトの生産量に目が留まった。難しい仕込みを店ごとに重ねるより、広く使われる食材で多くの人が食べる料理を作れないか。若い店主は、客の好みだけでなく、食べ物が生産される側へも目を向け始めた。[5][8]
イタリア中部の首都ローマでは、客がワインと食事を楽しむ光景を見た。特別な日にだけ奮発するのでなく、普段から食卓を囲める。その豊かさを日本でも作りたかった。店をイタリア料理へ変える。しかし自分が良いと思った料理を出しても、席は埋まらなかった。[9][7]
日本では特別に見える料理が、別の国では普通の食卓にある。自分の店でも、客が気軽に組み合わせて楽しめる値段を作りたい。ローマで見た人々の食事は、その後の料理だけでなく、価格を考える目安にもなった。[9]
階段で帰れなくなる客
そこで、値段を下げた。全品7割引にした。[8]
価格の7割を引けば、店が受け取るのは元の3割になる。それでも売りたい料理を高いまま並べ、客が来るのを待つより、食べてもらえる値段を試した。店の外から見える立地は変わっていない。入口へ物が並ぶ階段も同じだった。変えた値段に、客が反応した。[8][6]
それまで客を待っていた階段に、今度は人が並んだ。食べ終わった客が、上がってくる客に阻まれて帰りにくくなる。後に取締役になる山本慈朗は、その混雑を覚えていた。厨房も席も、増えた客を受け止めきれない。2号店を出したのは、まだ食べられない人に場所を用意するためだった。[10]
さらに、以前は邪魔に見えた1階の商人たちから野菜やアサリを買った。サラダとボンゴレを出せば、上の店が繁盛するほど下の仕入れ先も売れる。彼らは客を呼び込む側へ回った。客が入らない理由だと思っていた相手が、客を増やす仲間になった。階段を広げられなくても、階段をはさんだ関係を変えることはできた。[6]
ただ、7割も引けば儲かるとは限らない。正垣は割引を小さくし、価格を戻してみた。すると客が止まった。行列を見て、もっと取れるはずだと考えても、財布を開くのは客である。いくらなら繰り返し食べに来るのか。紙の上で望む利益を足すのでなく、値段を動かしたときの客の反応で確かめた。[5]
1000店を口にする男
1973年5月、資本金100万円でマリアーヌ商会を設立した。1977年12月には市川北口店を3号店として開いた。自分のいる1軒が回ればよい段階から、離れた店でも同じ食事を出す段階へ進んだ。[3]
途中では500坪もの大きな店を出したが、サービスが追いつかなくなった。[4]
広い店の中で、料理を作る人、注文を伝える人、運ぶ人が動く。サービスが追いつかなければ、客を増やせるはずの席が待ち時間を生む。500坪の店でつまずいた後も、多店舗化の方針は変えなかった。[4]
まだ10店にも届かないころ、福島の農家に1000店をやると話した。目の前の店を回す一方で、いずれ使う野菜を作る場所を探していた。[10][11]
農家の鈴木敏暉は、周囲で大ぼら吹きだと話したことを覚えていた。正垣の店を1000軒見た人は誰もいない。それでもまだ少数の店しかない経営者は、いずれ使う大量の野菜を作る場所へ先に入ろうとしていた。[10]
食品会社へ頼みに行く
3号店まで客が入ると、正垣には、同じ仕事を1000店へ広げる道が見え始めた。ところが、店長とコックを1人ずつ育てる速さでは追いつかない。大きな厨房へ料理人を集めても、作れる量には限界がある。材料をまとめ、調理の一部を食品メーカーへ頼めないか。正垣は大手の会社へ出向いた。[4]
後の本人取材では、初めはどこの誰なのかという扱いだったと振り返っている。まだ数店のレストランから、同じ味を大量に作ってほしいと持ち込まれても、相手にすぐ通じる話ではなかった。それでも1社に引き受けてもらい、多店舗へ届ける体制を整えていく。工場の力を使う道へ入っても、いずれは自分たちの工場を持ちたいという考えは残った。[4]
包丁を握るコックを店舗の数だけ増やす道から、食品を作る技術者の力で店の作業を減らす道へ。前半の調理を別の場所で済ませれば、厨房へ入る新人にも扱える仕事が増える。正垣が外のメーカーへ頼みに行ったのは、食べ物の味をそろえながら、店を増やすためでもあった。のちに味の素の技術者を誘う構想は、この仕事の先にあった。[4][12]
04人を安く使う店にはしない
勉強会で引っかかった言葉
大家に勧められて経営者の勉強会へ出たとき、人をうまく使えば利益が出るという話を聞いた。どういう意味か尋ねると、安く長く働いてもらうという説明が返った。正垣が仲間と始めたかった仕事は、それではなかった。[13]
正垣は、仕事のやり方を覚えれば別の場所でも食べていけるようにすることが、社長の役目だと考えた。店の安さを、仲間の給料を削ることで支える会社にはしたくなかった。[13]
モデルになる企業はあった。McDonald'sである。すでに大量の店を運営する会社を見れば、1軒ずつ料理人を増やしていく以外の方法があるとわかる。工場やセントラルキッチンで先に準備すれば、店舗での作業を減らせる。食材メーカーとも組み、加工と配送まで含めて設計する。正垣が後に製造直販を目指すと話したのは、安い値段を、働く人の我慢だけで支えたくなかったからだ。[13][12][3]
税金を払わせた税理士
父が引き合わせてくれた税理士が長田正俊だった。最初の店を始めて間もない正垣へ、税金をきちんと払うよう求めた。商品の力で社会へ貢献するのだから、税金はできれば払いたくない。若い経営者のそんな理屈を、長田は認めなかった。[6]
税金を避けるために経費を増やして赤字にすれば、会社へ蓄えが残らない。正垣は渋々従い、後にその指導の意味を理解したと話す。料理と価格を考える店主の隣に、現金を残し、会社を続ける順番を教える相手がいた。[6]
八百屋とアサリ屋との関係を変えた店主は、税理士にも教わり、外の食品メーカーの技術も借りた。厨房の中へ新しい仲間を入れるたびに、料理を作る以外の仕事を覚えていった。[6][12]
値札を見ずに選べる食卓
20店舗ほどの時代に、学生アルバイトとして入った松村厚久は4年間働いた。後に独自の飲食店を広げる経営者になる松村は、客から感謝される仕事をここで経験した。高級店で特別な1皿を出すだけが、人を喜ばせる方法ではなかった。[14]
その松村が見ていたのは、厨房でフライパンを振る正垣だった。朝から晩まで客が並ぶ店で、料理を出したアルバイトへも客が礼を言い、また来ると告げた。働き始めて数か月で、松村は飲食業を自分の仕事にしたいと感じた。後に始めたDiamond Diningは、サイゼリヤと違い、店ごとに異なる世界観を作る方向へ進む。正垣の店は、同じ店を増やす会社の中で、別の店を始める人も育てていた。[14]
正垣が作りたかったのは、値段を気にして食べたいものを諦めなくてよい店だった。好きな料理を頼み、家族や友人と食べる。そのためには、安くても会社に利益が残り、働く人が疲れ切らない必要がある。低い値札の裏側には、仕入れから片付けまで見直す仕事が積み上がっていった。[9][11]
05売れたせいで苦しくなる
ミラノ風ドリアの出発点
1983年、従業員のまかないからミラノ風ドリアが商品になった。ご飯にソースを重ねて焼く。後にサイゼリヤの名前と結びつく料理は、働く人たちの食事から生まれた。[15]

写真:Guilhem Vellut/出典/CC BY 2.0。表示用縮小。写り込む商標の権利は各権利者に帰属。
発売後もドリアの改良は続いた。材料の使い方と作業を変え、もっと手頃に出す。看板の料理が売れているからといって、その作り方を触らずにおく会社ではなかった。[15][16]
店は増えた。1989年からロードサイドへの展開を進め、1994年7月には江ノ島店で100店舗に達した。ところが、大きくなるほど安定するはずの商売で、正垣はまた価格を動かして失敗する。値上げすると客が減り、元に戻した。小さな2階の店で起きたことが、100店の会社にも起きた。[3][4]
当時の値上げには、客を減らして提供を追いつかせたいという事情もあった。行列ができても、待たせてばかりでは食事にならない。ただ正垣は、安く仕入れられるようになった材料を使って価格を上げることに違和感を持ち、元へ戻した。客数を値段で抑え込むだけでなく、来た人へ出せる量を増やす。100店になった頃の判断も、厨房と価格を一緒に考えるものだった。[4]
テレビのあとに来た苦情
テレビに出ると、1時間に来る客が2倍、3倍になった。人気が出た。しかし料理を出す能力まで、その瞬間に増えるわけではない。1時間も待たせ、苦情が出た。ようやく混雑が落ち着くころには、普段の客まで離れ、客数が以前より2〜3割減っていた。[17]
1994年の放送は1時間ほどの紹介だった。その後の混雑が過ぎても、客数は元へ戻らない。正垣は、来た客が誰かを連れてもう1度来る店へ立て直す必要に迫られた。[18]
知名度が上がったのに、店は苦しくなった。正垣は、広告で人を呼ぶ前に、来た人へ確実に料理を出せる状態を作らなければならないと学んだ。注文の取り方、材料の準備、皿を運ぶ動線。混雑するとどこで止まるのかを、細かく調べて直した。[17][19]
プロシュートやペペロンチーノも加え、メニューと作業を組み直した。遠くへ広告を打つより、食べた客が誰かを連れて戻る店へ立て直そうとした。来店者を増やす施策と、料理を届けられる量の改善を切り離せない。最初の7割引では階段から帰れない客が出た。今度は100店のそれぞれで、その後に客を失う苦さを味わった。[18]
理系の新入社員も厨房へ
1995年の取材で正垣が示した翌春の大卒採用予定者は250人。その3割ほどが理系だった。正垣は数字で現場を捉えられる人を求めた。ただし入社した理系社員が、すぐ研究室へ配属されるわけではない。まず厨房へ入る。皿を出す現場を知らずに、その仕事を設計することはできなかった。[17]
1998年4月、株式を店頭登録した。その朝、母から手紙が届いた。会社が大きくなったことへの祝福より、正垣が傲慢にならないかを心配する内容だった。焼けた店から実家へ帰ってきた息子へ、もう1度やるよう促した母は、上場を迎えた息子にも別の物差しを向けていた。[3][18]
手紙には、成功や強さだけを求めても、弱さや失敗から別のものを受け取るという趣旨の詩があった。若い頃の火災のあとも、母はもう1度やってみるよう背中を押した。会社が株式市場へ出る朝には、うまくいった人間が自分の力だけを信じすぎないよう別の言葉を渡した。店を紹介してくれた父とは違う形で、母も息子の節目に関わり続けた。[1]
061番売れる料理を190円下げる
480円から290円へ
1999年、正垣はミラノ風ドリアを480円から290円へ下げた。190円の値下げだった。売れ残りを処分したのではない。いちばん売れる料理から、さらに値段を削った。[15][4]
下げ幅は小銭の調整ではない。1皿の価格から約4割を引く。最もよく売れる商品をそれだけ安くすれば、同じ数だけ売る店の売上は減る。それでも先に値下げを決め、増えた量を扱える工場の規模で採算を合わせていった。すべての準備を済ませて余った利益を還元した順番ではなかった。客が食べやすい値段を先に置き、会社の側をそこへ近づける選択だった。[20][15]
値下げした分を数で取り返すなら、増えた注文を出せなければならない。テレビのあとに客を失った会社には、それがわかっていた。作る人の手を速くするだけでなく、店へ届くまでの作業から変える。1997年には埼玉県の吉川工場ができ、2000年にはオーストラリアの製造子会社、2001年には神奈川工場と福島の精米工場が加わった。[3]
白いご飯を見落とさない
取材していたライターの古賀史健へ、正垣は白米の話をした。イタリア料理の店なのに、白いご飯。注文された皿の数だけで比べると、客が実際に口へ入れる量を見落とす。ハンバーグに添えるご飯も、食事の大きな部分を占めていた。[21]
毎回違うおかずを選んでも、ご飯は繰り返し食べられる。古賀が意外に思ったのは、イタリア料理の経営者が、商品の名前よりも、客が日々食べる量を見ていたことだった。[21]
だから米を買い、炊飯器へ入れて終わりにしなかった。契約農家と田植えから収穫まで関わり、自社で精米する。精米してから炊くまでの時間も調べた。客が食べる状態からさかのぼると、改善する場所は店の外にもある。小さな洋食店を引き受けた学生の仕事は、田んぼから炊き上がるまでをつなぐ仕事へ変わっていた。[21]
073万円の夕食から始まった採用
3万円でもおいしいと言わない
味の素で働いていた堀埜一成を、正垣は口説いた。クリスマスイブ、ホテルで1人3万円ほどの料理を囲んだ。堀埜の回想では、正垣は料理をおいしいとは言わなかった。高額な食事をしたから満足するのではなく、値段と料理を切り離して確かめる。安い食事を売る社長の観察は、高級な席でも止まらなかった。[22]
堀埜を最初に誘ったのは、味の素のブラジル工場で一緒だった元上司だった。何度誘われても断った。そもそもサイゼリヤをよく知らず、看板にワインとあるのを見ても、酒を飲めない自分がなぜそこへ行くのかと思っていた。2年ほど誘いが続いた後、最後に創業者にだけ会ってほしいと言われ、ホテルの席へ来た。[23]
堀埜は2000年に入社した。食品の技術者が、レストランの会社で何をするのか。まさに正垣が欲しかった仕事だった。店の厨房だけで解けない問題を、食材や製造工程から解いていく。[24][25]
正垣が示したのは、農業と食堂業を産業にする仕事だった。工場の生産管理を経験した人へ、レストランの席だけを見せなかった。後に堀埜が振り返ると、正垣は大きな構想を話せば自分が動くと見抜いていた。料理への意外な批評と、経験を使える未知の仕事。その2つに引かれた技術者を、正垣は会社へ迎え入れた。[23][22]
ソースをオーストラリアで作る
日本で同じことをしたら、この値段にはならない。2009年の説明で堀埜は、ミラノ風ドリアのホワイトソースをオーストラリアで作る理由を語った。原料や生産の条件を選び、現地で製造し、日本の店へ届ける。国内の店がどれだけ節約しても届かない価格へ、製造する場所から近づいていった。[24][26]
日本で安い仕入れ先を探すだけでなく、乳製品を大量に扱える国でソースを作る。2000年に設立した現地の製造子会社は、ハンバーグやホワイトソース、ミートソースを担った。日本の厨房で最後に火を入れるまで、別の国の原料と工場の仕事がつながっている。海外に工場を持つことは、その後、豪ドルの為替変動を会社が引き受けることにもなった。[3][27][12]
野菜も同じだった。品質、量、時期をそろえて届けるには、農業そのものが難所になる。レストランへ運び込まれたあとに選別して捨てるのでなく、その前で何ができるか。正垣たちは、畑まで入っていった。[28][23]
レタスより先に岩を砕く
福島県南部の高原地帯、白河で農場を整えると、畑の地中から岩が出た。大きな岩を1週間に1つ取り除くようなやり方では進まない。正垣は私財1億円を投じて岩を砕く機械を入れた。深さ40センチほどまで砕き、井戸も掘った。安いサラダを店へ出す道は、土の下から始まった。[23]
レタス単体で黒字になったのは2008年だった。しかし翌年は不作になった。2011年には東日本大震災と原発事故が起き、出荷を止めた。1度成功した手順を繰り返せば、毎年同じ野菜ができるわけではない。[23][29]
農場を開設した頃に福島へ来た矢作も、元は別の部署の人間だった。最初の年にできたのは小さなレタスばかり。手応えを得るまで約6年かかったと、2023年の現地取材で振り返る。失敗するたびに正垣は、どう克服するかを考えることに面白さを見ていた。苗を育てる現在の仕事の前に、使える野菜を作れない年が続いた。[28]
2023年の現地取材では、約50戸の契約農家へ苗を無償で供給していた。野菜の仕事は自社だけで完結させず、周囲へ広がっていた。[28]
レタスの大きさや葉の柔らかさ、内側の色。店のサラダに使う条件を、苗の段階からそろえる。一方で、真っ赤な同じ大きさのトマトを長い距離運びたいという希望には無理があった。工場で切って出す形へ変えた。農家へ店の都合だけを押し付けず、料理を出す側も合わせた。[28]
08上海でも値段を下げる
家賃が売上を上回る店
2003年、サイゼリヤは中国東部の商業都市、上海へ進出した。日本の仕組みを持ち込んでも、最初から客は来なかった。家賃が売上を上回る状態になった。高い家賃を回収するために料理を高くすれば、さらに客を遠ざけかねない。店員が辞め、現地からは値上げを求める声が届いた。それでも正垣は価格を下げる。すると客が並んだ。目先の家賃を客の少ないまま回収しようとするより、まず食べに来てもらう道を選んだ。[3][9]
客が来る価格に合わせる。ただし、日本と同じ安さを、中国の別の家賃や人件費や仕入れで成り立たせなければならない。場所が変わるたびに、答えを作り直す仕事だった。[4]
海外の店で人を育てる
会社の拠点は上海だけでなく、台湾、香港、シンガポールへ広がった。シンガポールには2008年9月に会社を設立した。日本と同じ名前の店が、異なる言語を話す客の食事の場所になる。2003年の上海の苦戦のあとも、海外そのものから撤退する選択にはならなかった。[3]

写真:Choo Yut Shing/出典/CC BY 2.0。表示用縮小。写り込む商標の権利は各権利者に帰属。
店へ入る新人にどう教えるかは、日本でもまだ変えている最中だった。堀埜は、取締役を集める勉強会から始めた。現場の社員は違う店へ散らばり、同じ場所で先輩の仕事を覚えられる人数も少ない。1人の達人ができるだけでは、別の店舗へ渡らない。まず教える人を育てる。そのための勉強を、すでに役職のある人にも求めた。[30]
海外事業から利益を急いで吸い上げるより、次の人材へ使う。その間は日本が稼ぐという方針を、堀埜は2011年の取材で示した。創業者が譲ったのは、完成した正解を守る席ではなかった。安い料理を出せる会社を、別の国でも動かせるように作り直す仕事だった。[30]
399円でエスカルゴを出す
安い料理だけを集めると、選ぶ楽しさまで小さくなってしまう。2019年、エスカルゴは399円で出されていた。ヨーロッパの農場とつながり、使うバターや加工を組み合わせる。小エビ、ドレッシング、ワインも、店頭価格だけ見れば不思議な安さだった。[31]

写真:clvs7/出典/CC0。表示用縮小。写り込む商標の権利は各権利者に帰属。
正垣は小エビのサラダに合わせるドレッシングにも関わった。ワインと食べたときに魚介や野菜の味がどう合うかを、自分で確かめた。価格が低いから、ただ腹が満たされればよいという商品にはしない。エスカルゴを頼む客も、ワインと小皿を組み合わせる客もいる。厨房で大量に出せる料理の中に、客が普段の食事を少し広げられる選択肢を置いた。[31]
ワインは産地まで行って選び、直接輸入した。チーズやオリーブ油も扱い、温度を保つ倉庫へ入れる。ローマで見た食卓を日本へ持ってきたいと思っても、輸入品をそのまま仕入れて足せば高くなる。手頃な値段で出すために、会社は運び方と保管の仕方まで変えていった。[9][31]
店が50店を超えた頃に始めたワインの直接輸入は、その後スパゲッティ、オリーブ油、生ハム、チーズへ広がった。会社の説明では、ハウスワインも必要な分をその都度ボトルへ詰める。飲み手が100円のグラスを見るよりずっと前に、産地との取引と保管の仕事がある。国をまたぐ相手と長く関係を作り、量を集めて運ぶことで、店の値札を抑えた。[27]
09ピザを止めた日
生地からメラミンが出る
2008年10月、会社の検査で、中国の委託工場が製造したピザ生地からメラミンが検出された。安さのために組み立ててきた供給網が、客の安全を脅かす。サイゼリヤは販売を止め、対象のピザを食べた客への返金を進めた。[32][33]
創業者の名で謝罪文を出した。原因と考えた乳製品を外し、対象商品の提供期間を示した。工場へ集めて加工する仕組みなら、店舗の厨房で食材を見ただけでは確かめられない部分も増える。安く大量に届ける会社は、問題が見つかったときにも、どこで作られ、どの店へ届いたかをたどらなければならなかった。[33][32]
10月19日付の告知では、10月1日と2日に関東・東北の店舗で提供した商品などについて説明した。10月3日以降に提供した製品では、原因と考えた乳製品を原料から除いていた。会社は検出量が微量で健康への影響はないと説明したが、それで客が不安を覚えないわけではない。何を食べたのか、代金はどうなるのか。店には、料理を出す以外の対応が押し寄せた。[33]
返金を決めて自ら会見する
正垣は店へ謝罪の掲示を出させ、10月21日には自ら会見を開いた。原因と対策を説明し、迷惑をかけた客へ全額を返す。取締役にも、この程度の管理ができない会社なら存続を当然と思うべきではないという厳しい考えを示した。客が不安を覚えることを、微量だからと退ける対応にはしなかった。[32]
後の取材で示された返金総額は約1000万円。想定していた8000万円より小さく収まった。11月5日には国内産の生地へ替えてピザを再開した。品物を止め、謝り、材料を替え、また客へ出す。看板を広げた会社にとって、毎日の料理を続けるために必要な手順だった。[32]
しかも、この年の危機は食材だけで終わらなかった。12月には、料理を売る会社から想像しにくい巨額の損失が出る。
10153億円を失う
為替への備えで傷を負う
2008年12月10日、サイゼリヤは金融派生商品の契約解除に伴う損失を発表した。153億円だった。オーストラリアとの取引で、為替の変動に備えるための契約だった。海外で作って安く届ける仕組みを守ろうとした金融取引で、会社は大きな傷を負った。[34]
料理の値段では1円や数十円を削る会社で、損失は153億円。食品の原料を売買しただけで出た数字ではない。豪ドルに関連するデリバティブ契約が、相場の急変で重い負担になった。正垣は専門家の助言を受けていたが、変動を想定できなかったと説明した。食材を海外で作る選択の先に、本人が得意としてきた厨房の実験では測りきれない金融の危険があった。[12][34]
店が赤字になって、その額を積み上げたわけではなかった。料理を売る本業の外で、一気に巨額が消えた。正垣は役員報酬を1年間、70%減らした。客へ安さを約束する経営者が、自分の判断の代償を引き受けることになった。[34]
100店を預けてから社長にする
2009年4月、正垣は社長を退き、会長になった。後を継いだのは堀埜だった。社長就任の打診から重圧で体重を落としたことを、本人は後に振り返っている。[35][22][25]
社長候補は堀埜1人だけではなかった。数年前から複数の人を集め、それぞれに事業部を預けていた。堀埜も100店ほどを動かした後、仕事の進め方を変える変革推進部を作った。その半年ほど後の1月に、4月から社長を任せると伝えられた。研究所や工場を経験してきた人にも、1万人近い従業員と家族を支える責任は別の重さだった。就任までの3か月を、堀埜はプレジデントブルーと呼んだ。[36][25]
正垣は、潰してもいいというほどの言葉で堀埜に任せた。守るべきなのは考え方で、それ以外の仕組みは変えてよい。創業者のやり方を全部保存させたら、次の社長は自分で判断できない。正垣は席を譲ったあとも店を食べ歩き、堀埜はその隣で、自分の経営を作っていった。[36]
堀埜は最初、その言葉を冗談だと思っていた。だが重圧の中で考え直し、会社が客に必要とされる仕事をしていれば、自分が失敗して辞めても会社は残ると受け止めた。創業者と同じ答えを出し続けることが仕事ではない。正垣の許可を待つ経営から、自分で変えて結果を引き受ける経営へ進む。その余地を与える言葉として、堀埜は後に話している。[36]
成績の低い管理職が先生になる
堀埜が直したのは、現場の育ち方だった。最初から教育が得意な人だけを集めたわけではない。[37]
教育役になったのは、成績の低いエリアマネージャーと、話すのが苦手で目標を見失っていた地区長だった。まず本部で新しい作業を覚え、各地区へ教えに出る。気が進まなかった2人も、何度も説明しているうちに上達した。評価の低かった人が別の仕事を担い、自分が理解していることと、伝えられないことを確かめる機会になった。堀埜は、創業者の理念を残しながら、育つための仕事の配置を変えた。[37]
堀埜は教え方のうまい地区長を見つけると、自分でカメラを回して動画を作った。客をどの席へ案内するかを競うiPhoneアプリも用意した。空いた席へ順に入れればよさそうでも、選び方によって案内できる人数が変わる。上手な店員は1時間で100人を超えた。堀埜自身は80人ほど。社長の方が現場の人よりうまいとは限らない。その差まで、練習する画面で見えるようにした。[38]
報告も数字を並べて終わりにしなかった。結果と、そこから何を考えたかを一緒に出す。現場で作業をこなす力と、複数の店を動かす力は同じではない。人が育つ過程まで、料理の作り方のように分解しようとした。[37]
接客、数字の管理、品質、教育、問題を見つけて直す仕事を分け、誰が何を判断するかも見直した。役職が増えるたびに、許可を求める相手だけが増えては動けない。店の作業を分けて考えた会社は、人の役割も整理し直していった。[37]
113億円の倉庫で厨房を作る
地震が止めたもの
2011年の東日本大震災では、福島の農場が出荷できなくなった。停電も、店の裏側にある仕組みを止めた。客席が使えても、工場や冷蔵設備や配送が止まれば料理は出ない。計画停電への対応で食材を捨てることもあった。[23][38]
その後、約3億円を投じた倉庫に、厨房を再現する場所を作った。発泡スチロールなどで設備を仮に組み、調理する人が何歩動くか、どちらを向くかを確かめる。1回の動きを削るだけでも、全国で何度も繰り返せば差になる。頭の中で効率を語るのでなく、体を動かして確かめた。[38]
正垣が理想に挙げたのは、狭い空間で必要なものへ手が届く宇宙飛行士のような動きだった。発泡スチロールの模型へ人が入り、場所を変えて体を動かす。全店で本物の設備を入れ替える前に、実験施設で配置を確かめた。[38]
厨房の足元を支点に動けるようにし、料理をすぐ運べる場所へ置く。完成した料理を大量にためる広い空間より、できたものが流れる小さな場所を考える。店員が忙しく走り回る風景を、努力の証拠として喜ばなかった。走らなければ回らないなら、作り方を変える余地があった。[38]
堀埜は開店前の掃除も見た。掃除機のヘッドは幅約30センチ。幅1.2メートルの場所なら何度も往復し、移動すればコンセントを差し替える。それを幅1.2メートルのモップへ替えれば、同じ幅を1回で進める。営業時間中の仕事を大きく変えるより、まず開店前の作業から直した。料理が1皿も売れない準備時間に、店員の手間が積み重なっていた。[38]
1000店という約束が現実になる
2011年6月、大阪市のフォレオ大阪ドームシティ店が1000店舗目となった。まだ少数の店しかなかった頃、福島の農家へ話して大ぼらだと受け止められた数だった。1軒の立地を恨み、客の入る値段を探していた店主の会社は、本人が全店の厨房へ立てない規模になった。[3][10]
その前には、50店、100店、300店と増えるたびに、料理を作って届ける場所も増やしてきた。2015年にはグループの年間客数が2億人を超えた。大勢が食べる店を作りたいという構想は、料理を運ぶ店員、原料を作る人、別の店の仕事を教える人の連なりになっていた。創業者の手だけで続けられる大きさではなくなったからこそ、堀埜へ任せた後にも教育と設備を作り直す仕事が残った。[3][30]
トマトを育てる場所も戻す
仙台では、震災後の地域でトマト農場を整え、栽培と人材育成に取り組んだ。日本の東北地方で、店へ届く原料を育てる。価格を守るための研究は、工場だけに閉じなかった。[27]
農場は単に本社の指示どおり作る場所にはしなかった。栽培方法や品種を試し、人が学ぶ拠点にもした。収穫時期の違う畑、材料を加工する工場、毎日注文を受ける店をつなぐには、離れた現場から情報を集める必要がある。どの店で何がどれだけ売れたかを、数か月先、時には数年先に必要な原料の計画へ返す。料理を出し終えた後の売上データが、まだ種をまいていない畑の仕事にもつながった。[27]
2013年には、BOOKOFFを創業し「俺の」シリーズを展開した坂本孝とも対談した。手頃な価格で価値のある料理を出すという関心は近くても、作る店の形は違った。サイゼリヤの席と厨房は、正垣が失敗のたびに作り直してきたものだった。[39]
坂本は繁盛する星付きレストランと立ち飲み店を見て、2つを組み合わせる店を考えた。行列があれば並び、閉店セールがあれば見に行く。一方の正垣は、自分は1つのことしかできないと話し、次々に商売を始める相手へ、どう新しい事業を見つけるのかと尋ねた。2人とも手頃な値段で良い料理を出すことを考えていたが、着想を得る場所は違う。サイゼリヤだけを長く作り直してきた正垣にも、外の経営者へ聞きたいことがあった。[39]
12創業者の味覚を残せるか
会長の脳を測る構想
厨房の形は図面にできる。だが正垣が味のわずかな違いを感じる感覚は、同じようには渡せない。堀埜たちが2010年から取り組んだ脳波研究の出発点には、創業者の味覚を記録できないかという構想があった。2019年の本人取材で堀埜が明かした理由だった。正垣の感覚を言葉だけで周囲へ伝えるのが難しかったのである。[40]
ただし、2019年の時点では正垣本人の脳波採取はまだ行っていなかった。別の試食などに装置を使い、研究を進めていた段階だった。創業者の味覚を再現する仕組みが完成したわけではない。社長の席を渡しても残る、本人だけが持つ感覚をどう継ぐかという課題に、会社は測定器を使って近づこうとしていた。[40]
難しい間違い探しに会長が怒る
キッズメニューの間違い探しにも、2人の距離が現れた。堀埜はテレビ番組の難しい問題をヒントに、10個のうち1個か2個を極端に難しくした。客から難しすぎるという声が来ると、正垣にもやりすぎだと叱られ、いったん簡単になった。だが堀埜が社長になった後、担当者が復活を申し出ると認めた。[40]
その代わり、食育につながるテーマを持たせる。いつも難しいだけでは楽しめないので、ときどき簡単な回も作った。会長が何でも許したわけでも、後継者が会長の判断を全部そのまま守ったわけでもない。紙の上の遊び1つでも意見が分かれ、次の社長の判断で変わった。料理と同じテーブルで子どもや大人が眺める小さな企画も、その会社の実験になっていた。[40]
13299円を300円にする理由
1円で減らす手間
2020年7月、ミラノ風ドリアは299円から300円になった。1円の値上げである。ほかにも169円のライスを150円にするなど価格を整理した。狙いには、硬貨のやり取りを減らすことがあった。客と店員が小銭を数える。その短い作業も、店全体では何度も起きる。感染対策が必要な時期に、接触を減らす意味もあった。[41]
シーフードパエリアも599円から600円へ変わった。末尾を00円か50円へそろえる。1円だけ高くなった料理もあれば、ライスのように19円下がるものもあった。少しでも安く見せるために端数を残す値札から、支払いで使う硬貨を減らす値札へ。低価格という同じ方針の中でも、変える対象は会計にまで及んだ。[41]
実際の運営では、8割の硬貨を減らす目標に対し、店によって6〜8割減った。会計の時間も約3割短くなった。キャッシュレス決済は2021年4月までに全店へ広げた。大きなシステムを入れるだけでなく、値札を見直すことでも仕事を減らした。[42]
昼の営業まで止められるのか
感染対策で会計の小銭や客との接触を減らしていた会社にも、営業そのものを制限される日々が来た。2021年1月、社長の堀埜は決算発表で強い言葉を使った。夜の時短に応じている中で、政府が昼の外出も控えるよう求めたためだった。多くの人を雇う大手チェーンへ十分な協力金が届かないことも訴えた。[43]
原材料の使い方を直し、店員の動きを減らしても、客が席へ来られない状況は別の問題だった。かつて正垣から社長を任され、従業員と家族を支える責任に苦しんだ人が、今度は店を続けるために表へ立って反発した。価格を1円動かす改善と、営業を続けられるかという危機が同時にあった。発言したのは創業者の正垣ではなく、後を継いだ堀埜だった。[43][36]
ロボットに運ばせるのは皿
配膳ロボットの実験でも、店員の仕事をどこまで任せるかを選んだ。[42]
ロボットへ熱い皿を積むと、客が自分で取り出す際の危険もある。そこで実験では食べ終えた皿の回収を任せ、人が料理を運ぶ仕事を続けた。紙に書いてもらった注文は店員が復唱してから端末へ入れる。古い道具を全部残すのでも、新しい機械へ全部任せるのでもない。何を客にさせ、何を店員が担うかを、その場の仕事に合わせて選んだ。[42]
2019年の消費税引き上げ時にも、税込価格を保つ対応を進めた。ワインのグラスを樹脂製にしたのも、安さだけの話ではなかった。割れにくく、運びやすく、片付けやすい。100円のワインを出すために、グラスを扱う手間まで調べた。[44][31]
税込価格を守った2019年にも、全部の商品が無傷で残ったわけではない。イカ料理は漁獲の減少と原価の厳しさが重なってメニューから外した。デザートを増やす対応も進めた。値上げしないと言うだけでは、原料の値段は止まらない。残す料理と外す料理を決め、客が楽しめる組み合わせを別の形で作り直した。[44]
14星付きシェフがアルバイトに来る
高校生に教わる料理人
東京・目黒のイタリア料理店L'asseで星を獲得した村山太一が、2017年からサイゼリヤでアルバイトを始めた。料理の経験なら豊富にある。しかしサイゼリヤの現場では、仕事を知っている高校生に教わる側になった。[45]
働いたのは五反田西口の店だった。2020年の鼎談では、まだ最下位のCランクだと話している。きっかけの1つは、正垣の本の中にあった料理人の力を借りたいという呼びかけだった。[45]
自分で作った方が早いと思う料理人にとって、誰が入っても同じように動ける店は別の技術だった。村山は学んだことを自分の店へ持ち帰った。9人いたスタッフを4人に減らし、営業時間なども見直した。売上が以前より小さくても、利益を残す形へ変えていった。正垣や堀埜との鼎談では、村山自身が自分の店の生産性を厳しく評価している。[45]
感染拡大で自店の売上が前年の半分ほどへ落ちた月にも、村山はわずかながら黒字を残したと報告した。必要な人の数を減らしただけでなく、仕事をどう組むかを変えた結果だった。堀埜は、外から来た人だから見つけられることがあると応じた。チェーン店が高級店の味を学ぶという向きだけでなく、星のある店がチェーン店の働き方を持ち帰る関係が生まれた。[45]
正垣は、そんな村山を社長へ誘うような冗談も言った。料理人の腕を競う舞台とは違う場所で、料理人が学びに来る。皿洗いから始めた会社には、店を回すための蓄積があった。[45]
生ハムが届かなくなる
海外と直接つながる仕組みには、突然切れる危険もあった。2022年、イタリアでアフリカ豚熱が発生し、同国産の豚肉加工品を輸入できなくなった。いつもの生ハムを、いつもの値段で出せなくなる。[46]
代わりを探し、2023年10月にスペイン産のハモン・セラーノを320円で導入した。約1年4カ月ぶりだった。熟成に9カ月以上かける生ハムを、日本の低価格チェーンへ持ってくる。メニューから消えた1品を戻すだけでも、国境の向こうで仕入れを作り直す時間がかかった。[46]
2022年9月、堀埜が社長を退き、松谷秀治が引き継いだ。1984年に入社した松谷も、長く会社の裏側を動かしてきた人だった。[47]
7月の発表で、堀埜の退任理由は一身上の都合とされた。松谷は、資材部長、商品の調達や企画を担う責任者、戦略インフラの責任者を経験していた。創業者が残る会社で、味の素から来た技術者の次は、社内で調達と生産を積み上げた人が社長を担った。[47]
15会長も同じ料理を食べる
入院先へ届いたサイゼリヤ
正垣は自分でもサイゼリヤで食べ続けた。入院中には、妻が料理を運んだ。店で大勢に出しているものを、自分も繰り返し食べる。看板商品の味に納得できなければ、会長であっても手放しでは褒めなかった。[48][20]
2026年に紹介された記憶では、正垣は吉川の拠点で、袋の内側に3%残るソースを2%へ減らすような細部まで考えさせていた。わずかな残量も、多くの店で繰り返せば大きな無駄になる。高級車に乗る経営者に、中古のCorollaへ替えるよう叱った話も残った。客へ価値を返す仕事に、もっとお金を使えるはずだった。[48]
試食では、できたてを食べて満足しなかった。運ぶうちに温度が下がった客の皿でも、味は残るのか。冷めてから食べ、おいしいという褒め言葉より、どこがまずいかを尋ねた。会議も1対1か7人以内へ絞る。1人10分話せば7人でも70分かかる。皿に残るソースと同じように、会議室で使う時間にも目を向けた。[10]
投資家の阿部修平が訪ねたとき、正垣は白衣を着て食品の実験をしていた。安いレストランの会長というより、料理の研究を続ける人だった。卒業研究の時間を作ろうとしていた学生が、店を持った。その後の何十年も、仮説を作り、試し、結果が違えば直す仕事はやめなかった。[49]
SPARXを率いる阿部は、1990年代からこの会社へ投資していた。訪ねた株主へ、正垣は試作品を食べさせ、感想を求めた。阿部には、料理の質に比べて安いという印象だけが強くなりすぎていないかという懸念もあった。数字で評価する側の人も、創業者が味へ費やす時間を見ている。会社を訪ねても、売上と利益の説明だけで話が終わらなかった。[49]
320円になったドリア
2026年8月期、連結売上高は3014億8300万円、営業利益は164億1900万円に達した。1日の客が6人だった2階の店から、3000億円を超える会社になった。[50]
それでも、安く出し続ける仕事は完成しなかった。食材などの原価率は前期の41.9%から43.7%へ上がった。2026年10月29日、メニュー全般で平均6%の値上げに踏み切り、ミラノ風ドリアは300円から320円になった。一方、ランチやモーニング限定メニュー、フレッシュワインは据え置き、ビールは400円から390円へ下げた。会社は価格を維持しきれなかったことを、努力不足と説明した。[51]
全部を同じだけ上げて終わりにはしなかった。何を守り、どこを変えれば、客がまた席に着けるのか。正垣が小さな店の階段で探し始めた答えを、次の経営者たちも探していた。工場を作り、農場の岩を砕き、硬貨を減らしても、メニューの値段は最後まで店の都合だけでは決められない。今日の客が払って、また来たいと思うか。その問いは、320円の皿にも残った。
参考文献・出典 51件
本文の番号に対応する資料です。本人・関係者のインタビュー、当時の取材、企業の発表を参照しています。
- 致知 2024年11月5日取材手記/2025年2月号(2021取材とは別) ↩ 本文
- 常識の反対をいくレストラン経営 ↩ 本文
- サイゼリヤ沿革 ↩ 本文
- 理窓No.504 外食産業と物理学 正垣泰彦氏に聞く ↩ 本文
- 東京大学 正垣泰彦講演(2012年7月2日) ↩ 本文
- TKC・正垣泰彦×坂本孝司対談(2021年) ↩ 本文
- KENJA GLOBAL 正垣泰彦 2010年8月取材(公開テキスト) ↩ 本文
- 安さ美味さで客は来る! ↩ 本文
- 安くておいしい料理は体も頭も幸せにする(2018年ソムリエ165号・2019年公開) ↩ 本文
- TBS がっちりマンデー!!サイゼリヤ(2008年9月14日放送) ↩ 本文
- 大塚商会 BPNavigator 正垣泰彦インタビュー(2010年7月) ↩ 本文
- 食品メーカーと組んで製造直販業を目指したい ↩ 本文
- 辻・本郷 No.163 2015年1月新春対談(公開テキスト再掲) ↩ 本文
- Venture Times・松村厚久インタビュー(2015年) ↩ 本文
- ミラノ風ドリア 価格への挑戦 ↩ 本文
- ミラノ風ドリア 商品紹介 ↩ 本文
- 致知1995年1月号 正垣泰彦インタビュー再録 ↩ 本文
- 正垣泰彦『致知』2021年12月号インタビュー公開再録/JBpress ↩ 本文
- 新卒採用・サイゼリヤの取り組み ↩ 本文
- 毎日食べる会長がミラノ風ドリアはまずいと話す理由 ↩ 本文
- 古賀史健・正垣泰彦取材の回想「あそこのお店の看板メニュー」(2015年) ↩ 本文
- リーダーナビ100 堀埜一成インタビュー(正垣との出会い) ↩ 本文
- 京都大学新聞・堀埜一成インタビュー(2025年) ↩ 本文
- 日本食糧新聞 堀埜一成インタビュー 2009年7月6日 ↩ 本文
- 社長名鑑 堀埜一成本人取材の公開スクリプト 2021年11月 ↩ 本文
- 正垣泰彦本人インタビュー/週刊ダイヤモンド 2009年10月30日(公開部分) ↩ 本文
- サイゼリヤ公式・開発輸入と仙台トマト農場の説明 ↩ 本文
- マイナビ農業・白河高原農場現地取材(2023年) ↩ 本文
- 角忠夫「ものづくりとサービスビジネスの融合」開発工学33巻1号(2013年) ↩ 本文
- リクルートワークス研究所 Works105(2011年4–5月)堀埜一成本人インタビュー「進化する人と組織」 ↩ 本文
- レッツエンジョイ東京・正垣泰彦直撃インタビュー(2019年) ↩ 本文
- よもやの不祥事で断行した顧客の信頼回復策 ↩ 本文
- サイゼリヤ お知らせとお詫び(2008年10月19日、厚労省掲載) ↩ 本文
- デリバティブ契約を解除、社長は減俸 ↩ 本文
- トップメッセージ ↩ 本文
- 創業手帳・堀埜一成インタビュー(2024年) ↩ 本文
- JBpress・堀埜一成の企業変革インタビュー(2023年) ↩ 本文
- おなじみ・堀埜一成のオペレーション取材(2026年) ↩ 本文
- 週刊ダイヤモンド・坂本孝と正垣泰彦の対談(2013年、公開範囲) ↩ 本文
- ライブドアニュース 堀埜一成直接インタビュー(2019年11月15日)脳波研究の当初構想と未実施範囲、間違い探しと正垣の反応 ↩ 本文
- Impress Watch・価格整理とキャッシュレス導入(2020年6月24日) ↩ 本文
- ITmedia・堀埜社長のコロナ禍での運営改革取材(2022年) ↩ 本文
- 女性自身 2021年1月14日 サイゼリヤ堀埜社長の決算発表での発言と外食支援問題 ↩ 本文
- ライブドアニュース 堀埜一成インタビュー 2019年11月19日 ↩ 本文
- 正垣・堀埜・村山太一の鼎談/村山著書の公開抜粋(2020年、39432と同一作品) ↩ 本文
- 東京バーゲンマニア・生ハム再導入に際した広報担当者の取材(2023年) ↩ 本文
- Diamond Chain Store・堀埜退任と松谷社長就任の発表(2022年) ↩ 本文
- Bloomberg・創業者を40年以上知る大山達雄の証言(2026年4月22日) ↩ 本文
- 阿部修平・藤吉雅春対談/正垣への訪問の直接回想(2026年) ↩ 本文
- 2026年8月期 決算短信〔日本基準〕連結 ↩ 本文
- ITmedia・2026年10月29日価格改定と決算の報道 ↩ 本文
写真の作者・利用条件・撮影年は各画像の下に記載。取材資料と写真の出典は別々に確認できます。
※ 円換算は2026年11月2日確認のWise表示値()を使用。取引当時の為替や物価・購買力を再現するものではありません。 為替出典:
本文更新:2026-11-02



